知っていると面白い! よく耳にするイギリス歴史の時代区分 <前編> ー テューダー朝とエリザベス朝
イギリスを訪れた時、イギリスの観光地について聞いた時、イギリス文学や映画にふれた時などイギリスの話になるとテューダー朝、エリザベス朝、ビクトリア朝、リージェンシー時代という言葉を耳にすることがありますよね。けれど、イギリス史に親しみがなければ、いったいいつのことなのか、どんな時代なのかわからずに聞き流してしまうことありませんか?
そこで、イギリスのお話を聞くときに、頭に入れておくとより面白くなるこの4つの時代区分について、3回にわたって一緒に見ていきたいと思います。
前編ではテューダー朝とエリザベス朝のお話です。
1 イギリス テューダー朝
テューダー朝とは1485年から1603年までのイギリス王朝の名前です。
日本史を見てみると、1477年に応仁の乱が終わり、それから下克上の世の中が始まった戦国時代に当たりますね。1521年に武田信玄が誕生、1554年には織田信長が誕生。江戸幕府が開かれた年は、ちょうどテューダー朝が終わりを告げた年と同じ1603年なのです。
時を同じくして、イギリスでも偉大なる人物が君臨し、大きく成長を遂げた時代となりました。
テューダー朝のことを知るために、おさえておきたい主要人物・言葉をここでは3つのテーマに分けて見ていきます。
1)ヘンリー8世
テューダー朝と言えば、まず覚えておきたい王の名前がヘンリー8世です。
織田信長のように偉大なるカリスマ性を発揮した人物だったからでしょうか?
それは間違ってはいません。けれど、彼はどちらかというと悪名高い王様だったのです。
彼は生涯で6回も結婚をし、そのうち2人の妻を処刑しているというなんとも残酷なお話があるのです。
ヘンリー8世は1491年、当時の国王ヘンリー7世の次男として誕生しました。そう、次男だったため、国王になるとは思っていなかったのですが、兄のアーサーが病死したため、ヘンリーが国王を継ぐこととなったのです。
アーサーが病死した時はまだ15歳という若さでしたが、すでにスペイン王族の娘、キャサリン・オブ・アラゴンと結婚していました。そして、兄アーサーの死後、彼女は弟のヘンリーと結婚をしました。2人は初めは仲睦まじく過ごしていたと言われていますが、キャサリンとの間に王子が誕生しなかったことをきっかけに、次第に険悪になっていきました。実際王子は誕生したのですが、すぐに夭逝してしまったのです。
けれど、ヘンリーとキャサリンとの間には1人の娘がいました。彼女の名前はメアリーです。彼女は後に、”ブラッディーメアリー”と呼ばれる女王になります。
ヘンリーは何人かの愛人をかかえていましたが、その中の1人、キャサリンの侍女であるアン・ブーリンは愛人ではなく正妻になることを望みました。そしてヘンリーは、キャサリンとの離婚を申し出たのです。
しかし、キリスト教カトリックでは離婚は認められていませんでした。そこで、ヘンリーはローマ教皇率いるカトリックを離脱し、新たに英国国教会を設立したのです。このことは、後に英国でカトリックを信奉する人々を苦しめる悲劇へとつながるのです。
アン・ブーリンは自分なら世継ぎの男の子を産みますと強気な発言をしていましたが、生まれてきたのは女の子でした。その後も男児を産むことができず、ヘンリー8世の愛情は覚めていきました。そして、アン・ブーリンに実弟との姦通罪の汚名をきせ、ロンドン塔に幽閉して処刑してしまったのです。
しかし、アン・ブーリンは偉大な功績を残していました。彼女が産んだ女の子は、後のエリザベス1世となるのです。
その処刑の翌日に、ヘンリー8世は今度はアン・ブーリンの侍女であったジェーン・シーモアと婚約し、10日後には結婚をします。そして、ジェーンはついに男の子、エドワードを産みました。
しかし、ジェーンはその後まもなく病死してしまいます。
悲しみにくれたヘンリー8世に、側近のトーマス・クロムウェルはアン・オブ・クレーヴズを紹介し、神聖ローマ帝国より嫁いできました。クロムウェルが見せたアンの肖像画にヘンリーは一目惚れしたのです。
しかし、実際イギリスに嫁いできたアンは、ヘンリー8世が肖像画から抱いた印象とは異なり、ヘンリー8世が好む音楽やダンスなどの知識もなく、半年で離婚することとなりました。離婚理由は、アンが以前婚約していた男性と正式に婚約が解消されていなかったということで成立しました。彼女もこれを受け入れたのです。アンは、その後も王室の所領を与えられ、王室行事などにも参加して、静かに暮らしたと言われています。
そして、49歳のヘンリー8世は、アンの侍女であった30歳も年下の19歳の女性、キャサリン・ハワードと結婚しました。若い王妃に夢中になっていたヘンリー8世でしたが、若い王妃はかつての恋人フランシス・デレハムや王の廷臣であったトマス・カルペパーとの不貞を重ねたとされ、処刑されてしまいました。
52歳になったヘンリー8世は、1543年6番目で最後の結婚をします。相手は31歳のキャサリン・パーでした。
彼女は教養のある女性で、ジェーン・シーモアが産んだエドワード王子の教育を任されました。そして、かつての王妃たちが産んだ娘、メアリーとエリザベスを庶子の身分から王室へ戻したのです。健康状態が悪化していくヘンリー8世に尽くし、最期を看取ることになりました。
ヘンリー8世はこのように男児の後継にこだわりましたが、実際英国では女性の相続も認められていました。ではなぜ、そこまで男性の後継に執着したのでしょうか。
それは、女性が後を継ぐと国内外から干渉される恐れがあったためなのです。磐石なテューダー家のイングランドを築くために、男の後継にこだわったのです。
ヘンリー8世が嫌われるようなところばかりを紹介してしまいましたが、ヘンリー8世はラテン語・スペイン語・フランス語を解し、文学・芸術・スポーツあらゆる分野に万能だったと言われています。彼の治世にはアイルランドの支配も本格化し、後に最強と言われた英国海軍の創始者にもなったのです。テューダー朝の発展に大きく貢献したことは間違いありません。
阿部寛さんが演じたヘンリー8世の舞台も見どころ抜群でしたね。
テューダー朝はその後、エリザベス1世の時代にまた大きな発展を遂げることとなりますが、その時代を”エリザベス朝”と呼ぶこともあるので、また後で詳しく見ていきましょう。
次に、チューダー朝の名前が使われているよく耳にする言葉を紹介します。
2)テューダー・ローズ
イングランドの国花にもなっている、赤バラと白バラが融合されたバラを見かけたことがある方は多いのではないでしょうか。
このバラは、テューダー・ローズと呼ばれており、テューダー朝が開かれた時にできました。テューダー朝が誕生する前に、30年にも渡って繰り広げられた内戦、薔薇戦争が集結した後に誕生した平和を象徴するような花紋なのです。
このテューダー・ローズができる経緯となった薔薇戦争とは、イングランドでランカスター家とヨーク家が王位継承をめぐって争った内乱です。実際、薔薇戦争について詳しく見てみると、王の名前や貴族の名前がいくつも登場し、さらに人間関係が複雑にもつれていき、非常にややこしい戦争なのです。それでも、テューダー・ローズの花紋まで生んだこの内戦は、様々な人物のストーリーが織り込まれており、主要人物一人一人の生き様は大変興味深いです。
詳しくはこちらにまとめているので、興味のある方は是非ご一読ください。
イギリス薔薇戦争 ー主要人物を辿ったストーリー
テューダー・ローズは今でもあらゆるところでシンボルや紋章として使われています。
イングランドの観光局であるVisitEnglandのシンボルにはこのローズが使われています。
https://www.visitengland.com/また、「スリーライオンズ」”Three Lions”の愛称で呼ばれるイングランドナショナルチームのエンブレムには、3頭の獅子と、10のテューダー・ローズが描かれています。
レストランやティールームの名前にも使われたりと、「テューダー・ローズ」はイングランドの様々な場所で目にすることができます。
ついでにご紹介しますと、イギリスはイングランドを初め4つの地域から成り立っていますが、他の地域にもそれぞれの国花があります。
スコットランドはアザミ、ウェールズはリーキ、アイルランドはシャムロック(クローバーやカタバミなど葉が3枚に分かれている草の総称)です。イギリス国家の紋章には、この4つの地域それぞれの国花が描かれています。
3)テューダー様式
テューダー朝の建築物は特徴があり、テューダー様式として今日も多くの家屋・建造物が残されています。
テューダー様式と言えば、ハーフティンバー様式が使われていることで知られています。これは、木造建築様式の一種で、柱や梁などの骨組みを剥き出しにし、その間の壁面をレンガや石で埋める様式のことです。
建物が完成すると全体にペンキが塗られ、最終的には白黒の家のように見えるように造られています。
テューダー様式の外観の特徴は、長方形の大きな窓や「テューダーアーチ」と呼ばれる高さよりも幅が広いアーチや斬新な造りの煙突、切り妻を多用した屋根などが挙げられます。
テューダー朝の時代は、城が軍事的な要塞として使われなくなり、貴族や富裕層の住居のために建てられた城であったため、それまでの時代とは違い上記のような美しさを意識した特徴を持っているのです。
この時代、ヨーロッパではルネサンス期に入っており、テューダー朝の建築物もルネッサンス建築の影響を受けています。精巧な装飾の屋根や長い廊下などがそれにあたります。
そして、レンガ造りが採用されるようになったこともまたテューダー様式の特徴のひとつです。レンガは当初、富裕層が依頼した建築物で使われるようになりましたが、それから安価な材料となっていき、テューダー王朝末期にはレンガ造りの家が一般的となりました。
それでは、テューダー様式の代表的な建築物として有名な建物を下記にいくつか紹介します。
① ハンプトンコートパレス
ここはヘンリー8世が好んで住んだ居城です。もともとは1514年ヘンリー8世の寵臣として活躍したトマス・ウルジー枢機卿によって建築されました。浪費家のウルジーは王様の宮殿にも匹敵するような英国一の宮殿として建築をしましたが、ヘンリー8世がその宮殿を気に入ってしまい、奪われるような形で進呈したと言われています。
ヘンリー8世はその後さらに宮殿を拡張しました。ヘンリー8世のステートアパートメントのほか、チューダー王朝のキッチンや美しく手入れされた広大な庭園などハンプトンコートパレスには見どころがたくさんあります。
ハンプトンコート宮殿には、男の子エドワード(後のエドワード6世)を出産後すぐに亡くなってしまった3番目の妃ジェーン・シーモアの幽霊や、不貞を行ったために処刑された5番目の王妃キャサリン・ハワードの幽霊が現れるなどとも言われているのですよ。
② シェイクスピアの生家
英国を代表する劇作家として有名なシェイクスピアは、テューダー朝の時代に活躍しました。
ロンドン北部にあるストラットフォードアポンエイボンにある彼の生家は、ハーフティンバー様式で造られたテューダー時代の家です。
シェイクスピアが結婚したアン・ハサウェイの実家もまたテューダー建築として有名です。茅葺き屋根に典型的なチューダー様式が見られます。
③ シェイクスピア グローブ座
シェイクスピアがロンドンで活躍していた際の劇場、テムズ川沿いにあるグローブ座もまたテューダー朝の建築物として残されています。1613年に火事で破壊されてしまいましたが、1997年に当時に近い形で再建されています。
その他、ウィンザー城のセント・ジョージチャペルやケンブリッジのキングカレッジのチャペルなどもテューダー時代の建築物です。
2 イギリス エリザベス朝
ヘンリー8世死後の悲劇
ヘンリー8世死後のテューダー朝は、ジェーン・シーモアが産んだ9歳の息子がエドワード6世として即位しました。しかし、エドワードは15歳の若さで病死してしまいます。
継承順位ではヘンリー8世の長女メアリー1世が王になることになっていました。
しかし、エドワード在位期間中に事実上の実権を握っていたジョン・ダドリーは、メアリーが女王になることを阻止するべく、継承順位の低いジェーン・グレイを王位につけるよう無理矢理エドワード6世に認めさせていました。そして、まだ15歳の幼いジェーン・グレイが即位します。けれどすぐにメアリー擁護者らの反逆にあい、わずか9日間で廃位されてしまいます。彼女はロンドン塔に幽閉された後、斬首されてしまうのです。この『ジェーン・グレイの処刑』の様子が描かれた悲劇の絵は、ロンドンのナショナルギャラリーで見ることができます。
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/paul-delaroche-the-execution-of-lady-jane-greyしかし、どうしてこの幼い少女がこのような悲惨な最期を遂げなければならなかったのでしょうか。その根幹には、宗教の問題があったのです。
ヘンリー8世の一番初めの妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に誕生したメアリーは、イングランドが改宗する前のカトリックの信者であったことが理由でした。実際、ジョン・ダドリーが自分の息子をジェーン・グレイと結婚させ、孫を後の王にしたいという画策もありましたが。
その後、敬虔なカトリック教徒のメアリー1世が女王の座に就くと、プロテスタントを迫害し、女性や子供を含む300人もの人々を処刑し、”ブラッディメアリー(血まみれのメアリー)”と呼ばれるような状況に陥ってしまったのです。
エリザベス1世の誕生
そのメアリーが5年ほどの在位期間を経て42歳で病死すると、異母姉妹であるエリザベスが即位しました。このエリザベス1世の時代こそ、英国の黄金時代と呼ばれています。
テューダー朝の女王なのですが、この治世は特別にエリザベス朝という名前で呼ばれています。
1559年1月、26歳になったばかりのエリザベス1世はウェストミンスター寺院で戴冠式を挙げました。当時のイギリスは、財政も厳しく、メアリー1世治世時の宗教上の対立からスペイン・フランスなどの列強からも標的にされており、決して強い国ではありませんでした。そして、独身であったエリザベス1世にはフランス・スペインの王族との結婚の話も持ち上がりましたが、エリザベスはそれらをすべて断り、生涯独身を貫いたのです。
「私は国家と結婚しました」という有名な言葉を聞いたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
若きエリザベスが女王となり、「国家と結婚する」と決意するまでに至ったストーリが描かれた、ケイト・ブランシェット主演の映画も是非合わせてご覧ください。
頭脳明晰で思慮深いと言われたエリザベスは、側近にも恵まれ外交政策でも力を発揮しました。
しかし、エリザベスには少々厄介な9歳年下の従姉妹がいたのです。ヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの孫であるスコットランドの女王メアリーです。
スコットランド女王 メアリー
幼い頃にフランスで育ち、フランス王太子と結婚して王妃となるも、夫であるフランソワ2世が1年後に病死し、スコットランドに帰国しました。それから再婚しましたが上手くいかず、メアリーの秘書であるイタリア人と愛人関係にあるとされ、その愛人リッチオが惨殺されるという事件が起こりました。その後、夫であるダーンリー卿までも殺害され、そのことにメアリーが加担したとされ幽閉されてしまいます。
それから、1568年26歳の時にエリザベスを頼ってイングランドに亡命します。
そして、またここでカトリックとプロテスタントの問題が起こるのです。
メアリーはカトリック教徒でした。カトリック信奉者の中には、エリザベスがプロテスタントであることと、さらには出生の正当性を疑問視する声をあげ、メアリーこそがイングランド継承者だと主張する者もいました。
当時メアリーには息子がいました。息子ジェームズはメアリーがイングランドへ亡命する際、プロテスタント信者として育てるべくスコットランドのスターリング城へ移されています。
メアリーはその後イングランドで囚われの身として過ごしますが、1586年バビントン事件への関与が疑われます。それは、カトリック信者らにより、プロテスタントであるエリザベスの暗殺を計画するものでした。
エリザベスはメアリーを厄介に感じながらも庇い続けていましたが、この事件でメアリーがエリザベス暗殺に同意したとされる手紙が見つかったことから、エリザベスも対処せざるを得なくなりました。
そして、メアリーはついに斬首されてしまいます。まだ44歳の若さでした。
エリザベス女王とスコットランドのメアリ、2人を主人公にした映画を見て、あなたはどちらに共感できますか?
「大英帝国」へと発展
メアリを処刑したことにより、イングランドはフランス・スペインなどの諸外国から強く非難されることとなりました。そして、スペインとの間にアルマダの海戦が起こります。
その頃イギリスも海上貿易に乗り出していましたが、財政難を補う方法は私鯨船に特許を与えるという、いわゆる海賊行為であったのです。鯨船の船長として活躍した人物が、フランシス・ドレークです。ドレークは世界一周を果たし、イギリスの大航海時代を牽引し、東インド会社の基盤を作りました。
そんなイギリスと、当時無敵艦隊と呼ばれるまでの強大な海軍を誇っていた国であるスペインが対立したのです。
スペインは、イギリスによる海賊行為とスコットランド女王メアリを処刑したことを理由に、イギリス海軍への攻撃を開始しました。そして、この戦いに勝利したのは、イングランドだったのです。
イギリスはこうして「大英帝国」と呼ばれるまでに発展を遂げていきました。
イギリスを発展させてきたエリザベスですが、晩年は様々な困難に見舞われていきます。
農業の不作による物価の高騰、アイルランド軍事作戦の失敗などが続き、さらに晩年には友人たちの死が続き鬱状態に陥っていきました。そして、健康状態も悪化し、1603年69歳でこの世を去りました。
エリザベス1世の後テューダー朝は断絶し、スコットランド女王メアリの息子ジェームズがイングランドとスコットランドの同君連合として即位し、ジェームズ1世によるスチュアート朝が誕生するのです。
エリザベス朝に活躍した文豪シェイクスピア
ここで、このエリザベス朝の時代に活躍した、忘れてはならない人物をもう一人紹介します。
1564年エリザベス朝の時代に、イングランド中部のストラットフォード・アポン・エイボンで誕生したウィリアム・シェイクスピアです。
8歳年上の女性アン・ハサウェイと結婚し子供にも恵まれ暮らしていましたが、1592年頃にはロンドンの演劇の世界へと進出しました。自らも俳優として活躍する一方で、劇作家としても頭角を現し、グローブ座を舞台に活躍しました。
シェイクスピアの名言や詩は現代でも引用されており、後世多くの英文学者に影響を与えています。シェイクスピアの作品には、薔薇戦争の時代やテューダー朝の王をモチーフとした数々の作品も残されています。
エリザベス1世もシェイクスピアの観劇を楽しんだと言われています。
グローブ座を舞台に描かれたシェイクスピアの映画、テューダー朝の時代背景を味わいながら是非お楽しみください。
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波乱万丈なテューダー朝の歴史と文化を見てきました。
悪名高いヘンリー8世が引き起こしたことが、後世まで大きく影響したという歴史は大変興味深いことではないでしょうか。