ピューリタン革命/イングランド内戦 English Civil War – スチュアート朝②
イギリスの歴史の中で、議会・宗教に関する大きな出来事が起きた17世紀のスチュアート朝について取り上げています。
前回はキリスト教の宗派の違いによる不満が爆発し、ガイ・フォークスが起こした大きな陰謀事件、ガンパウダースロット・国会議事堂爆破未遂について紹介しました。
今回は、国王がジェームズ1世からチャールズ1世へと交替した後、国王と議会の間で起きた対立について見ていきます。
日本語ではピューリタン革命という言葉が定着していますが、英語では革命とは呼ばず、English Civl War 日本語に訳すと’イングランドの内戦’と言っています。
この出来事は、今でも英国議会の慣習に影響を残しており、先日チャールズ国王がアメリカ議会で演説した際にもこの慣習が触れられていました。
では、いったい何が起きたのでしょうか?
1 ピューリタン革命/イングランド内戦 English Civil Warとは?
ひとことで言うと、1642年から1651年の間、国王派と議会派が争った戦いです。
この戦いでは、20万人近い人が命を絶ったと言われています。
そして、国王チャールズ1世も処刑されました。
イギリスの歴史上、正式な裁判を経て処刑に至ったイギリス国王は、この時のチャールズ1世だけなのです。
この戦いの背景には、国王の権力の問題、税金の問題、そして再び宗教の問題がありました。
ではさっそく、国王が処刑されるという事態になってしまったこの戦いについて、順を追って詳しく見てみましょう。
2 ピューリタン革命/イングランド内戦 English Civil War に至るまでの背景
1)チャールズ1世 王権神授説
1625年ジェームズ1世が亡くなると、息子のチャールズ1世が即位しました。
チャールズ1世は、国王として、議会に対してやりたい放題な振る舞いを見せました。
彼は、国王は神によって選ばれたのだという王権神授説を信奉していたのです。
実際、当時の議会は権限を持っておらず、国王の意向に従って議会が召集され、そこで話し合いを行い、議会は国王が判断を下すサポートをするような役割でした。
チャールズ1世にとっては、議会は税金を調達するために必要な場所でした。
1215年に制定されたマグナ・カルタに、国王は議会の承認を得ずに課税することができないことが定められていたのです。
当時、チャールズ1世はお金が必要だったのです。
スペインとの戦争、フランスとの戦争のための軍資金が必要だったのです。
チャールズ1世は皇太子時代に一度、スペイン王の娘との結婚話が出ており、自らスペインへ赴きました。しかし結局交渉は決裂し、スペインと戦うに至ったのです。
その後、1625年チャールズはフランス王の娘ヘンリエッタ・マリアと結婚しました。しかし、フランスとの交渉も失敗に終わり、フランスはスペインと和平を結ぶことになり、イギリスと対立することになってしまったのです。
議会は、この戦争への資金援助のために税金を提供することを繰り返し拒否しました。国王はそれでも、議会の承認なしに課税ができることになっていた税金や制度を利用しました。
通常イングランド沿岸部の住民のみに課されていた船舶の税金をイングランド内陸部の住民へも適用させるなどして、強制的な資金集めを続けたのです。

2) 1628年 権利の請願 The Petition of Right
議会はこの国王の横暴ぶりを制限するべきだとして、1628年権利の請願を出しました。
これは、国王が議会の同意なしに課税する権限を制限したものでした。
議会は国王にこの文書へ署名するよう要求し、チャールズ1世はここに署名をしました。
しかし、これくらいであっさりおとなしくなるようなチャールズではなかったのです。
彼は懲りずに、繰り返しこの請願に書かれた内容の違反行為を行っていました。
3) カトリックに近い慣習
日本語ではピューリタン革命と言われているように、この出来事には宗教も関わっていました。
イングランドは、1559年ヘンリー8世が行った宗教改革により、プロテスタンを国教としていました。しかし、チャールズ1世は、カトリックに近い礼拝を強要していました。
チャールズ1世は、カトリックを信仰するフランスの王女ヘンリエッタ・マリアと結婚しており、カトリック的な礼拝形式をとっていたのです。
このことで、カトリックの慣習を取り払いたいと考えていたピューリタン(清教徒)と呼ばれる熱心なプロテスタント信者は、チャールズ1世はイングランドをカトリックへ戻すのではないかという不満をつのらせていました。
イングランドの議会は、ピューリタンが多数をしめていました。
4) 1629年から11年間にわたる議会のクローズ
1629年3月、議会が開かれると、国王の強制的な課税行為を、請願の違反だと主張する声が上がりました。
議会が解散される前に、国王の課税問題と宗教的な慣習を非難する決議を可決させるため、議員たちは退席を拒否し、扉に鍵をかけ、議長を無理やり席に座らせるなどの過激な行動に出ました。
このことに激怒したチャールズ1世は、3月10日に議会を解散し、その後11年間議会を開かなかったのです。そして、議会なしで統治する「個人統治」の状態が11年間続きました。
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こうして、ついに国王派と議会派の戦争へと突入することになるのです。

3 戦争の勃発から終結まで
1)スコットランドとの戦い・アイルランドの反乱
1637年チャールズ1世は、スコットランドで新しい祈祷書を使った典礼を強制しようとしました。それに対して、プロテスタントの一派であるプレズビテリアン(長老派)のスコットランド貴族たちは、それがカトリック的であると激しく抗議し、国民盟約を結成して祈祷書を拒否しました。
チャールズはスコットランドの反乱軍を鎮圧するため、戦費と軍が必要となり、ようやく再び1640年議会を召集しました。しかし、議会は王には協力せず、3週間で議会は解散、そして再び開くなど、短期議会・長期議会を重ねました。
そうこうしている間に、スコットランド軍は王の軍を打ちまかし、イングランド北部まで侵攻してきました。チャールズは今度は、イングランド北部に駐留しているスコットランド軍と和睦するために賠償金を支払うことになり、その資金を集めるために再び議会を召集しました。
議会側ではジョン・ピムが中心となり、チャールズの専制を激しく非難していきました。
そして、議会が開かれなかった11年の間に、王が濫用した課税を制限する改革法案を成立させました。チャールズは彼らの要求の一部に同意せざるを得ませんでした。
また、イングランドが混乱に陥っている間に、今度はアイルランドでも反乱が起こりました。
アイルランドの先住民族はカトリックを信仰しており、アイルランドではカトリック教徒が多数派でした。しかし、イングランドの国王側が、アイルランドのカトリックの地主の土地を、イングランドやスコットランドのプロテスタントの入植者に与えていたことで、アイルランドのカトリック教徒は反感を抱いていたのです。
チャールズ1世と議会は、アイルランドの反乱を鎮圧するための軍が必要であることは同意しましたが、すでにお互いに戦闘体制に入っており、そのまま武力衝突を引き起こすことになったのです。
そして結果的に、アイルランドと対立するために集めた軍資金は、議会派が王党派と戦うための資金に運用されることとなりました。
2)English Civil War イングランド内戦の始まり
1642年1月 チャールズ1世は急進的な5人の議員を逮捕しようと画策し、400人の兵を率いて議会に乗り込みました。しかし、すでに5人は議会からロンドン市内に逃亡しており、失敗に終わりました。
このことで、市民の反チャールズ感情が高まり、家族と自らの身に危険を感じたチャールズ1世は、イングランド北部のヨークへ逃亡しました。
そうして、議会派と王党派の対立が決定的となったのです。
1642年6月、議会はチャールズ国王に対して、19の提案を発表しました。
それは、国王の軍事的、政治的、宗教的権限を剥奪するものでした。
チャールズ国王は、もちろんそれを受け入れることはせず、反対します。
数週間にわたる小競り合いの後、ついに交渉は決裂しました。
そして、8月22日チャールズ1世はイングランドのノッティンガムで、自らの旗を掲げ、戦争の始まりを宣告したのです。
チャールズ国王側の王党派は、主に貴族や地方の地主で構成され、カヴァリエと呼ばれました。
対する議会派は、商人階級やピューリタンで構成され、円頂党ラウンドヘッドと呼ばれました。
3)チャールズ1世の処刑
チャールズ1世と議会の間の戦いは、1642年から1651年まで続き、イギリス国内に惨事と混乱を招くこととなりました。
ラウンドヘッドの議会派は、トーマス・フェアファックスとオリバー・クロムウェルが率いるニューモデル軍(New Model Army)が活躍し、国王側は次々と戦いに敗れていきました。
1645年ネイズビーの戦いで国王は敗北し、捕らえられました。
しかしその後、チャールズ1世はスコットランド人と秘密協定を結び、王党派が反乱を起こしました。
けれど、ニューモデル軍はその反乱を打ち破り、1648年プレストンの戦いで議会派が勝利を収めました。
国王への信用を失った議会側は、チャールズ1世を反逆罪で裁判にかけました。
そこで、国王は有罪判決を受けたのです。
1649年1月30日、国王の処刑を見ようと民衆が集まる中、チャールズ1世はホワイトホールのバンケティング・ハウスの外で処刑されました。
4)チャールズ2世の逃亡と議会派の勝利
チャールズ1世を処刑した後でも、議会派はまだ油断できませんでした。
国王の処刑に激怒したスコットランドとアイルランドの王党派は、チャールズ1世の息子であるチャールズ2世を国王に擁立しました。
そこで、オリバー・クロムウェルは、再びニューモデル軍を率いてスコットランドとアイルランドに侵攻します。
1651年王党派はウスターの戦いで完全に敗北し、チャールズ2世はフランスへ逃亡しました。
こうして、オリバー・クロムウェルは勝利を宣言し、イングランドの内戦は終結したのです。

4 バンケティング・ハウス
少し余談になりますが、チャールズ1世が処刑された場所であるバンケティング・ハウスについて紹介します。
ヘンリー8世以後のテューダー朝からステュアート朝の1698年まで、イギリス国王の居城は、ホワイトホール宮殿でした。当時は1500以上の部屋を有するヨーロッパで最大の宮殿でした。
しかし、1698年に起きた偶発的な火災により、この大きな複合施設のほぼ全部が消失してしまいました。
ホワイトホール宮殿の跡地は、現在でもホワイトホールと呼ばれ、英国政府の中心地となっています。
現在も、かつてのホワイトホール宮殿の敷地で残されている唯一の場所が、バンケティング・ハウスです。
ここは、今は政府機関としては使われておらず、内部を見学することができます。
このバンケティング・ハウスは、ルーベンスが描いた壮麗な天井画が有名です。
この絵は、1629年チャールズ1世によってルーベンスに依頼されたものです。
そして、そのチャールズ1世は、1649年1月30日の朝、ルーベンスの天井画がある広間を通り、1階の窓から特別に設置された処刑台へと向かったのです。

バンケティング・ハウスは、首相官邸であるダウニングストリートの近く、イギリス王室騎兵隊の兵舎であるホースガーズの向かいにあります。

バンケティング・ハウスのホームページはこちらです。
5 イギリス議会の開会式のしきたり
現在でも、このチャールズ1世の時代の出来事が、イギリス議会の開会式で行われるしきたりとして残されています。
1)閉ざされたドア
1642年、チャールズ1世が5人の議員を逮捕しようと試み、武装した兵士を率いて議場に押し入ろうとしたことが戦争の引き金となりました。
このことにより、今でも国王の使者を排除するような儀式が行われています。
国会で国王が演説をするために到着すると、国王はまず儀仗と警務を担当する黒杖官を派遣して、議員たちを貴族院に召集させます。下院の扉は、黒杖官の目の前で閉ざされ、黒檀の杖でドアを3回ノックしなければ、入れないことになっているのです。
2)バッキンガム宮殿の人質
国会開会式の間、国会議員は人質としてバッキンガム宮殿に滞在しなければいけません。
これは、チャールズ1世が処刑されたことに起因しており、国王が国会議事堂から無事に帰還することを保証しているのです。
2026年4月28日に、イギリスのチャールズ3世国王がアメリカ連邦議会で演説した際にも、イギリスでは議員が人質になることに触れていました。
今日では、バッキンガム宮殿で高待遇を受けているため、議員は帰りたがらないようだが、との言葉を添えて、笑いを誘っていました。

今回取り上げたEnglish Civil Warは、私も日本の教科書で「ピューリタン革命」と習いました。
しかし、ロンドンのミュージアムや観光施設でこのチャールズ1世が処刑された一連の出来事に関わる展示物を見ると、”English Civil War”という言葉が使われています。
はじめは、この言葉が日本語で言うところのピューリタン革命であることにつながらずに、イギリスで市民戦争と呼ばれるような戦いがあったっけ? と考えてしまいました。
なので、私は今回あえて、English Civil War と言う言葉を出しました。
イギリスを訪れた際、イギリスの映画や書物に触れた際、この言葉が出てきたら、日本で習ったピューリタン革命のことなんだ、と思っていただけると、歴史の話がつながり、興味深く思えるのではないでしょうか。
このEnglish Civil War にはまだまだ続きがあります。
だって、イギリスは今でも国王がいますから、チャールズ1世国王が処刑されて王制がなくなったということではないのですよね。
次回につづく

