火薬陰謀事件 Gunpowder Plot とガイ・フォークス - スチュアート朝①

Mowary

以前、よく耳にするイギリス史の王朝として、テューダー朝、ジョージ王朝、ヴィクトリア朝の3つの王朝をとりあげました。

それからずいぶん時間が経ってしまいましたが、ふたたびイギリス史に目をむけようと思います。

聞きなれない名前かもしれませんが、スチュアート朝という時代があったことはご存じでしょうか?

スチュアート朝の時代には、現代のイギリスの王朝や議会の習慣につながる重大なできごとがいくつもありました。

今回はまず、ガンパウダー・プロットとよばれる火薬陰謀事件について見ていきます。

イギリスに住んでいると、11月5日に近所で花火があがる音をよく耳にします。
はじめは、なんで今頃花火? と思いました。

これは、ガイ・フォークス・ナイトやボンファイヤー・ナイトとよばれる日の花火だったのです。

では、それはいったいなんのことなのでしょうか?
さっそく見ていきましょう。

1 火薬陰謀事件 ガンパウダー・プロット Gunpowder Plotとは?

1605年11月4日深夜、イングランドの国会議事堂であるウェストミンスター宮殿貴族院の地下の貯蔵庫から、36個の火薬樽が発見されました。そして、そこにいたガイ・フォークスという名の人物が逮捕され、のちに処刑されました。

ガイ・フォークスは、11月5日の議会開会の日に、国会議事堂を爆破させる計画を立てていたのです。その日は、国王ジェームズ1世、長男ヘンリー王子、主要な大臣、そして多くのプロテスタント貴族が同時にあつまる貴重な日だったのです。

しかしその10日ほど前、イングランドの貴族モンティーグル卿が、議会で恐ろしいことが起こる、議会には出席するなという内容が書かれた匿名の手紙を受け取っていました。それを受けて、国王と政府は捜索を開始したのです。

結果、国会議事堂爆破は失敗に終わりました。

もしこの計画が実行されていたら、国王をはじめ多くの命が奪われていました。
いったいなぜ、このような悪逆な計画が持ち上がったのでしょうか。

この事件の登場人物3人に焦点をあてて、事件の流れを見ていきましょう。

2 スチュアート朝 ジェームズ1世

1603年テューダー朝最後の女王エリザベス1世が子孫を残さず亡くなると、血筋上もっとも正当な後継者であったスコットランド王ジェームズ6世が、ジェームズ1世としてイングランドの王に即位しました。

ここではまず、この事件の背景を紐解く上で重要となるイギリスの宗教について触れておきます。

1)イングランドの宗教問題

古代ローマ帝国が北上してブリテン島を支配して以来、約1000年もの間イギリスはローマ・カトリックのキリスト教を信仰していました。しかし、1534年テューダー朝のヘンリー8世は自身の離婚がカトリックで認められないことを理由に、ローマ教皇と決別し、プロテスタント系の英国国教会を設立しました。

だからといって、これまで1000年もの間カトリックを信仰してきた人たちが、全員そろって、今日からカトリックではなく英国国教会を信仰します、ということにはなりませんよね。

カトリックは少数派として残り続けていました。

以来、イングランドではカトリックとプロテスタントの争いが絶えませんでした。

国を統治する王の立場でも、ヘンリー8世以後、カトリックを信奉するメアリー1世、プロテスタントを信奉するエリザベス1世と信仰が違い、そのたびに国民は異教徒としてのつらい立場を強いられてきたのです。

エリザベス1世は、カトリック信仰者に対して、当初寛容な姿勢をとってきましたが、カトリック信者により、カトリック教徒であるスコットランドのメアリー・スチュアートを王座につけようとする陰謀が発覚して以来、カトリックを脅威とみなすようになりました。

そして、従姉妹であるメアリー・スチュアートを最終的に処刑するに至り、カトリック教徒とは対立関係を深めていました。

そして1603年、新しくジェームズ1世の治世がはじまったのです。

テューダー朝のお話でも触れているので是非ご参照ください。

Die Tudor- und die Elizabeth-Ära – Zeitalter der britischen Geschichte – Teil 1

2)プロテスタントを信仰するジェームズ1世

ジェームズ1世の母親は、エリザベス1世が処刑したメアリー・スチュアートでした。

しかし、ジェームズ1世自身はプロテスタントを信仰していました。

イングランドのカトリック教徒たちは、カトリック教徒であったメアリー・スチュアートが母親であるジェームズ1世が王になれば、カトリックに対しても寛容になるのではないかと思っていました。

一方で、国王となったジェームズ1世は、政治的安定を維持するためには二つの宗派が存在することは不利と考えており、さらにカトリック教徒にとってはローマ教皇が国王より権限が強いことを脅威に感じ、カトリックに対して厳しい姿勢をとりました。

こうして、カトリック教徒たちが過激な手段を選ぶ道筋が敷かれていったのです。

2 ロバート・ケイツビー

国会議事堂爆破を計画した人物は、ガイ・フォークスではありませんでした。

首謀者は、ロバート・ケイツビーという人物でした。

カトリック教徒のケイツビー一家は、カトリックを信仰するということだけで肩身のせまい思いをしてきました。ロバート・ケイツビーは、1601年にもカトリック教徒のエセックス伯爵がエリザベス1世に対して起こした反乱に参加しており、その際にも高額な罰金を支払わされました。

そんな風に不満をかかえていたケイツビーにとって、ジェームズ1世が即位したことは希望であったのです。

しかし実際は、ジェームズ1世はケイツビーの期待を裏切り、カトリックに寛容にはなりませんでした。

*当時のヨーロッパの宗教情勢

ここで、当時のヨーロッパ内の宗教情勢についてお伝えします。

当時カトリックとプロテスタントの間で争いが起きていたのは、イギリスだけではありませんでした。そもそも1517年にドイツでルターによる宗教改革が起き、プロテスタント派が誕生しました。ハプスブルク家の支配下にあったドイツ・スペイン・オランダでも長期にわたる宗教戦争が起きていました。

1568年からはじまった、敬虔なカトリック教徒であるフェリペ2世治世下のスペイン・ハプスブルク家と、オランダのプロテスタント系カルヴァン派との対立は、オランダの独立戦争ともなった80年戦争と呼ばれる長期にわたる戦いとなりました。

一時はイギリスもオランダ側を支援する動きに出たことにより、1588年スペインがイギリスを襲撃するアルマダの海戦が起きましたが、ここでイギリスはみごとスペインを撃退していました。

ハプスブルク家の記事の中でもふれているので、是非ご参照ください。

5)フェリペ2世とマクシミリアン2世

ケイツビーのようなカトリック信者にとって、スペインの存在は大きく、イギリス内の宗教政策を変えるためにはスペインを味方につけたかったのです。スペインもアルマダ海戦のつづきを望んでいるのではないかと期待し、実際にスペイン側に接触もはかりました。

しかし、ジェームズ1世は国王に即位するとすぐに、スペインと和平を結ぶ動きに出ました。

1604年5月から8月には、ロンドンのサマセット・ハウスでスペインとイギリスとの会議が開かれ、ついにスペインとイギリスの間にロンドン条約と呼ばれる和平が締結されたのです。

そうして、ケイツビーは、自分たちがことを起こす以外に道は残されていないと考えるに至りました。

*

ケイツビーは仲間を集めました。彼は、人を惹きつけるリーダーシップを持っていた人物だったと言われています。

そこには、ケイツビーの従兄弟トーマス・ウィンター、ジョン・ライト、トーマス・パーシーそしてガイ・フォークスが集まりました。

3 ガイ・フォークス

1570年ガイ・フォークスはヨーク市のプロテスタントの家庭に生まれました。

しかし、8歳のころ父親が亡くなり、母親はカトリック教徒の男性と結婚し、ガイ・フォークスもカトリックに改宗したのです。

ガイ・フォークスは、ヨークで後にガンパウダー・プロットの仲間となるジョン・ライトとクリストファー・ライト兄弟と同じ学校に通っていました。

その後、ガイ・フォークスはヨークの町を出て、外国へと旅立ちました。

当時起きていた、カルヴァン派のオランダとカトリックのスペインとの戦いで、スペイン側の兵士として従軍したのです。

1603年、イングランドの治世はエリザベス1世からジェームズ1世へと変わりました。

ジェームズ1世のカトリック教徒への政策は、寛容になるどころではなく、イングランドとスペインは和平を結ぶという事態になっていました。

その時、スペインのガイ・フォークスのもとにトーマス・ウィンターがやってきました。

ロバート・ケイツビー率いる、ガンパウダー・プロットの仲間にならないかと誘われたのです。

それから、ガイ・フォークスは故郷イングランドへ戻りました。

1)陰謀計画の内容

国会議事堂爆破計画は、1年以上かけて進んでいきました。

陰謀計画の仲間の一人トーマス・パーシーは、従兄弟のノーサンバーランド伯爵を通じてジェームス1世国王の護衛隊員の地位を得ており、ウェストミンスター宮殿の隣の家を借りることができました。ガイ・フォークスは「ジョン・ジョンソン」という偽名を使って、その家の召使としてそこに住み、貴族院へのトンネルを掘る計画を進めていました。その後、貴族院の真下の地下室を借りることができ、トンネル掘削作業はなくなりました。

そこに、36個の火薬樽を運び込んだのです。

ウェストミンスター宮殿

ガイ・フォークスが地下室から貴族院を爆破する一方で、ロバート・ケイツビーたちは別の計画も立てていました。

イングランド中部ウォーリックシャーのクーム・アビーに住んでいる、9歳のジェームズ1世の娘エリザベスを誘拐し、彼女を女王とするカトリックの傀儡政権を樹立し、将来的にエリザベスをカトリックに染めようという計画でした。

5人ではじめたこの陰謀計画は、次第にカトリックの親類・友人へと広がり、仲間が増えていきました。

そして11月5日を前に、密告の手紙が匿名で出されてしまい、国王指示による政府の捜索が始まったのです。

2)陰謀発覚後

1605年11月4日深夜、貴族院の地下室に捜索隊が乗り込みました。

そして、火薬樽がみつかり、ガイ・フォークスは逮捕され、ロンドン塔へ連行されました。

それでもガイ・フォークスは、別の計画は続行すると考え、仲間のことを打ち明けようとはしませんでした。そして、国王の指示のもと、残虐な拷問を受けることとなりました。

実際、ガイ・フォークスが捕まったことを知ったケイツビーたち一行は、計画通りイングランド中部地方へ急いで向かいました。

エリザベス王女は、即座に危険を案じてクーム・アビーから退避させられていました。

11月8日、ケイツビーたちはイングランド中部スタッフォードシャーで捕まり、その場で射殺されました。

ひどい拷問に耐えかね、ガイ・フォークスが次第に事実を打ち明けるようになった頃には、すでにケイツビーたちは身動きとれない状態となり、命を落としていったのです。

ガイ・フォークスとほかに捕まった仲間たちは、1606年1月27日ウェストミンスター・ホールで裁判にかけられ、大逆罪の判決が下り、31日に処刑されました。

4 ガイ・フォークス・ナイトとガイ・フォークスのマスク

このガンパウダー・プロット(火薬陰謀事件)を通して、今でも行われている慣習があります。

1)ガイ・フォークス・ナイト

ジェームズ1世は、このできごとは決して忘れられてはならないこと、神が国王に味方してくれたすばらしい日として記念日に制定しました。

そして、11月5日はガイ・フォークス・ナイトやボンファイヤー・ナイトと呼ばれるようになり、焚き火をたいたり、花火を打ち上げたりしてお祝いをする日となりました。

11月5日に近所で打ちあがる花火は、このガイ・フォークス・ナイトの花火だったのです。

また、現在でも議会開会式の前には、近衛兵がウェストミンスター宮殿の地下室を捜索することが、伝統的儀式として続いているそうです。

2)ガイ・フォークスのマスク

一方で、近年では反抗や抗議のシンボルとして、ガイ・フォークスのマスクをかぶることが慣習となってきました。

実際、マスクはガイ・フォークスが身に着けていたわけではありません。

18世紀の終わり頃には、ガイ・フォークス・ナイトの日にガイ・フォークスを模した人形を持って歩き、焚き火で燃やす習わしも生まれました。そして、子供たちが小銭を乞うためにこれらの人形を作り、ろうや紙で作ったマスクを着用するようになったという話はあります。

それとは別に、ガイ・フォークスのマスクが世界的に有名になるできごとがありました。

1982年、イギリスのコミック雑誌に『Vフォー・ヴェンデッタ』 という漫画の連載がはじまりました。独裁政権下の近未来のイギリスを舞台に、謎の革命家 “V”が国家転覆をねらって動くストーリーです。

2005年には映画化もされ、世界的に人気となりました。

この革命家”V”がかぶっていた仮面は、イラストレーターのデビット・ロイドが制作したものであり、”ガイ・フォークス・マスク”と呼びました。

デビット・ロイドは、ガイ・フォークスの反逆の精神を称えたいという気持ちから、ガイ・フォークスにふさわしいイメージとしてイラストを考案したそうです。

Image by Jan from Pixabay

***

1605年カトリック教徒たちによる陰謀は失敗に終わりました。
結果、その後国家では反カトリック感情が強くなっていきました。

そして、火薬陰謀事件から約40年後、イングランドではまた新たに宗教も関係した戦争が起こることとなるのです。

つづく


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もわりー
Mowary
Ich komme ursprünglich aus Japan. Nach 15 Jahren in Wien lebe ich heute in London.
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