イギリス 歴史

知っていると面白い ! よく耳にするイギリス歴史の時代区分<中編>ージョージ王朝時代・リージェンシー時代

もわりー

イギリスの建築物の説明や文学・映画の中などでよく耳にする、イギリス歴史の時代区分についてのお話第2弾です。今回の中編では、ジョージ王朝時代、リージェンシー時代について見ていきます。

イギリスの歴史区分は、人名が多くてわかりずらいと思うことはありませんか?

リージェンシー時代ってそもそもいつのことなのでしょうか。

今回は、その時代で覚えておきたい人名や特徴的な文化を紹介しながら一緒にたどっていきたいと思います。

1 ハノーファー朝より有名な言い方がある

<前編>ではテューダー朝とエリザベス朝について紹介しました。エリザベス1世の時代にイギリスの黄金時代が築かれましたね。

知っていると面白い! よく耳にするイギリス歴史の時代区分 <前編> ー テューダー朝とエリザベス朝

そしてエリザベス1世の死後、1603年にスコットランドのジェームズ1世が即位し、スチュアート朝がはじまりました。

しかし、スチュアート朝最後の女王アンが1714年に後継者を残さず崩御すると、スチュアート朝は断絶してしまいます。そして、スチュアート朝の血を引くジョージ1世が即位し、ハノーファー朝がはじまったのです。

ハノーファー朝は、1714年ジョージ1世が即位してから、1901年ヴィクトリア女王が亡くなるまで続きます。しかし実際、ハノーファー朝という言葉よりもこの時代を表す言い方としてよく耳にする言葉があるのです。

ハノーファー朝は、初代ジョージ1世から2世・3世・4世とつづいていきます。そして、ジョージ4世の弟ウィリアム4世が統治した1837年までの時代は、ジョージ王朝時代という名前で呼ばれています。

そしてこのジョージ王朝時代には、ジョージ3世が後世精神疾患を患い、国王として統治を続けることが困難となった時期がありました。そのため、王太子であったジョージ(後のジョージ4世)が1811年から摂政として治世を納めていました。

ジョージ3世亡き後は、王太子がジョージ4世としてそのまま即位しました。

この王太子ジョージが摂政として統治していた1811年から1820年の時期は、摂政を意味する英語”リージェント”からリージェンシー時代と呼ばれているのです。

建築・文学・ファッションなど文化の流行の視点から、1795年から1837年までの広範囲をリージェンシー時代と呼ぶこともあります。

ジョージ1世  1714-1727
ジョージ2世  1727-1760
ジョージ3世 1760-1820 (ジョージ王太子摂政 1811ー1820)
ジョージ4世 1820-1830
ウィリアム4世 1830-1837

では、この時代を知る上で注目したい人物、名称、流行などを3つ取り上げて、見ていきましょう。

2 イギリス ジョージ1世からジョージ4世まで

1)ジョージ1世とジョージ2世

ジョージ1世は1660年神聖ローマ帝国、後のドイツのハノーファーで生まれました。ドイツ語名はゲオルク・ルートヴィヒといいます。

ハノーファー選帝侯としての地位についていましたが、1714年イギリススチュアート朝のアン女王が死去すると、ゲオルクが英語名のジョージ1世としてイギリス国王に即位しました。ジョージの母親が英国スチュアート家の血を引いており、またカトリックではなくプロテスタントを信仰していたことで王位継承者となったのです。

こうして、イギリスにおけるハノーファー朝が誕生しました。

ジョージ1世は即位当時すでに54歳であり、英語もほとんど話しませんでした。また、ハノーファーへ帰ることも多く、英国を不在にすることも多くありました。

それでこの時に、「王は君臨すれども統治せず」という言葉が生まれたのです。

ジョージ1世は従姉妹であるゾフィ・ドレテア・フォン・ツェレと結婚していましたが、2人の子供をもうけた後、ゾフィとは不仲になり多くの愛妾をもちました。そんな冷遇を受けたゾフィは、やがてフィリップ・クリストフ・フォン・ケーニッヒスマルク伯爵と恋仲になります。ジョージ1世はそのことを不名誉に思い、ゾフィの愛人ケーニッヒスマルク伯爵は殺害され、ゾフィは幽閉されてしまいます。ゾフィはその後子供に会うことも許されず、生涯自由の身になることはなかったのです。

このことは、イギリス内でもジョージ1世への悪評を増長させることへとつながったのです。

ジョージ1世は従姉妹であるゾフィ・ドレテア・フォン・ツェレと結婚していたが、2人の子供をもうけた後、ゾフィとは不仲になり多くの愛妾をもった。そんな冷遇を受けたゾフィはやがてフィリップ・クリストフ・フォン・ケーニッヒスマルク伯爵と恋仲になった。ジョージ1世はそのことを不名誉に思い、ゾフィの愛人ケーニッヒスマルク伯爵は殺害され、ゾフィは幽閉された。子供に会うことも許されず、生涯自由の身になることはなかった。このことは、イギリス内でもジョージ1世への悪評を増長させることとなった。

話は少しそれますが、ジョージ1世がドイツのハノーファーからイギリス王になった時に活躍していた有名な人物をひとり紹介します。

音楽家のヘンデルです。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは後にイギリスに帰化してイギリスで活躍しましたが、元はプロイセンの出身のドイツ人でした。1710年25歳の時にハノーファー選帝侯の宮廷楽長となりましたが、1712年にロンドンを訪れてからハノーファー選帝侯ゲオルクによる帰国命令にも従わず、そのままロンドンに住み着いたのです。そしてそのゲオルクがジョージ1世としてイギリス王に即位すると、ロンドンでジョージ1世と和解することになりました。

1715年ジョージ1世のテムズ川での舟遊びの際に演奏したと言われている『水上の音楽』(特に第2組曲)はヘンデルの楽曲の中でも有名な曲です。

ジョージ1世亡き後は、息子のジョージ・オーガスタスがジョージ2世として即位しました。

ジョージ2世と王妃であるキャロライン・オブ・アーンズバックはイギリス国民からも人気がありました。特に妃のキャロラインは優秀な王妃であり、夫ジョージ2世と父親であるジョージ1世の不仲をとりもち、なぜかジョージ2世の愛妾たちの面倒も見ながら、首相ウォルポールを助けて政治も支えていました。ジョージ2世には何人かの愛人がいたそうですが、王妃であるキャロラインとも仲が良好だったそうです。

ジョージ2世と王妃であるキャロライン・オブ・アーンズバックはイギリス国民からも評判が良かった。特に妃のキャロラインは優秀な王妃であり、夫ジョージ2世とジョージ1世の不仲をとりもち、なぜかジョージ2世の愛妾たちの面倒も見ながら、首相ウォルポールを助けて政治も支えていた。ジョージ2世は愛人たちを作ってはいたが、王妃であるキャロラインとも仲が良好だったという。

ジョージ2世とキャロラインの息子、フレデリック・ルイスはジョージ2世より早逝してしまったため、そのフレデリックの息子がジョージ3世として即位しました。

2)ジョージ3世とジョージ4世

ジョージ3世はイギリスで生まれ、母国語は英語であり、ハノーファーへは一度も訪れていませんでした。ドイツのハノーファーから王を迎えた英国は、ようやく英国生まれの王様の時代になったのです。

妃はシャーロット。この妃は、Netflixのドラマ『ブリジャートン』に登場する王妃です。

ジョージ3世は先のハノーファー家の王たちと違い、愛人を作ることもなく王妃との仲も良好でした。しかしやがて精神疾患を患い、息子が摂政(リージェント)として国を治めることとなるのです。ジョージ3世はその後完全に狂気に犯され、ウィンザー城に幽閉されてしまいます。

81歳でジョージ3世が亡くなると、そのまま息子がジョージ4世として即位しました。

父親の治世の頃から摂政として統治していたと聞くと、まるで優秀な王だったように聞こえますが、ジョージ4世は悪名高い王だったのです。彼は、ギャンブル好きの浪費家、さらに女性関係も派手なことで有名でした。

王妃キャロライン・オブ・ブルンスウィックとは不仲であり、長女が生まれたのちは別居状態にありました。その長女はベルギー王家に嫁いだものの早逝してしまい、ジョージ4世の後は、弟が65歳でウィリアム4世として即位しました。

ウィリアム4世には2人の娘がいましたが、2人とも夭逝しており、その後姪であるビクトリアが王位を継ぐことになります。そして、ビクトリア朝が誕生することになるのです。

3 ジョージアン様式

外国から王を招いてはじまったこの時代、英国独自の建築が流行しました。ジョージアン様式と呼ばれる建築様式です。

ジョージアン様式は、左右対称でシンプルなファサードが特徴となっており、控えめなエレガンスさがあります。そして、それ以前の建築様式には欠けていた、広々とした空間と自然光を取り入れる作りが取り入れられています。

ジョージアン様式の建築は、イギリスの田舎の豪邸、ロンドンなどのテラスハウス群などさまざまなカテゴリーに分類されています。

さらに18世紀、イギリスからアメリカへ入植した者からも伝わり、南部のプランテーションハウス、ニューイングランドの住宅や大学キャンパスなどアメリカでもジョージアン様式が広がっていきます。

では、具体的な例を見てみましょう。

まずは戸建ての邸宅です。

ロンドン郊外にあるマーブル・ヒル

ロンドンの喧騒から逃れ優雅な生活を送るために、サフォーク伯爵夫人ヘンリエッタ・ハワードのために作られた邸宅です。

リッチモンドにあるマーブルヒルハウス

レンガや石造りに漆喰が施された左右対称の建物ですね。最上階の窓が小さいこともこの様式の特徴です。玄関には光を取り込むためのファン(扇)ライトと呼ばれる窓が作られています。

このように邸宅としてジョージアン時代に建てられた建築としては、バッキンガム宮殿もその一例です。ジョージ3世が妃のシャーロットと子供たちのために使う私邸として使うようになり、その後ジョージ4世・ウィリアム4世の時代に増改築が行われ、ヴィクトリア女王の時代から王室の住居として使われるようになったのです。

Buckingham palace

バッキンガム宮殿の歴史やエピソードについての下記記事も是非ご参照ください。

旅がもっと面白くなる!イギリス編ー2 英国王室現役の住居であるバッキンガム宮殿について探り、実際に中に入ってみよう!

さらにジョージアン様式の建物としてはほかに、現在でもロンドンなどで見られる「タウンハウス」「テラスハウス」と呼ばれる集合住宅があります。

この様式が流行った背景には、特にロンドンなどの都市部での人口の増加があげられます。大勢の人が暮らせるような集合住宅型の造りが必要となり、外観が同じに見える長屋の住宅が造られました。場所によっては、4階建の高層長屋もあります

ロンドンの街並みとして、このような光景を目にされた方も多いのではないでしょうか。。

ロンドン ケンジントン地区の街並み

ジョージ王朝・リージェンシー時代には、社交界が流行しました。郊外の広大なカントリーハウスに住む貴族たちも、社交界のシーズンになるとロンドンに出てきて、「タウンハウス」と呼ばれる家に住みました。そして、多くの貴族たちがこの集合住宅である「テラスハウス」を所有していました。

このジョージアン様式の集合住宅造りの例として、今でも観光スポットとなっている有名なところが、温泉保養地であるバースの「ロイヤル・クレセント」です。

1767年から1774年にかけて、三日月型(クレセント)に造られた30棟ものテラスハウスです。ジョージアン様式の石造のファサードの美しい造りは、英国内のジョージアン様式の最も優れた例と言われています。当時保養地としてのバースを訪問する人たちが増えたために作られたと言われています。現在はホテルやミュージアムにもなっています。

Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=385940OLYMPUS DIGITAL CAMERA

4 リージェンシー時代の社交界

リージェンシー時代には、建築様式の他、ファッションや文学なども流行しましたが、この時代の社会・文化を知る上で重要な役割を果たすイベントがありました。それは社交界・舞踏会の文化です。

この頃のイギリスは、顕著な階級社会でした。貴族、聖職者・専門職、労働者階級に分かれており、土地を所有している者が権力を握っていました。上流階級の貴族や地主たちが、社交界や舞踏会を開く華やかな生活を送る一方で、労働者階級の人たちは貧困に喘ぐ暮らしを送っていました。

ではその上流階級の人たちの文化であった社交界とはどのようなものであったのかを見てみましょう。

舞踏会は一年中開かれていたわけではなく、シーズンがありました。カントリーサイドに土地を所有していた貴族たちは、シーズンが始まるとロンドンのタウンハウスに移り住みます。

舞踏会が行われる時期は、ロンドンの議会の開会と重なっていました。それは、10月下旬の新議会の開会からはじまり、夏の休会となる6月まで続きます。上流階級の議員たちが政治的な任務を遂行するかたわら、娯楽として楽しむためのものでしたが、それと同時に社交界は17、18歳の結婚適齢期の女性たちが結婚相手を探す重要な場でもあったのです。

上流階級の”デビュタント”と呼ばれる社会にデビューをする若い女性たちは、王宮で開かれるシャーロット王妃の舞踏会で君主に紹介され、正式に社交界に登場します。シャーロット王妃とは、後に精神を病んでしまうジョージ3世の王妃です。1780年にジョージ3世が妻のシャーロットの誕生日を祝うためにこの舞踏会が開かれたことがはじまりと言われています。この様子は、ジュリア・クイーンの小説がドラマ化された『ブリジャートン』でも描かれています。

華やかな舞踏会の衣装は、女性の憧れですね。

舞踏会は貴族たちによりプライベートでも開催されていました。通常は個々の邸宅に招いていましたが、場合によっては他の会場を探し、主催者である女主人が招待客のリストを決めて催されました。

舞踏会は午後8時頃に始まり、翌朝頃まで続きました。未婚の女性は、通常母親などの付き添い人とともに参加し、付き添い人は相手が相応しい人物かどうかを見定めていました。

また、舞踏会には種々のエチケットがありました。女性は紳士からダンスに誘われるまで待たなければいけません。そして舞踏会に出席する未婚の紳士もまた、妻を探しているということを宣言していることになり、パートナーがいない女性と踊ることがマナーでした。

この時代に活躍した女流作家ジェーン・オースティンの小説を読むと、舞踏会がいかに社交の場として重要であったかがわかります。

彼女の作品の中でも最も有名な作品『高慢と偏見』の中でも数々の舞踏会の場が登場します。主人公の女性リジーことエリザベスとMr.ダーシーが初めて出会う場もまた舞踏会です。

ジェーン・オースティンの小説は全部で6作品あり、全て映画化もされています。彼女の作品は今でも世界中のファンを魅了しているのです。

この時代はまた、舞踏会など社交の場に出席するためのファッションも流行しており、「リージェンシーファッション」と呼ばれている。現在でも英国ではジェーン・オースティンのイベントなどで、リージェンシーファッションが親しまれている。

http://www.janeaustenregencyweek.co.uk/community/jane-austen-regency-week-13273/home/

映画『プライドと偏見』の映画は、リージェンシーファッションと舞踏会の様子もお楽しみいただけますよ。

***

ジョージ王朝時代はドイツからイギリスへ王様を迎えることとなり、一方で英国独自の建築様式が発達しました。リージェンシー時代は、国内では社交界が盛んとなり文化的にも発展を遂げた時代でした。

しかし一方で、アメリカでは独立戦争が勃発、ヨーロッパではフランス革命が起こり、ナポレオンがヨーロッパ諸国との戦争を起こした混沌の時代となりました。

そして、国内では貧富の差が拡大していき、その状態は、来たるビクトリア時代にも受け継がれていったのです。<後編に続く>

ABOUT ME
もわりー
もわりー
日本→ウィーン15年→現在ロンドン在住です。
書くこと・なにかをつくり出すことが好きです。

記事を読んでいただいた方をステキな旅へと案内できたら、そんな思いで書いていきます。

どうぞよろしくお願いします。
記事URLをコピーしました