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ベートーヴェン『交響曲第9番』にまつわるさまざまなストーリー

Mowary

こどもの頃、音楽の時間に『よろこびの歌』を歌いませんでしたか?
歌詞ははっきり覚えていませんが、あのメロディーはよく覚えています。
ピアノを習いはじめた頃に弾いた記憶もあります。

その歌が、ベートーヴェンの『交響曲第9番』第4楽章で歌われる『歓喜の歌』であることを知ったのはいつだったでしょうか。

気づいたら、今の私の中では、ベートーヴェンの『第九』と言えば、当然のように大晦日に演奏される曲だと思っていました。

私はかつてウィーンで暮らしていましたが、ウィーンのコンツェルトハウスでは、12月31日に”ジルベスター(大晦日)コンサート”と題してウィーン交響楽団による『交響曲第9番』の演奏が行われることが定番なのです。

1月1日に楽友協会でウィーン・フィル楽団による『ニューイヤー・コンサート』が行われるのと同じように、ウィーンの恒例行事になっています。

あら、でも、なぜ大晦日に『第九』なのでしょう?
いつからそうなったのでしょう?

気になったので、今回はベートーヴェンの『第九』について見ていくことにしました。

1 ベートーヴェン『交響曲第9番』は兄弟愛と喜びの象徴

まずは、ウィーン交響楽団 Wiener Symohonikerによる大晦日(ドイツ語でジルベスターSilvester)のコンサートについて調べてみました。

1975年12月31日、ウィーン交響楽団はジルベスターコンサートで『第九』を演奏し、それ以来 ”大晦日には第九” が伝統となってきたようです。

では、ウィーン交響楽団以外でジルベスターに『第九』を演奏するオーケストラはいないのでしょうか?

はい、ありました。

ドイツのハンブルク交響楽団とライプチヒのオーケストラもまた、ジルベスターに『第九』を演奏していることがわかりました。

ドイツとオーストリアだけなの?
ベートーヴェンの出身がドイツ、その後オーストリアに移住したから?

それ以外の国では、特に『第九』は特別な曲として見なされていないのでしょうか?

いえいえ、そんなことはありませんでした。

ウィーン交響楽団が大晦日に『第九』の演奏をはじめた1975年より前に、ヨーロッパではすでに『第九』に目をつけていたのです。

1972年1月19日 欧州評議会はベートーヴェンの『交響曲第9番』を欧州の賛歌(アンセム)として採用していました。そして、当時の世界的指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンに、『第九』をピアノ独奏版・吹奏楽版・交響曲版の3つのバージョンへ編曲するよう依頼したのです。

そして、EUでも1985年に『第九』が欧州の賛歌として認定されています。

欧州評議会とは、戦後1949年に主に民主主義・人権の保護を目的として設立された広範な国際機関で46カ国が加盟、そしてEUは、経済・政治統合を目指す機関として27カ国が加盟する機関です。

『第九』の第4楽章の歌詞は、ドイツの詩人フリードリヒ・シラーが1785年に“Ode to Joy (An die Freude – ドイツ語 ) “として書いたものが歌として引用されています。

兄弟愛や歓びを歌った内容で、1年の終わり、そして新しい1年の始まりの際に歌われるべき歌、という見解で、ウィーン交響楽団などによりジルベスターコンサートで演奏されていると言われています。

また、1989年のクリスマスには、ベルリンでレオナルド・バーンシュタイン指揮のもと『交響曲第9番』が演奏されました。
それはちょうど、ベルリンの壁崩壊により、東西統一がなされた時期だったのです。

ヨーロッパだけではなく、日本でも年末に『第九』を歌う風習がありますね。そして、アメリカでも『交響曲第9番』は特別な日に演奏されているようです。

では、このように今でも世界中で特別な曲として讃えられているこの壮大な曲は、いつ、どんな背景から誕生したのでしょうか。

今度は作曲者であるベートーヴェンについて見てみましょう。

12月31日シルベスターコンサートの会場となる
コンツェルトハウスにあるベートーヴェン像

2 ベートーヴェンの生涯

1)ドイツのボンでの生活

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年ドイツのボンで生まれました。
ケルン選帝侯領の宮廷音楽家であった祖父と、声楽家の父を持つベートーヴェンは、幼い頃から父親に音楽の教育を受けました。父親はベートーヴェンの才能を見出して、厳しい音楽レッスンを強いる一方で、自身は過度な飲酒により喉をつぶし、音楽家としての収入が減っていきました。

ベートーヴェンは、1787年16歳ではじめてウィーンを訪れ、モーツァルトと知り合いました。しかしウィーン到着からわずか2週間で、母親の病気の知らせを受けてボンに戻ります。

2ヶ月後には母親が他界、父親の飲酒もひどくなり、2人の弟のためにも、ベートヴェンが家計を支えなければなりませんでした。

2)ウィーンへ移住

1792年22歳を目前にしたベートーヴェンは、ようやく再びウィーンへ旅立ちます。

そしてその後間もなく、父親がボンでなくなります。ベートーヴェンはそれでも、葬儀のためにボンへ戻ることはありませんでした。

ベートーヴェンはウィーンでピアニストとして活躍していく一方で、貴族の令嬢たちへのピアノレッスンも行っていました。その間、恋愛感情を抱く女性たちも登場しますが、音楽家という不安定な身分では貴族家庭に受け入れらることは難しかったのです。ベートーヴェンと恋愛関係にあったのではと言われる女性は何人もいたようですが、ベートーヴェンは生涯独身で過ごしています。

そうしてベートーヴェンの音楽は認められ、作曲家としても名を馳せていきました。

しかし、20代後半からベートーヴェンは難聴に悩まされることになります。

ウィーンで何度も引っ越しを繰り返したベートーヴェンは、ウィーンの北部に居を構えます。そこは現在のウィーン19区、ブドウ畑も近くにあり、自然環境にも恵まれた場所です。

しかし、自身が難聴であることを周りには隠しており、ベートーヴェンは精神的にも追い詰められていきました。絶望した31歳のベートーヴェンは、1802年10月ハイリゲンシュタットの家で2人の弟に宛てて遺書を書きました。

ベートーヴェンが遺書を書いた家は今でも残されており、 ベートーヴェン・ミュージアム(ハイリゲンシュタット遺書の家) として、一般公開されています。

けれど、その後ベートーヴェンは命を断つことなく、再び音楽活動に力を注ぎ、多くの名曲を残すこととなったのです。

3)聴覚を失ったベートーヴェン

たくさんの美しいピアノ曲を作ったベートーヴェンですが、ベートーヴェンと言えば、やはり交響曲作品に触れずにはいられません。

彼が作った交響曲は9つあります。第3番『英雄(エロイカ)』以後の交響曲は、この遺書が書かれた後に作られた作品だということには驚きます。

第5番の『運命』の情熱的な旋律は、誰もが耳にしたことがありますね。

ハイリゲンシュタットの家の近く、小川が流れる散歩道を歩きながら書いたと言われている、自然の穏やかさと強さが感じられるような第6番『田園』、続いて明るい希望が見えるような旋律が印象的な第7番が誕生しました。障害を抱えた苦悩を乗り越えながら、希望を見出したベートーヴェンの世界観が感じられます。

ベートーヴェンの散歩道

ベートーヴェンはその後、40歳頃からほとんど耳が聞こえなくなっていたと言われています。

そして、彼の最後の交響曲となった第9番の作曲に挑みます。

20代前半から心にとめていたシラーの詩を用いて、歓喜の気持ちを表す堂々たる曲を書いたのです。自身はすでに耳が聞こえていない状態で。

1824年5月7日 交響曲第9番はウィーンで初演されました。

当時、54歳のベートーヴェン自らも指揮者の1人として登壇していました。
演奏は大歓喜に包まれて大成功に終わりました。

しかし、耳が聞こえなかったベートーヴェンには、歓喜の声が届いていませんでした。聴衆に背を向けたまま立ち尽くしていましたが、アルト歌手の女性がベートーヴェンに手を差し伸べ、聴衆の方へと振り向かせたところ、拍手喝采をする聴衆の姿が見えたのです。

1827年ベートーヴェンは肝硬変を患い、3月26日56歳でこの世を去りました。

ベートーヴェンの葬儀には異例な人数と言われるほど多くの人が参列し、ウィーン中が天才の死を悼みました。

3 グスタフ・クリムト『ベートーヴェン・フリーズ』

偉大なる音楽家ベートーヴェンの死から35年後、オーストリアにまた新たな芸術家が誕生しました。グスタフ・クリムトです。

1862年ウィーン郊外で誕生したクリムトは、美術の道へと進み、20代の頃は劇場やミュージアムの装飾などを手がけ、名声を手に入れます。その後1897年、ウィーンでは古典的・保守的な美術に反発したウィーン分離派が設立され、35歳のクリムトは、このモダンデザインの道を進む分離派の初代会長となります。

そして、このウィーン分離派の芸術作品の展示場として、セセッション(分離派会館)が建設されました。

1902年に行われた第14回分離派展は、ベートーヴェンをテーマに行われました。

ウィーンで活躍したベートーヴェンの才能、そして苦悩、情熱が、新しい潮流を模索する芸術家たちにとって理想であり、ベートーヴェンへ捧げる作品に情熱をそそいだのです。

そこでは、彫刻家のマックス・フリンガーのベートーヴェンの彫像と並び、クリムトが描いた作品が目玉となりました。

そのクリムトの作品が、『ベートーヴェン・フリーズ』です。

フリーズとは、長く連続した装飾壁画のことを意味しており、ベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章をモチーフとした絵画が、U字型の3つの壁に大きく描かれたものでした。

それは、下記を象徴した寓話的な絵画でした。

左の壁:幸福の象徴である女性の精霊と懇願する男女2人を描き、幸せへの憧れと人類の弱さの苦しみを表現

中心の壁:巨人とその3人の娘を描き、敵対する力である病気・狂気・死を表現

右の壁:楽園の天使の合唱から歓喜・愛を表現

展覧会のオープニングでは、管楽器による第9の4楽章の演奏も行われ、当時の国立オペラ座指揮者によるグスタフ・マーラー自ら指揮者として登壇し、展示場を感動に包みました。

期間中、展覧会には多くの人が足を運び、現在もこのクリムトの『ベートーベン・フリーズ』はセセッションに展示されています。

セセッションのホームページから、是非ご覧ください。

私がはじめて実際にこの壁画をウィーンのセセッションで目にした時、不思議なストーリーが流れるその大胆な描写に目が奪われ、これはいったいなんだろう、と息を飲むような驚きに包まれたことを覚えています。

ベートーヴェンの「第9」、奏でられる音楽を聞いて、その音楽が表す壮大な愛と歓喜の世界観を感じるだけではなく、それを大きな絵に表現する天才画家が同じウィーンで活動していたことに、ただただ感服します。

セセッション(分離派会館)は、ウィーンの中心地国立オペラ座からカールスプラッツ駅を挟んだ反対側にあります。白い建物の上には、金色の円形のドームがのっている奇抜で、そして品のある建物です。

Image by Sonja Kavka from Pixabay

クリムトの代表的な絵画『接吻』は、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿上宮のオーストリア・ギャラリーに展示されています。

***

ロンドンでも12月29日にロイヤル・フィルハーモニー楽団による交響曲第9番の演奏会がおこなれます。

この曲を作ったベートーヴェン、そしてこれまで多くの人たちがこの壮大な曲に心を揺さぶられてきたことに思いを馳せながら、私も今年最後のコンサートを堪能してきたいと思います。
愛と喜びにあふれる未来を祈りながら。

ウィーンのベートーヴェンゆかりの地について書いた記事も、是非ご参照ください。

ベートーベンゆかりの地<前編>ウィーンの街中での軌跡を辿る

ベートーベンゆかりの地<後編>ウィーン郊外で軌跡を辿る旅

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もわりー
Mowary
Ich komme ursprünglich aus Japan. Nach 15 Jahren in Wien lebe ich heute in London.
Ich liebe es, zu schreiben und Neues zu schaffen.

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