知っていると面白い!よく耳にするイギリス歴史の時代区分<後編>ーヴィクトリア朝
英国の文化や歴史が話題に出るとよく耳にする時代区分、最後に紹介する時代はヴィクトリア朝です。
ヴィクトリア女王が君臨した19世紀後半、イギリスは大英帝国と呼ばれる黄金期を迎えました。
2022年6月には、英国女王エリザベス2世の在位70年をお祝いするプラチナ・ジュビリーの祭典が開かれましたが、2015年もまた記念すべき年でした。エリザベス女王が、それまで英国君主として最長であったヴィクトリア女王の在位63年216日を上回った年であったのです。
エリザベス女王と同じように長い人生を英国君主という地位に捧げたヴィクトリア女王とは、いったいどのような人物で、その時代にはどんな文化が発展していったのでしょうか。
さっそく見ていきましょう。
1 ヴィクトリア女王
1)ヴィクトリア女王即位そしてアルバート公との結婚
ヴィクトリア女王は、わずか18歳という若さで女王の座につきました。18歳という年は、英国で成人を意味しており、ヴィクトリアが成人してから王位を譲りたいという前王であった叔父のウィリアム4世の強い願望があったのです。
ウィリアム4世は自らの誕生日パーティーの席で、摂政の座についてヴィクトリアを操ろうと目論んでいた母親ヴィクトリア(娘と同名)を公衆の面前で罵倒し、ヴィクトリアが摂政を立てず自身で政治を行える年齢になるまでは生き延びると宣言したのです。そして、彼の思惑どおり、ヴィクトリアが18歳の誕生日を迎えた4週間後に崩御しました。
ヴィクトリア女王の母親はドイツ公爵家の出身、当時51歳であった19歳も年上のヴィクトリア女王の父親ケント公エドワードと結婚(再婚)しました。ケント公はジョージ3世の4男であり、ジョージ4世とウィリアム4世の弟でした。イギリスのケンジントン宮殿でヴィクトリアが誕生し、その後1年もたたない間にケント公は亡くなってしまいます。
その後ヴィクトリアの母親は、ケント公の執事であったサー・ジョン・コンロイを頼りながら、ケンジントン宮殿でヴィクトリアを過保護に育てました。前王ウィリアム4世は2女をもうけていましたが亡くしており、他の兄弟たちにも王位を継げる子供たちがいなかったため、ヴィクトリアは王位継承者となっていたのです。
このコンロイは、後にヴィクトリアの摂政となって政治を操ることをたくらんでいましたが、ヴィクトリアとはやがて不仲になり、ヴィクトリアがキッパリと彼が後ろ盾になることを拒んだのです。
1837年ヴィクトリアは18歳で即位しました。そして、ケンジントン宮殿からバッキンガム宮殿へと移り、母親からも遠ざかるようになりました。まだ幼く政治経験も知識もないヴィクトリアが頼った人物は、首相のメルボルン卿でした。メルボルン卿は頻繁に宮廷に通い、ビクトリア女王の相談役になっていました。ビクトリアによるメルボルン卿の寵愛は、政権交代を覆すまでともなっていたのです。
しかし、その後ヴィクトリア女王がアルバート公と結婚したことにより、ヴィクトリア女王の相談役はアルバート公へと変わっていきました。
ヴィクトリア女王は、幼少期から日記をつけていたことで知られています。その日記は、現在オンラインでも公開されており、彼女の日記から当時の様子を知ることができる貴重な情報源となっているのです。アルバート公との出会いも、その日記に綴られていました。
ヴィクトリア女王とアルバート公が初めて出会った場所は、ヴィクトリアがまだ即位する前のケンジントン宮殿でした。ドイツからアルバートが訪れた時のことがヴィクトリアの日記でこのように書かれていました。
「彼は非常にハンサム。そして善良で優しく、とても賢く知的な人」
結婚当初は、ドイツ人であるアルバートを公務に関わらせないようにしていましたが、出産を繰り返すヴィクトリアの助けが不可欠だった理由もあり、次第にアルバート公がヴィクトリア女王の助けをするようになっていったのです。
アルバート公は女王の日記にあるように聡明な人物で、様々な改革を行いました。そして1851年にはアルバート公が取り仕切り、第1回ロンドン万国博覧会が5月から10月まで5ヶ月にわたりハイドパークで行われました。万博初日の夜の女王の日記には、下記のように記されています。
「この日は、私たちの人生の中で最も偉大で最も輝かしい日の一つであり、私の誇りと喜びのために、私の愛するアルバートの名前は永遠に刻まれていく」
世界30カ国以上が参加したこの万博は大成功を収め、その収益や基金を使ってケンジントンエリアの開発を行いました。今も残るロイヤルアルバートホールやヴィクトリア&アルバートミュージアム、自然史博物館などはこの頃建設されました。
しかし、アルバート公は1861年病におかされ、42歳の若さでこの世を去ります。悲しみにくれたヴィクトリアは、その後10年以上も喪に服し隠遁生活を送ったのです。1862年に第2回目の博覧会が催された時は、アルバート公のことを思い出して悲しくなるということから、ヴィクトリア女王は一切出席しなかったそうです。
ヴィクトリア女王の若い頃を描いた映画『ヴィクトリア女王 世紀の愛 The Young Victoria』では、女王になるヴィクトリア、そしてアルバート公との出会いが語られています。
2)帝国主義の発展
1868年保守党党首にディズレリーが就任しました。彼が示すアルバート公への敬意の念、政策などに共感し、ヴィクトリア女王はディズレリーと親密になっていきました。やがて再び政治の世界へ関心を示すようになり、公務への復帰を果たしました。
そして植民地化政策により領土を拡大する帝国主義が発展し、1876年にはヴィクトリア女王はインド女帝の座につきました。
1887年にはヴィクトリア女王の在位50年をお祝いするゴールデン・ジュビリーの式典が行われ、各国の皇室・王室が招かれ、日本も招待されました。
晩年のヴィクトリア女王は体力も衰え、1901年長男(後のエドワード7世)らに看取られ81歳で崩御しました。
ヴィクトリア女王とアルバート公は4男5女の9人の子供に恵まれ、それぞれドイツやロシアの皇室などと婚姻関係を結び、ヨーロッパの血縁関係を深めていきました。
ヴィクトリア女王が幼少期を過ごしたケンジントン宮殿では、彼女が過ごした部屋などを日記の文面の紹介と共に見学できますよ。
https://www.hrp.org.uk/kensington-palace/#gs.cu74bk2 ヴィクトリア朝の文化
英国が政治・経済面で発展を遂げたこの時代は、文化の面でもまた大きく発展しました。
1)ミュージアムなどの文化施設
1で触れたロンドン博覧会の開催で成功を収めたことにより、ケンジントン地区に文化を象徴する建物が建てられました。
ヴィクトリア女王とアルバート公の名前がそのまま使われているヴィクトリア&アルバートミュージアム(V&A ミュージアム)には、この時期に発展した産業技術を背景とした工芸品・美術品・陶磁器・家具・衣装などが展示されています。また、隣接する自然史博物館は、この時代科学が発展したことを示しており、ダーウィンが「種の起原」を発表した年もこのヴィクトリア時代でした。
また、アルバート公に捧げられた演劇場ロイヤル・アルバート・ホールもこのエリアにあります。
https://www.vam.ac.uk2)ヴィクトリアンスタイル
アンティーク好きな人は、”ヴィクトリアンスタイルの家具”という表記を目にしたこともあるのではないでしょうか。
この時代、産業革命により製造技術が進歩し、スタイリッシュな住宅を求める富裕層や中間層が増加しました。そして、工業化により職人の仕事よりも早く簡単に家具が作られるようになったのです。この新しいスタイルがヴィクトリアンスタイルと呼ばれています。これまでのゴシック・チューダー様式などを織り交ぜた、ダイナミックな装飾と張り地に特徴があると言われています。
また、ほかにもこの時代に発展した文化として注目したい習慣をいくつかご紹介します。
まずは、結婚式のドレスです。純白のウェディングドレスを着ることが定着したことは、ヴィクトリア女王が婚姻の際に着た真っ白なドレスに由来しています。
そして、クリスマスに各家庭でクリスマスツリーを飾る習慣が始まったのもこの時代でした。アルバート公がドイツからもたらした習慣であると言われています。
3)アフタヌーンティーの誕生
そして、英国で親しまれているアフタヌーンティーが誕生した時代もまた、このヴィクトリア時代でした。
お茶という飲み物の発祥は中国で、1660年代にイングランドに入ってきたと言われています。それからお茶を飲む文化が英国内で始まりましたが、それはまだ高価なものであり、貴族階級の人たちの間でのみ広まっているものでした。
当時の貴族たちの食事は、軽い昼食を挟むこともありましたが、朝と夜の2食が主流でした。そして、灯油ランプが使われるようになってくると、夕食の時間も8時、9時と遅くなっていきました。すると、夕食の前に当然お腹が空いてしまうのです。そこで、1840年第7代ベッドフォード公爵夫人アンナ・ラッセルは、午後4時ごろに「気分が沈む」と訴え、昼過ぎごろから紅茶やパン、バター、ケーキなどのトレイを部屋に注文し、友人を招き入れるようになりました。これがアフタヌーンティーの始まりと言われています。
このアンナは、かつてヴィクトリア女王の女官を勤めており、その後夫がベッドフォード公爵位を継承し、アンナも公爵夫人となっていました。アンナはヴィクトリア女王とその後も友人としての付き合いを続けており、アンナの午後のティーの習慣を気に入り、ヴィクトリア女王もお茶の時間を楽しむようになりました。バタークリームと新鮮なラズベリーを使った軽いケーキを好んで食べていたと言われており、このケーキは今でもヴィクトリアスポンジと呼ばれ英国で親しまれています。
上流階級の女性たちは華やかに着飾ってお茶を楽しみ、まだ高価であったお茶をゲストにふるまうことで富を誇示していました。その後19世紀後半になると紅茶も手頃な価格となり、中流階級の間でもアフタヌーンティーが広まっていきました。そして、紅茶もイギリス全土から海を渡り、アメリカでも親しまれるようになったのです。
現在でも王室の伝統としてアフタヌーンティーは残されており、エリザベス女王は毎日アフタヌーンティーを楽しんでいたと言われています。
3 ヴィクトリア時代に誕生した文学
ヴィクトリア朝の時代には、今でも世界的に親しまれているさまざまな英国文学が誕生しています。私たちが子供の頃から親しんできた物語の中にも、この時代に誕生しているものがいくつもありますよ。
児童文学としても出版されている『クリスマス・キャロル』を読んだことのある人も多いのではないでしょうか。ケチなスクルージおじさんの前にクリスマス・イブの夜幽霊が現れ、自分の「過去」「現在」「未来」を見せられ、自分の未来に愕然として改心するというお話です。映画にもなっている有名な作品ですね。
この作者、チャールズ・ディケンズは19世紀初頭イギリスの中流階級の家に生まれました。しかし、両親の浪費により貧しい少年時代を過ごすことになったのです。その後、報道記者を経て作家になり、『オリバー・ツイスト』の発表後、小説家として活躍しました。『オリバー・ツイスト』はヴィクトリア女王も愛読していたと言われています。そのほか、『二都物語』や『大いなる遺産』などもディケンズの作品です。
また、三姉妹で作家として活躍したブロンテ姉妹もヴィクトリア朝時代の作家です。エミリー・ブロンテによる『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテ作の『ジェーン・エア』は映画化もされており、大変読み応えのある長編として今でも世界中の人に愛される名作ですね。
名推理で名を馳せた『シャーロックホームズ』が誕生した時代もまたこのヴィクトリア朝でした。1859年スコットランドのエジンバラで誕生したコナン・ドイルは、大学で医学を学び開業しましたが、患者を待つ時間に小説を書き始めたことにより、作家となりました。
服装や仕草からも推理を行うホームズのストーリーには、驚きのラストが待っており、ページをめくる手が止まらなくなりますね。時代の変化が感じられる大変興味深いことは、ホームズのシリーズにはロンドンの地下鉄が登場するということです。ロンドンの地下鉄が開通した年は1863年、ヴィクトリア朝時代だったのです。それまで、ジェーン・オースティンの作品を読んでいても、ロンドン市内で移動する手段は馬車しかありませんでしたが、コナン・ドイルの時代には地下鉄が走っていたという時代の大きな違いが小説の中で体験できるのです。
そのほか、劇作家として有名なオスカー・ワイルド、詩人のウィリアム・モリスなどもヴィクトリア朝時代に活躍しています。
最後にもう一つ、誰もが知っている作品を紹介します。
ルイス・キャロルによって書かれた『不思議の国のアリス』です。オックスフォードのクライストチャーチカレッジで数学講師として教鞭をとっていたキャロルは、学寮長のリデル家の子女三姉妹と仲良くなりました。三姉妹とのピクニックの途中で、次女のアリスを主人公とした物語を語り、後にこの本を出版したのです。クライストチャーチのグレートホールには、アリスが描かれたステンドグラスがあるのですよ。
英国では、ここで取り上げたヴィクトリア朝の作家たちミュージアムも公開されているので、是非訪れてみてくださいね。
https://dickensmuseum.com/ https://www.bronte.org.uk/Homepage