Königin Anne – Letzter Herrscher der Stuart-Dynastie – Stuart-Dynastie V

Mowary

1603年から始まったスチュアート朝の時代で起きた大きなできごとを見てきましたが、今回はスチュアート朝の最終回です。

1688年名誉革命 Glorious Revolutionにより、メアリー2世とウィリアム3世による共同統治が始まりました。

そして、1694年にメアリー2世が、1702年にウィリアム3世が亡くなり、メアリー2世の妹であるアンが君主となりました。

アンは37歳で女王の座についてから、49歳で亡くなるまで12年間の統治期間をまっとうしました。

その間、それまでのスチュアート朝君主たちの時代に起きた陰謀事件・戦争・革命などの大きな事件が起きることはありませんでした。

では、アン女王の治世はどのような時代だったのでしょうか。

今回は、政治的な出来事と、それに関連するアン女王の友人関係に焦点を当てて、スチュアート朝最後の時代を見ていきます。

1 アン女王時代の政治的できごと

アン女王の父親は、ジェームズ2世。

カトリックを信仰し、誕生した息子もカトリックの洗礼を受けさせた父親とは反対に、アンは敬虔に英国国教会を信仰していました。そして、父親であるジェームズ2世を廃位しようという目論見でウィリアム3世がオランダから上陸した時も、父親ではなくウィリアム3世側に加担したのです。そして名誉革命がおきました。

その後メアリ2世、ウィリアム3世が亡くなり、1702年アンは37歳で女王に即位しました。

では、アン女王統治下のできごとを、2つ取り上げてみましょう。

1)スコットランドとイングランドの統合

1603年スチュアート朝のジェームズ7世がスコットランドからロンドンへ移り、イングランドのジェームズ1世として即位した時から、イングランドとスコットランドは同君連合を築いてきました。けれど、スコットランドは独立主権国家としての立場を望んでいました。

アンはそんな状況を変えようと尽力し、ようやく1707年イングランドとスコットランドの合同法が成立し、グレートブリテン王国が成立したのです。

アンの時代にスコットランドとイングランドが統合した背景には、後継者の問題がありました。

アン女王の後継者問題

アンが即位した1702年の時点で、アンには後継者がいませんでした。

アンは、1683年18歳の時にデンマーク王子のジョージ・オブ・デンマークと結婚し、子を宿します。彼女は生涯17回もの妊娠をするのですが、残念なことに、流産・死産を繰り返し、この世に生を受けた子供たちもいましたが、皆若くして亡くなっていました。

イングランドとスコットランドが分立したままであれば、アンが亡き後王位が分裂してしまう可能性もありました。そして、スコットランドではカトリック教徒であるスチュアート家の後継者を王として擁立する可能性があったのです。それは、名誉革命でフランスへ逃避していたチャールズ2世の息子、ジェームズ・エドワード・スチュアートです。

アンは熱心なプロテスタント擁護者であったため、このことを阻止するべく、イングランドとスコットランドの統一に力を注ぎ、1707年合同法 Act of Union 1707が成立したのです。

AIによるイメージ画

2) スペイン継承戦争

アンが女王の座にあった当時、ヨーロッパ大陸ではスペイン継承戦争が勃発しており、イングランドもまた、この国際的な戦いに参戦していました。

1700年スペインハプスブルク家のカルロス2世が世継ぎを残さずに亡くなると、ルイ14世統治下のフランスと、オーストリアハプスブルク家の間で後継者争いが起きていたのです。

イギリスは、宿敵フランスがスペインを同君連合として強大化することを回避すべく、オランダとともにオーストリア側についていました。

この戦いでイギリス軍の司令官として活躍した人物が、マールバラ公ジョン・チャーチルでした。

戦場はスペインからドイツ、ベルギー、イタリアまで広がりました。

ドイツのブリンドハイム、英語読みでブレナムでの戦いで、ジョン・チャーチルの軍が大勝したことで、イングランドでは戦争を支持する気運が高まっていました。

その当時のイングランド議会では、トーリー党とホイッグ党の両派が政権の座を争い、対立を深めていました。

トーリー党は英国国教会を支持し、国内の上流階級を優遇、慎重な外交政策を検討していました。一方でホイッグ党は、英国国教会以外のプロテスタント支持をしており、商人や金融業者が代表についていました。

そして、ホイッグ党がフランス勢力の拡大を阻止すべくスペイン継承戦争を支持する一方で、トーリー党は戦争により増大する国家債務を批判していました。

最終的には、1713年ユトレヒト条約を結び、スペイン継承戦争は終結しました。

スペイン継承戦争については、ハプスブルク家の記事でも記載していますので、ぜひご参照ください。

*

このような政治的背景を頭に入れて、今度はアン女王の友人関係について見ていきましょう。

2 アン女王の友人関係

まずは、アン女王について改めてふれておきます。

アンが誕生したのは1665年のこと。ロンドンのセント・ジェームズ宮殿にて、父ジェームズ2世と母アン・ハイドの間の次女としてこの世に生を受けました。姉には後のメアリー2世がいます。他にも兄弟は授かりましたが、みな幼くしてこの世を去り、結果としてメアリーとアンの2人姉妹として育つことになったのです。

6歳の頃、母親アン・ハイドが亡くなり、カトリックに改宗していた父ジェームズ2世は、2年後の1673年、カトリック教徒のメアリー・オブ・モデナと再婚します。当時ジェームズは40歳、再婚相手のメアリーは15歳でした。11歳の娘メアリーと継母は4歳しか年が離れていませんでした。

ジェームズ2世とメアリー・オブ・モデナは、何人か子供を授かりましたが、幼くして夭折しており、後継者がいませんでした。そして、メアリーとアンが王位を継承する可能性が高くなっていたのです。

アンは、1683年 18歳の時、デンマーク=ノルウェーの国王の次男、ジョージ・オブ・デンマークと結婚しました。夫婦仲はよく、子供も授かりましたが、流産・死産のほか、11歳で亡くなったウィリアムよりも長生きをした子供もいなかったのです。アンは17回もの妊娠をし、その度に死に遭遇するという状況におかれていたのです。心身ともに壊れていったとしてもおかしいことではありません。アンが最後に妊娠したのは1700年、また死産でした。

1702年に37歳で王位を継承した当時、アンの身体は肥満と衰えにより脆弱な状態にありました。介助なしの自力での歩行はもはや困難な状態でした。

そんなアン女王には、親しい友人がいました。
その女性は、サラ・チャーチルでした。

1)サラ・チャーチル

* アンとサラの出会い

アンとサラが初めて出会ったのは、アンが8歳の時、13歳のサラがアンの継母であるメアリー・オブ・モデナのメイド・オブ・オナーとして宮廷に入った頃だと言われています。

元来もの静かで控えめな性格のアンは、対照的に鋭い思考力と機知に富んだ率直な性格のサラに惹かれ、友好を築いていきました。

2人は王室の階層構造から離れた友情を形成するため、アン女王は”モーリー夫人 Mrs Morey” 、サラは”フリーマン夫人Mrs Freeman”というコードネームを使ってお互いを呼び合っていました。

1683年アンがジョージ・オブ・デンマークと結婚した際に、サラはアンの寝室の夫人(lady of the bed chamber)になり、さらに1685年にはその中でも一番の女主人の地位に就きました。

* サラの夫、ジョン・チャーチル

サラは、ジョン・チャーチルと結婚していました。

そう、彼はスペイン継承戦争に際に、アン女王により陸軍総司令官に任命された人物です。

ジョン・チャーチルは優秀な軍司令官でしたが、アンの姉であるメアリー2世とウィリアム3世は彼を信用していませんでした。なぜなら、彼は名誉革命時にはウィリアム3世に協力しましたが、フランスへ逃亡したジェームズ2世とも手紙のやりとりをしているという話もあり、ジャコバイト派である疑いもあったからです。

また、メアリー2世とウィリアム3世は、アンとサラの友好関係にも難色を示していました。2人はサラの議会への積極的な態度を、アンを操っており、アンが女王になった際には権力を掌握しようとしていると考えたのです。

しかし、アンは姉たちの意見よりも、サラの友情の方に忠実な態度を取りました。

アンとメアリー姉妹の仲は険悪となり、アンは宮殿を出て、サイオンハウスへ住むようになりました。そこは、アンの親しい友人サマセット公爵が所有していたロンドン西部にある家でした。広大な公園があるこのサイオンハウスは、現在は一般公開されています。

サイオンハウス Syon House

メアリーは一度サイオンハウスにいるアンを訪ねたことがありますが、この姉妹の仲違いは、残念ながらメアリーが亡くなるまで解消されることはなかったのです。けれど、メアリー2世が亡くなった際、アンは悲しみにくれ、同様に悲しみに打ちひしがれたウィリアム3世と和解し、セントジェームズ宮殿へ戻ることになったのです。

1702年アンが女王に即位すると、ジョン・チャーチルは軍司令官としての活躍を讃えられ、アン女王によりマールバラ公爵の地位を与えられました。

さらに、1704年ジョン・チャーチルが陸軍総司令官として率いたスペイン継承戦争で勝利を収めると、アン女王は報酬としてジョンとサラに土地を与えました。そこには後に、その戦いの地の英語名をとり、ブレナム宮殿が建設されました。

ブレナム宮殿

*

こうして、アン女王とサラ・チャーチルの間に強固な友情が築かれていったように見えましたが、やがて、アンとサラは険悪な関係となっていくのです。

それは、新たに登場したメイド、アビゲイルの存在が大きく影響していました。

2)アビゲイル・メイシャム

1704年頃、サラの従姉妹で宮廷のメイドとして働くいていたアビゲイルは、ケンジントン宮殿のアンの寝室係として採用されることになりました。

その頃、サラとアンは政治的政策面でも意見がすれ違うようになっていました。

トーリー党を支持するアンに対して、サラは、スペイン継承戦争を積極的に推し進めるホイッグ党を優遇するように口出しし、時にはアンを操るような支配的な態度も見せました。

そんな中現れたアビゲイルは、大人しくアンにとって慰めの存在となっていったのです。

アンがアビゲイルを贔屓するようになると、サラには嫉妬と怒りが芽生え、アンとサラの友情は破綻をきたしていきました。

また、トーリー党のロバート・ハーレーとアビゲイルは親族であり、彼はアビゲイルを利用して女王に近づくようになりました。

1707年、アビゲイルは、王配であるアンの夫ジョージの従者であるサミュエル・メイシャムと結婚します。そして、アビゲイルはアンとの関係を強め、サラはアンとの溝を深めていきました。

1708年10月アンの夫ジョージが亡くなり、アンは孤独で寂しい時期を迎えることになりました。

アン女王の寝室 AIによるイメージ画

***

1709年にはスペイン継承戦争でジョン・チャーチル率いる連合軍が大打撃を受け、世論も戦争反対の流れへと向かいます。

そして、1710年サラは最後にアンに対して圧力をかけ、2人の友情は破綻、1711年初頭アンはサラを解任し、2人の関係は終結しました。

同年、ハプスブルク家のヨーゼフ1世が亡くなると、スペイン継承戦争の流れも変わりました。ヨーゼフ1世の後を継いだカール6世がスペインまで継承してしまうと、再びハプスブルク家の強大化が危惧されることになり、結局フランスのフィリップがフランスの王位を放棄する形でスペイン王となることで戦争は決着したのです。

ジョン・チャーチルはさらなる戦争を主張していましたが、アン女王により解任され、さらに軍資金の横領が報告され、総司令官の地位も失います。

アンはその後、次第に体調を悪化させ、1714年ケンジントン宮殿で息を引き取りました。
49歳でした。彼女の遺体は、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。

3)映画「女王陛下のお気に入り The Favourite」

アン女王とサラ、アビゲイルの関係は、映画「女王陛下のお気に入り The Favourite 」で描かれています。

攻撃的なサラに対して、優しく穏健なアビゲイが重用されるようになったという美しい話ではなく、計算高いアビゲイルが描かれ、脚色されたストーリーのようにも見えます。

アンとサラの親密な友情は、映画の中では恋愛感情として描かれています。
アンとアビゲイルとの関係も同様です。

実際、彼女たちにそのような恋愛的な感情があったのかどうかを裏付けるものは、残された手紙でしか知ることができません。嫉妬深い女性同士の親密な関係で、時に手紙の中で恋愛的な表現が出てきてもおかしくないのではと思いますが、彼女たちはお互いに男性と結婚して子供を授かっているということは事実です。

映画の中でアン女王を演じているオリビア・コールマン Olivia Colemanは、Netflixのエリザベス2世を描いたドラマ「ザ・クラウン」の中でも、2代目エリザベス女王を演じています。なんだかすっかり女王のイメージが定着してしまいました!

1でお話した政治的背景を知っておくと、より映画も楽しめますよ!

3 アン女王にまつわるお話

1)ブレナム宮殿

アン女王が、スペイン継承戦争で活躍したジョン・チャーチルに献上した土地には、ブレナム宮殿が建てられました。宮殿は一般公開されており、中を見学することができます。

ブレナム宮殿の建設は、1705年に始まり、15年以上の歳月を経て1722年に完成しました。

サラが建設作業を監督し、宮殿の主な部分ができた後、サラはそこに移り住みました。

ジェームズ・ソーンヒルが手がけた天井画や軍事的勝利を描いたタペストリーなどが美しいステートルーム、壮大なライブラリーなどを実際に見学することができます。

また、ジョン・チャーチルは、第2時世界大戦下から戦後のイギリスを支えた偉大な首相ウィンストン・チャーチルの先祖に当たります。

ウィンストン・チャーチルは、このブレナム宮殿で誕生しました。

宮殿の中には、チャーチルが誕生した部屋もあり、大勢のチャーチルファンを魅了しています。

宮殿の周囲には広大な庭園も広がり、ゆったりと散策を楽しむのも見どころのひとつとなっています。

そして、ブレナム宮殿にはもう一つの楽しみ方があります。

毎年クリスマスの時期になると、この宮殿全体がファンタジーの世界に様変わりするのです。

以前私が訪問した時は、ブレナム宮殿は「眠れる森の美女」の舞台になっていました。

おとぎの世界に入り込んでしまったような、きらびやかなすばらしい展示を楽しむことができました。

またクリスマスの時期、夜になると、ブレナム宮殿のガーデンでは見事なイルミネーションツアーが催され、寒さも忘れて光の展示を満喫することができるのです。

このクリスマスの特別な展示と夜のイルミネーションツアーは、予約制です。ウェブサイトからご確認ください。

2026年のクリスマスは、シンデレラの世界が待っているようですよ!

2)紅茶 クイーン・アン

さて、ロンドンと言えば、紅茶ですよね。

そして、ロンドンの紅茶と言えば、フォートナム&メイソン Fortnum & Masonのお店が有名ですね。

ピカデリー通りにある本店をはじめ、主要駅や空港で売られているフォートナム&メイソンの紅茶を飲んだことがある方も多いのではないでしょうか。

イングリッシュ・ブレックファースト、アールグレー、ダージリン、アッサムなど紅茶の種類はたくさんありますが、このフォートナム&メイソンが販売している紅茶のブランドの一つに、 “クイーン・アン”という名の紅茶があることはご存知ですか?

この紅茶のクイーン・アンは、スチュアート朝のアン女王のことなのです。

フォートナム&メイソンとは、フォートナムとメイソンという2人の名前で、1707年に高級食品やお茶を扱う商店として創業しました。

1907年創業200周年を迎えた際、創業時の君主アン女王の名前を使って、特別にクイーン・アンという名前の紅茶を販売するようになったのだそうです。

紅茶クイーン・アンは、強いアッサムとセイロンの茶葉を組み合わせたブレンドティーです。

皆さんも紅茶の”クイーン・アン”を飲みながら、アン女王の時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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1714年8月1日アン女王が亡くなったあとは、プロテスタントを信仰する近親者であったドイツのハノーバー朝のジョージ(ドイツ語名 ゲオルク)をロンドンに迎えることになり、ジェージ王朝時代が始まりました。


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もわりー
Mowary
Ich komme ursprünglich aus Japan. Nach 15 Jahren in Wien lebe ich heute in London.
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