ジェーン・オースティン③ー後期作品の執筆、そして最期

Mowary

6作品すべてが映画化され、今でもさまざまな小説や映画に作品やセリフが引用されている英国作家ジェーン・オースティン。

18世紀終わり、20代前半のジェーン・オースティンは3作を執筆しました。しかし、それらはなかなか出版には至らず、苦悩の30代前半を過ごした後、ようやく作品が出版されて作家としての道を歩みはじめました。

これまでのお話は、ジェーン・オースティン①とジェーン・オースティン②をご参照ください。

今回は、それから残りの3作が書かれた経緯を見ながら、彼女の人生をたどっていきましょう。

1 37〜39歳 (1813-1815年)作家として新たな世界を描く

1813年1月27日に発売された『Pride and Prejudice 高慢と偏見』は大人気となり、第2版、3版と増刷されていきました。

その間にも、ジェーン・オースティンは新しい作品を執筆していました。

20代前半は、女性と結婚を大きなテーマにして、自身の周りの世界を鋭い観察力と表現力で作品にしていたジェーンでしたが、それから時を重ね、彼女の世界は広がっていました。

1)ジェーン・オースティンが生きた当時の社会

ジェーン・オースティンは、出版に際してロンドンの兄ヘンリーのところに滞在し、ヘンリーの妻イライザからロンドンでの社交の世界へも導かれました。また、ショッピングを楽しみ、シアターや展示会にも足を運ぶようになりました。田舎の自分の周りの小さな世界だけではなく、世の中の大きな世界へと目を向けるようになっていたのです。

さらに、海軍で活躍する兄のフランクから、航海中に目にした惨状を聞きます。

当時の英国は、顕著な階級社会でした。

1714年から1837年、イギリスはドイツからきた王ジョージ1世からジョージ4世、そして弟のウィリアム4世が統治する時代、ジョージ王朝・リージェンシー時代でした。

ジョージ王朝・リージェンシー時代について書いた下記記事も、是非ご参照ください。

ジョージ王朝時代・リージェンシー時代ーイギリス歴史区分<中編>

上流階級の人々が社交で贅沢をする一方で、労働者は貧困・病気に苦しむ日々でした。

そして、17世紀アメリカ大陸に植民地を拡大していったイギリスでは、奴隷貿易がおこなれていました。アフリカで奴隷を入手し、アメリカへ輸送して労働力とし、イギリスの経済を発展させていたのです。

30代のジェーンにとって、このことは大きく心を動かしたのでしょう。

彼女はこの社会の不平等さに対する気持ちを、彼女の次の小説に託したのです。

2)” Mansfield Park “ 『マンスフィールド・パーク』の出版

1811年から書き始められた『マンスフィールド・パーク』は、1813年夏に完成しました。

主人公の女性ファニー・プライスは、これまでの作品の主人公と違い、地味で控えめな立場に置かれていました。

貧しいポーツマスの家に生まれた10歳の少女ファニーは、裕福な家に嫁いだファニーの母親の姉の家、バートラム家に奉公に出されます。そこは、”マンスフィールド・パーク”と呼ばれる豪邸でした。
そこでは、ファニーはバートラム家の子供たちとは平等には扱われず、地味な暮らしを送ります。

やがて、近所に引っ越してきたクローフォード家のヘンリーとメアリーがマンスフィールド・パークに顔を出すようになり、バートラム家の娘マライアとジュリア、バートラム家の次男エドモンドを中心に交流が始まります。

ファニーは控えめでありながらも、自分の気持ちを曲げない女性、そこはこれまでのジェーン・オースティン作品の登場人物と一緒です。

1814年5月『マンスフィールド・パーク』は、これまでの2作と同じ出版社、トーマス・エガートン社から出版されました。

2作目の『 Pride and Prejudice 高慢と偏見』は、エガートン社がジェーンからコピーライトを安価で買い取る形で出版され、その後増刷されるほどの人気が出ても、ジェーン・オースティンは収入を得ることはありませんでした。そのため、ジェーンは『マンスフィールド・パーク』はコピーライトは手元に残し、出版のリスクを背負う形でも、出版社へはコミッションを払う契約に戻しました。

1250部刷られた『マンスフィールド・パーク』は、11月には完売になりました。
ジェーンはプロフィットを手にしました。

しかし、これまでのように新聞に評価が出されることはなかったのです。
彼女はがっかりしました。

なぜなのでしょう。

この作品は、これまでと違い政治的な要素を含んでいました。

” マンスフィールド・パーク” に暮らすバートラム家の主人、トーマス・バートラムは、奴隷貿易で利益を得ている設定でした。

”マンスフィールド”という名前自体にも意味がありました。
マンスフィールド卿は、イングランドの最高裁判事も務めた人物でした。彼は、奴隷制に関する裁判において、奴隷制は法的根拠を持たないとの判決を下した人物なのです。

その人物の名前をお屋敷の名前に使い、その屋敷の主人は奴隷を使ってお金儲けをしているという矛盾した皮肉が隠されていました。

それと同時に、貧しい暮らしをしているファニーの家族の様子も顕著に表現されていました。

そのような政治色のあるダークサイドを表した小説であったためか、あるいは、主人公のファニーが、これまでとは違って読者がのめり込めるような輝かしい人物ではなかったためか、世間から賞賛の声は上がらなかったのです。

個人的には、このような背景があることは全く知らずにはじめてこの小説を読んだ時、ただ、ファニーの恋の行方がどうなるのか気になりましたが、彼女の不遇な対応やなかなか発展しない恋愛の展開に、これまでとは違う違和感のようなものを感じました。

この作品も映画化されています。

私は1999年の作品を見ました。
映画は、小説とは少々異なる点がありました。

ファニーの人柄も、小説で受ける印象とは異なり、活発な女性となっています。また、小説ではあからさまに奴隷制に関する批判は出てきませんが、映画ではいくつか出てきます。

3)”Emma” 『エマ』の出版

ジェーン・オースティンは、おそらく『マンスフィールド・パーク』の出版の目処がたった頃、1814年1月からさっそく次作の執筆に取り掛かっていました。
そして、1年と数ヶ月の月日を経て、1815年3月『Emma エマ』が誕生しました。

主人公のエマは、カントリーサイドの裕福な家で困難を知らずに育った21歳の女性。
幼い頃に母親を亡くし、姉は嫁いで家を出ており、父親と2人で暮らしています(執事は何人も家にいますが)。

近くの寄宿学校にいる、両親の身元がわからない女性ハリエットと親しくし、彼女が結婚相手を見つけるサポートをするものの、勘違いで失敗してしまいます。

周りの街の人たちとも交流しながら、自分のあやまちに気づき、自分の幸せも見つけていくお話です。

前作『マンスフィールド・パーク』の主人公ファニー・プライスとは正反対の地位にいるエマ。お金持ちの家のお嬢さまゆえに、パワーがある女性なのです。

街で貧しい暮らしをしている人たちから嫌われてもおかしくない立場にいますが、そそっかしく時に軽率、けれど純粋で思いやりのあるエマの憎めないキャラクターが、読者を物語に夢中にさせてしまいます。

20代の頃描いた作品では、ジェーン自らが投影されたような主人公が登場しましたが、今回のお金持ちのお嬢さまという設定は、どこから思いついたのでしょう?

はい、ジェーンの姪です。

幼い頃にお金持ちの家に養子に出された兄エドワードの長女、ファニー・ナイトとジェーンは仲がよく、手紙の交換をしたりファニーの恋愛相談に乗ったりしていたそうです。
母親を早くに亡くしているという点も、小説のエマと同じです。

また、スティーブントンの家を継いだ長男ジェームズ・オースティンの長女、アンナ・オースティンもまたジェーンと仲がよく、彼女自身も小説を書いてジェーンに見てもらっていたようです。アンナも母親を亡くしています。

エマは、この2人の姪がモデルになっていると言われています。

この『エマ』の出版にあたり、ジェーン・オースティンは2つの冒険をしました。

4)”Emma”『エマ』の出版社と特別装丁版

ジェーン・オースティンは、『エマ』の出版は別の出版社にお願いすることにしました。
その出版社は、John Murray社(ジョン・マーレー)でした。

当時イギリス文学界で活躍していたバイロンやウォルター・スコットの本を出版していた会社です。ジェーンは、自作もそこに肩を並べられるという自信があったのです。

今回も兄のヘンリーが交渉を引き受けました。そして、ジョン・マーレーは『エマ』の出版にあたり、コピーライトを買い取ること、それも『エマ』だけではなく、『センス アンド センシビリティ』と『マンスフィールド・パーク』3作全ての版権を買い取ることを条件として提示したのです。

コピーライトを手放したくないジェーンにとって、決して受け入れられるものではありませんでした。

そしてその後、ヘンリーが病気で倒れ、交渉は中断されてしまったのです。

そこで、ジェーン・オースティンは自ら出版社に出向き、ジョン・マーレーとの交渉の場に立つことにしました。堂々と毅然とした態度で交渉にのぞんだジェーンは、出版権は譲渡せず、コミッションを渡す自費出版形式の了承を勝ち取ったのです。

さらに、『エマ』の出版と同時に『マンスフィールド・パーク』の2刷の契約も成立させました。

さて、病床につくヘンリーを医師が診察にきました。

その医師は、摂政として国を治めていたプリンス・リージェント、後のジョージ4世の医師でもありました。

匿名で出版していたジェーンでしたが、ヘンリーは何人かには、この作品は妹のジェーンが書いているのだと誇らしげに言っていました。今回も医師に、ジェーンの存在を明るみにしてしまうと、医師からジェーンに、プリンス・リージェントの居城であるカールトン・ハウスのライブラリーを案内しますというオファーがもたらされたのです。プリンス・リージェントは、ジェーン・オースティンの本のファンだったのです。

社会への不満を抱いていたジェーンでしたが、この申し出を受けることにしました。
1815年11月ジェーン・オースティンはカールトン・ハウスへ出向き、特別に司書のクラーク氏から図書室を案内してもらいました。

AIイメージ

そして、クラーク氏の提案により、このお礼としてプリンス・リージェントに特別装丁した『エマ』を捧げることにしたのです。

後の国王ジョージ4世に捧げられた『エマ』は、今でも英国王室のライブラリーで大切に保管されています。2025年ジェーン・オースティン生誕250周年には、この『エマ』が期間限定でウィンザー城で一般公開されました。

1815年12月『エマ』が出版されると、みるみるうちに売れていきました。

そして、ジョン・マーレーの友人であるウォルター・スコットからの評価も獲得しました。彼は“Sense and asensibility” と “Pride and Prejudice”のレビューも発表したのです。

しかし、『マンスフィールド・パーク』に関しては、依然としてレビューをもらうことはありませんでした。

『エマ』は2020年に再び映画化されました。
アニャ・テイラー=ジョイが演じるエマは愛らしく、エマの世界観が美しく、そしてコミカルに表現されています。

2 40歳 (1815-1816年)最後の作品と体調の悪化

1)ジェーン・オースティン一家の経済危機

作家として順風満帆に進んでいるように見えたジェーン・オースティンでしたが、再び彼女に経済的危機が迫ってきました。

1814年夏から、チュートン・コテージの大家である兄エドワードが、親戚からチュートンの土地をめぐって訴訟をおこされていました。突如、ジェーンが母とカサンドラ、マルタと暮らすチュートン・コテージを奪われてしまうかもしれないという危機に見舞われたのです。

そして、1816年3月にはロンドンの兄ヘンリーの銀行が倒産に追いやられました。

1815年6月ワーテルローの戦いでナポレオンが大敗しセントヘレナへ幽閉され、ようやくナポレオン戦争が終決しました。その後、軍の数も縮小され、新たに職を求める人々が増え、イギリスの経済は不安定になっていたのです。

ヘンリーの銀行に資産を預けていた兄弟たちも、経済危機と直面することとなりました。父親ジョージの死以来、オースティン家の女性たちが兄弟たちから受けていた支援も、ここで断ち切られることとなったのです。

ナポレオンの台頭と没落について、ハプスブルク家の記事で触れていますので興味がありましたら是非ご覧ください。

12)フランツ2世(1世)ーナポレオンの登場と神聖ローマ帝国の崩壊


ジェーン・オースティンは作家として成功していました。

兄弟たちが経済危機に陥っても、彼女の出版収入で生きていけるのでは、そんな望みを抱いていたジェーンでした。けれど、1816年10月に出版社から受け取った額に驚愕することとなったのです。ジェーンの出版による収入は、期待よりはるかに少なかったのです。

『エマ』が好調だった一方で、ジェーンが2刷と好評を得ることにこだわった『マンスフィールド・パーク』の売れ行きがよくなかったため、自費出版にかかった経費を超える大きな利益を得ることができなったのです。

2)”Persuasion” 『説得(説きふせられて)』の執筆

1815年3月に『エマ』を書き上げると、8月からまた新しい作品の執筆をはじめました。

1年ほどかけて生まれた新作は、“Persuasion” 『説得(説きふせられて)』でした。

『マンスフィールド・パーク』『エマ』と2作続けて、はじめの3作とは違った広い世界を描いてきたジェーン・オースティンでしたが、『説得』は初期の作品のように、ジェーン・オースティン自らが主人公に投影された物語でした。

主人公のアン・エリオットは27歳独身女性。早くに母親を亡くし、未亡人である母の友人ラッセル夫人を母親のように慕っています。

アンは19歳の時に、海軍将校であったフレデリック・ウェントワースと恋愛をし、プロポーズされました。しかし、当時まだ将来が見えない彼との結婚を、ラッセル夫人や家族から反対され、プロポーズを断りました。

しかしそれから8年経ってもなお、アンはウェントワース氏のことが忘れられずにいました。

その頃、アンの家では、父親の贅沢癖が興じて経済状況が厳しくなり、エリオット家のケリンチ邸を貸し出し、家族でバースへ移住することが決まりました。そして、クロフト提督がケリンチ邸へ引っ越してきました。そのクロフト提督の妻の弟は、あのウェントワース氏だったのです。

アンは、ナポレオン戦争で活躍し、出世して財産を得ていたウェントワース大佐と再会します。アンに裏切られたことを許せない思いでいたウェントワース大佐との関係は、はじめはぎこちないものでした。それから、アンの妹メアリー、姪のルイーザとヘンリエッタたちと一緒にウェントワース大佐との交流が始まり、次第にわだかまりが溶けていきます。

ウェントワース大佐が海軍仲間の友人に会いに海辺の町ライムを訪問する際、ルイーザ、ヘンリエッタも同行を希望し、アンも一緒に行く場面があります。

ライムは、ジェーン・オースティンが以前家族と夏を過ごした思い出の場所であり、お気に入りの場所です。ジェーンはその地を、自作の小説に残したかったのですね。

AIイメージ

この物語は、周囲の説得に応じてしまった後悔の気持ちと、そこから再びチャレンジするという前向きな気持ちが純粋に描写されています。

なぜジェーン・オースティンは、小説家としての道を順調に進んでいた時期に、このようなストーリーを描いたのか気になりました。

1814年11月、ジェーンが仲良くしていた姪のアンナが結婚しました。

アンナ自身も小説を書いており、ジェーンにアドバイスを求めたりしていました。けれど、結婚したことにより、実質執筆を続けられなくなっていました。
アンナは1815年の暮れに第一子をもうけています。

姪の結婚、妊娠、出産という一連の出来事を通して、ジェーンは自分自身のことを考えたのかもしれません。自分は結婚しない道を選んだ、それで本当によかったのかと。

『説得』に登場するアン・エリオットは、エリザベス・ベネットやキャサリン・モーランドのように、若い女性が自身の恋愛・結婚に奮闘する立場にいる女性とは違っています。アンは、姪と過ごす、姪の面倒を見る大人の女性の立場にあり、その彼女の恋愛ストーリーが描かれているのです。ウェントワース大佐というジェーンの理想的な男性が登場し、当時のジェーン・オースティンだったら、そのように行動するのではないかと思えるような物語が展開します。

若き日のジェーンが、トム・ルフロイとの恋愛を反対されて別れてしまったことをただ後悔しているのではなく、そのことがあって、それから時を重ね、まだ人生のセカンドチャンスがあるという前向きな気持ちがあったのだと思うのです。

けれど、悲しいことに、この小説の最終章を執筆する頃から、ジェーン・オースティンの体調は悪くなっていったのです。

“Persuasion”は唯一ジェーン・オースティンの自身のオリジナルの原稿が残っている作品です。終盤でのウェントワース大佐とのドラマティックな展開は、彼女自らが修正しながら完成させた跡が残されているのです。

“Persuasion” 『説きふせられて』は何度か映画化されていますが、2007年と2022年の映画がおすすめです。

2022年Netflixで作られた『説得』は、少しモダンなつくりになっています。

3)”Northanger Abbey” 『ノーサンガー・アビー』の書き直し

ジェーン・オースティン②で触れましたが、1803年ジェーン・オースティンは兄のヘンリーを介して、出版社のCrosby社に『スーザン』の出版権を10ポンドで売りました。

しかし、その後本が出版されることはなく、6年後の1809年にコンタクトした際、原稿を取り戻したければ10ポンド支払うことを要求されていました。

当時のジェーンにとって、10ポンドは大金で、支払うことができる額ではありませんでした。

そして、ようやく1816年春、ジェーン・オースティンはヘンリー経由で『スーザン』の原稿を買い戻しました。

しかし、1816年に入ってからジェーンの体調が悪くなっていきました。

6月には保養のためカサンドラと温泉地のチェルトナムへ行っています。
そして”Persuasion”の最終章の執筆中、1816年7月頃からジェーン・オースティンの体調はますます悪化していったと言われています。

それでも、ジェーンは執筆をやめませんでした。

8月に『説得』を書き上げると、さっそく『スーザン』の書き直しを始めました。
主人公の名前は、この時’スーザン’から’キャサリン’に変わっています。

『ノーサンガー・アビー』というタイトルで書き直された作品は、1817年1月に完成しました。

ジェーン・オースティンはこの時点で、出版すべき作品が2作できていたのです。けれど、出版社にコンタクトできる状況にはならなかったようです。

3 41歳 (1817年)ジェーン・オースティンの最期

1)”Sanditon” 『サンディトン』の執筆

ジェーンの病名はわかっていません。結核のような症状が出る癌のような難病にかかっていた可能性が高いということです。

それでも、調子が良くなった時もあり、まだ希望は捨てていませんでした。
そして、ジェーンは最後まで新しい作品の執筆と向き合っていました。

タイトルは“Sanditon サンディトン”。
’サンディトン’は架空の海辺の町の名前です。

シャーロット・ヘイウッドという女性が海辺の町サンディトンを訪れ、そこでさまざまな人たちと交流する様子をコミカルに描いている作品です。
ストーリーには街全体のコミュニティが描かれていました。

病気と闘いながら執筆していた作品の舞台は、海辺の町だったのです。

海辺の町は、ジェーン・オースティンにとって生き返ることができる場所だったのかもしれません。

『サンディトン』は1817年1月27日に書き始められました。
そして2ヶ月も経たないうちに、3月18日が最後の執筆日となりました。

12章書かれた『サンディトン』は未完の状態のまま、ジェーン・オースティンはペンを置くことになったのです。

2)ウィンチェスターでの最期

ジェーン・オースティンの体は弱っていきました。
ジェーン自身も死が近づいていることを感じていたのでしょう。4月には遺言をしたためています。

その後、別のドクターから治療を受けるべく、チュートンよりも大きな町であるウィンチェスターに移動することにしました。

1817年5月27日、ジェーン・オースティンは姉のカサンドラと馬車に乗り、ヘンリーとエドワードの息子ウィリアムに付き添われ、ウィンチェスターへ旅立ちました。

そして、ウィンチェスター大聖堂近くの2階の部屋を借り、カサンドラと暮らしはじめました。

ウィンチェスターには大きな病院がありましたが、ジェーンの症状はかなり悪くなっていたため入院することはできず、ドクターの訪問治療を受けていました。

それでも、少し元気になる日もありました。セダンチェアと呼ばれる箱型の椅子かごのようなものに乗り、外出したこともありました。

そんな状態で、8週間近くを過ごしました。
その8週間はとても短く、そして、長くもあったと思います。

カサンドラは付きっきりでジェーンの看病をしました。

そして、7月18日朝方、ジェーン・オースティンは息を引き取りました。
41歳でした。

カサンドラは姪のファニー・ナイトに宛てて手紙に綴りました。

 I have lost a treasure, such a sister, such a friend as never can have been surpassed
She was the sun of my life, the gilder of every pleasure, the soother of every sorrow
I had not a thought concealed from her
  It is as if I had lost a part of myself

私は宝物を失った
これほどまでに優れた妹であり、友であった者は決して存在し得ない
彼女は私の人生の太陽であり、あらゆる喜びを輝かせ、あらゆる悲しみを癒す者であった
彼女に隠した思いなど一つもなかった
まるで自分の一部を失ったかのようだ

7月24日の朝、ウィンチェスター大聖堂で葬儀が行われました。

当時は葬式に参列できるのは男性だけという習慣があり、この時も兄弟のエドワード、ヘンリー、フランクとジェームズの息子のジェームズ・エドワードの4人だけでした。
ジェームズ自身も体調が悪く、代わりに息子が参列したのです。

カサンドラはジェーンと最期を過ごしたウィンチェスターの部屋の窓から眺めていたのです。

ウィンチェスター大聖堂にあるジェーン・オースティンのメモリアル・ストーンには、”作家”という言葉が刻まれることはありませんでした。

Winchester Cathedral
Image by John Brown from Pixabay

3)最後の2作の出版とカサンドラ

ジェーンは自分の作品の原稿、コピーライトをカサンドラに遺しました。

完成後そのままになっていた2作品“Persuasion”『説得』と “Northanger Abbey”『ノーサンガー・アビー』は、1817年12月20日 John Murray社からセットで出版されました。

ヘンリーが短くジェーンの紹介文も追記したもので、この時、初めて作者としてジェーン・オースティンの名前が記載されたのです。

オースティン家の人びとは、その後長生きしています。
長男のジェームズだけは、ジェーンの死から数年後に病気で他界しています。
ジェーンの母親も、88歳まで生きました。

カサンドラはその後も28年間、チュートン・コテージに住み続けました。

年老いたカサンドラは、ジェーンの死から25年ほど経った後、ジェーンが家族や友人たちと交信した何千通もの手紙を燃やしました。

ジェーンのプライベートを守るためと言われています。

カサンドラはジェーンに関わる書類を丁寧に選別し、161通の手紙だけが残されました。

そして、1845年3月22日カサンドラは72歳でこの世を去りました。

***

3回に渡って記事を書いてきましたが、今回が最終回です。
お付き合いいただき、ありがとうございました。

気になるジェーン・オースティンの作品、是非手にとってお読みいただけるとうれしいです。

ジェーン・オースティン①ー執筆と舞踏会を楽しむ若き日々

ジェーン・オースティン②ーバースへの移住から作家になるまで


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もわりー
Mowary
Ich komme ursprünglich aus Japan. Nach 15 Jahren in Wien lebe ich heute in London.
Ich liebe es, zu schreiben und Neues zu schaffen.

Mit meinen Beiträgen möchte ich Sie auf besondere Reisen voller Geschichten und kleiner Entdeckungen mitnehmen.

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