<中編>英国作家 ジェーン・オースティン ー 6つの作品が教えてくれる彼女の人生
18世紀終わりから19世紀はじめに生きた英国女流作家 ジェーン・オースティン。
女性は結婚することが当たり前とされていた時代、読書好きなジェーン・オースティンは、自らストーリーを書き、作家になることを目指しながら、舞踏会に出かけ、社会との交流も楽しんでいました。
彼女は20代前半に3つの小説を書き上げましたが、まだ作家としてのデビューは果たせずにいました。
<前編>英国作家 ジェーン・オースティン ー 6つの作品が教えてくれる彼女の人生
今回は、その後のジェーン・オースティンの人生と彼女が書き上げた3作の行方について見ていきましょう。
1 26〜30歳 (1801-1805年)バースでの迷いと決断
1)バースへ移住
1800年12月、70歳のジェーンの父親ジョージは、牧師の仕事を引退することを決めました。そして翌年、老後の生活場所として、バースに移住することにしたのです。
バースにはジェーンの母親の兄夫婦が住んでおり、オースティンファミリーは、以前そのレイ・ペロッツ家から招待を受けてバースに滞在したことがありました。
バースは社交・娯楽が充実した都市であり、老後を過ごすにふさわしい町だったのです。

ジェーン・オースティンの時代に建てられた建物
UnsplashのIfeoluwa B.が撮影した写真
スティーブントンの家は長男のジェームズに譲り、ジェーンとカサンドラも一緒にバースへ行くこととなりました。
その際、ジェーンが生まれた時から慣れ親しんだ家の家財道具をはじめ、父親のライブラリーも売却されました。ジェーンにとってバースへ移住するということは、つらく、大きな衝撃を受けるできごとだったのです。
20代半ばのジェーンは、結婚適齢期の言わば崖っぷちにいました。
周りからは結婚相手を探すことを期待され、社交界に顔を出す日々を送っていましたが、ジェーンはバースでの社交の日々を楽しむことができませんでした。
そんな生活の中、夏にはイングランド南西部の海辺の町シッドマス Sidmouthを訪問しました。
そこである男性と巡り会い、明るい光が見えたかのように思った矢先、その後バースに戻ったジェーンの元に届いた知らせは、彼の死の知らせだったのです。
2)最大の決断
1802年の秋、ジェーンとカサンドラはウェールズを旅した帰りに、スティーブントンの兄ジェームズ一家を訪れました。そしてその後、古くからの友人の家に滞在しました。
1週間滞在した後、ジェーンは友人の兄弟ハリス(Harris Bigg-Wither)からプロポーズされたのです。
そして、ジェーン・オースティンは、”イエス”と返事をしました。
子供の頃から何度も訪れていた家であり、友人姉妹と今後は家族として付き合うことができる。幸せな未来が頭をよぎったのでしょう。
しかし、ジェーンはその夜悩みました。
自分は本当にハリスを愛しているのか。
結婚して、子供を産み、それでもまだ、小説を書いていくことができるのか。
その答えは”ノー”でした。
翌朝、彼女はこのプロポーズを断りました。
27歳を目前にしたジェーン・オースティンにとって、プロポーズを断ったということは、生涯独身で過ごしていく覚悟をしたことと同じでした。
そして、独身で過ごしていくために、お金を稼ぐために彼女にできること、それはたった一つ、小説を書くこと、商業作家になることだったのです。
3)出版社へアプローチ
自分が書いた小説でお金を稼ぎたいと強く願ったジェーン・オースティンは、1803年春 再び出版社にアプローチすることにしました。
ジェーンの手に取られた小説は、『スーザン』のちの『ノーサンガー・アビー』でした。
バースに移住する前に書かれたその小説は、ゴシックロマンスの要素を持ち、主人公の独身女性がバースでの社交界を訪れる日々も描かれていました。
ゴシック小説は当時の人気ジャンルでした。
ジェーンは、今度こそ出版を実現させるべく必死だったのだと思います。
出版社との交渉は、当時ロンドンで銀行業を営んでいた兄のヘンリーを頼りました。
ヘンリーの弁護士を通じて、当時ロンドンで4大出版社に数えられたBenjamin Crosby社 (ベンジャミン・クロスビー)へ原稿を持ち込みました。
そして、Crosbyはジェーンに10ポンドを支払い、『スーザン』の出版権を買ったのです。
この10ポンドは、ジェーンが初めて自分の小説で稼いだお金でした。
現在ではおよそ1300ポンド(25万円ほど)に値します。
Crosby社は、『スーザン』の宣伝も出し、出版されることを待つばかりの状態でした。
しかし、結局『スーザン』が出版されることはなかったのです。
理由は諸説言われていますが、Crosby社が財政難に陥ったため、無名の作家の印刷は後回しにされ、結局出版されなかったのではということです。
4)父 ジョージ・オースティンの死
ジェーン・オースティンはおそらく、自作の小説が出版されると信じて、ずっとその時を待っていたのだと思います。けれど、なかなか出版の知らせは届きません。
そんなジレンマもあり、新作の執筆に意欲を燃やす状況ではなかったと推察します。
ジェーンはしばらく執筆をすることなく、バースから夏には家族で海辺の街ライム(Lyme)を訪れました。ライムは、高級リゾート地ではなく、オースティン家が海辺の休暇を楽しめる街でした。このライムの地は、後のジェーン・オースティンの小説にも登場することとなります。
1804年秋の終わり、ライムからバースに戻ったオースティン家は、バースでまた引っ越しをしました。
そして、それからまもなく、父ジョージが体調を崩しました。
おそらくこの頃、ジェーン・オースティンは父親の看病をしながら執筆をはじめていました。
タイトルは “The Watsons ワトソンズ “。
お金持ちの叔母の家で育ったエマ・ワトソンは、叔母の再婚に際し実家に戻り、4人の姉妹と共に病気の父を看病をしながら、父の死後訪れるであろう財政難を予想していました。ジェーンの生活が反映された内容だったのです。
ジェーンの父親の病気は、一度は回復したかのように見えましたが、1805年1月 体調が急に悪化し、息を引き取りました。73歳でした。
ジェーンは、作家になることを応援してくれた一番のサポーターであった父を失い、深い悲しみにくれました。
また、20代前半のジェーン・オースティンが小説に書き記していた、父親亡き後の娘たちの困窮した経済状況の恐怖が、ついに現実となったのです。
そして、書きかけていた”The Watsons”は、続きが書かれることなく、未完に終わりました。

UnsplashのMartina Jordenが撮影した写真
2 31〜34歳 (1806-1809年)執筆から遠ざかった苦境の暮らし
1)バースでの苦しい生活
ジョージ・オースティンが妻に残したわずかな遺産、そしてカサンドラが婚約者亡き後に受け取った遺産、さらに兄弟たちからの財政支援を合わせてもオースティン家の女性3人がこれまでのような暮らしを続けられる状態ではありませんでした。
1805年3月 ジェーン・オースティンの母親、姉のカサンドラとジェーンの3人は、バースの小さな家に引っ越し、家政婦の数も減らし、質素な生活を始めました。
そして1806年1月終わりには、さらに狭い家へと引っ越しました。
そこは、これまでのように緑を感じられる環境ではなく、街中の小さな路地にあり、環境も悪く、オースティン一家にとって好ましい場所ではありませんでした。しかし、彼女たちに経済状況を優先する以外の選択肢はなかったのです。
2)3人の生活から4人へ
父親の死後バースで2回めの引っ越しをする際、オースティン家の女性3人の中に、もう1人の女性が加わり、4人で生活をすることとなりました。そのもう1人とは、マルタ・ロイド(Martha Lloyd)という女性で、ジェーンたちが幼い頃から親交がある友人でした。
彼女はジェーンの生まれ故郷スティーブントンに暮らしていました。
父ジョージ・オースティンの死後まもなく、マルタ・ロイドも母親を亡くし、住む場所を失っていました。そして、バースのオースティン家の女性3人と一緒に生活をすることになったのです。
マルタはその後もずっとオースティン家の女性たちと一緒に暮らし、ジェーンにとっては、友人であり姉である大切な存在でした。
3)サザンプトンへ移住
バースの生活にうんざりしていた女性たちは、1806年7月、ようやくバースを離れることになりました。
海軍に従事していたジェーンの1歳上の兄フランクが、ナポレオン戦争の活躍により報酬を手にしたため、結婚することになったのです。そして、そのフランクが海軍で遠征に出ている間、妻のメアリーとオースティン家の女性たちが一緒に暮らすことがお互いのためになると考え、ジェーンたちをサザンプトン(サウザンプトンと呼ばれることも)へ呼びました。

UnsplashのMartina Jordenが撮影した写真
オースティン家の女性たちは、サザンプトンで仮住まいに住んだのち、海の近くの庭付きの家で暮らし始めました。しかし、良い環境とはいえないサザンプトンの手狭な家でのオースティン家3人、マルタとメアリー女性5人の暮らしは、ジェーンが執筆の時間を取れるような落ち着いた暮らしとはほど遠い状況でした。
ジェーンの心は沈み、執筆から遠く離れていったのです。
そして、サザンプトンでの暮らしが3年経った1809年、ジェーン・オースティンたちにようやく転機が訪れました。
妻エリザベスの死後、子供たちと一緒にケントからハンプシャーへ移住することになった兄のエドワードが、近くにオースティン家の女性たちが住めるコテージを用意してくれたのです。
エドワードは幼い頃に、子供がいないお金持ちの親戚ナイト家に養子に出ていました。
ジェーンやカサンドラは、子供の頃からエドワードが暮らすケントの裕福な家に滞在したことがあり、結婚後のエドワードの子供達とも仲良くしていました。
エドワードはハンプシャーにも広い土地を所有しており、ジェーンたちが住んだその家も、エドワードの所有地の一つだったのです。
4)出版社への手紙
サザンプトンを離れることが決まったのち、気持ちが安定し、またきっとサザンプトンで本を出版している女性と知り合ったこともきっかけとなり、ジェーン・オースティンは自身の本の出版へ願望を再燃させました。そして、すでに出版権を買い取ってもらってから6年経っているにもかかわらず、いまだに出版されていない『スーザン』(のちの『ノーサンガー・アビー』)について、クロスビー社へ問い合わせの手紙を出しました。
その際、彼女は自らを “Mrs Ashton Dennis” と名乗り、頭文字をとって“MAD”とサインをしたのです。そう、マッド、という激しい怒りを表したのです。
そして、出版社からの返事に記載されていた言い分は、支払った10ポンドは出版を約束するものではなかった、原稿を取り戻したいのであれば、10ポンド支払う必要があるというものでした。
ジェーン・オースティンにとって、原稿を取り戻すために必要な10ポンドは、たやすく用意できる額ではなかったのです。
3 35〜37歳 (1810-1813年)作家としての人生がスタート
809年8月、オースティン家の女性3人とマルタは、ハンプシャーのチュートン・コテージChawton Cottageへ引っ越しました。そこは、生まれ育ったスティーブントンSteventonの家からそれほど離れたところではなく、ジェーンにとってより快適な環境でした。
エドワード一家は近くのチュートン・ハウスで暮らし、サザンプトンで一緒に暮らしたフランク一家も、近くの街アルトンAltonに引っ越してきました。
兄のジェームズ、ヘンリーや弟のチャールズ一家もチュートンを訪れることもあり、チュートン・コテージでの生活は、ジェーンが姪や甥たちと交流する機会も多くありました。
ジェーンの日常は、朝ピアノを弾き、その後朝食、姉のカサンドラと家事を分担しながら執筆をするというものでした。カサンドラとマルタは、ジェーンが執筆の時間を取れるように、家事を多く引き受けていたようです。
ジェーンたちが住んだチュートン・コテージは、現在Jane Austen’s Houseという名のミュージアムになっており、一般訪問することができます。

1)”Sense and Sensibility” 『分別と多感』の出版
安定した生活を取り戻したジェーンは、20代前半に初めて書いた長編小説『Sense and Sensibility 分別と多感』を書き直しました。当時のタイトルは『エリノアとマリアンヌ』でした。
父親の死後、住んでいた家を追われた母親とエリノア・マリアンヌ姉妹は、親戚が所有するコテージに住むことになります。
まさに、この時のジェーンの状況と同じです。
ジェーンはこの本を出版するに際して、再びロンドンに住む兄のヘンリーをたよりました。
ヘンリーは、面識のあった出版社、Thomas Egerton社 (トーマス・エガートン)へ原稿を持ち込みました。この出版社は、当時軍事ものをテーマにした書物の出版で潤っている会社でした。そんな出版社が、ジェーン・オースティンの恋愛や女性社会をテーマにした本を扱ってくれるのかとも思いますが、ナポレオン戦争のおかげで軍事の書物が売れていたため、ジェーンの本を出版する余裕があったのでしょう。
ジェーン・オースティンは、自分の名前を名乗らず、無名の “By a Lady” という形で出版しました。当時はプライベートを守るため、名乗らずに匿名で出版する方法も多くあったようです。
そして、出版社は出版を約束はするものの、出版内容や印刷に関してはすべて作者に責任があり、売れた額のコミッションを出版社が受け取るという、いわゆる現代の自費出版の形でした。当時はそういう方法も一般的だったのです。
“Sense and Sensibility” は750部印刷されることになりました。
売れなければ、印刷費を負担するジェーン側に大きな負担がかかります。
ジェーンにとって、人生最大の挑戦だったでしょう。
ジェーンはロンドンのヘンリーのところに住むこみ、印刷されるまでじっくり原稿と向き合い、自ら見守りました。
当時の印刷技術では、製本作業に多大な時間がかかりました。
1811年1月に印刷が開始され、本が完成した時は10月になっていました。
そして、初めてこの作品を執筆してから17年の月日を経て、ようやく本という形になって世の中に出ることになったのです。ジェーン・オースティンはどんな気持ちだったでしょう。
『センス アンド センシビリティ 分別と多感』は、それから新聞で高評価が発表され、750部は完売したのです。
2)”Pride and Prejudice” 『高慢と偏見』の出版

“Sense and Sensibility”が出版されてすぐ、ジェーン・オースティンは彼女の2作目の原稿の書き直しを始めました。父親ジョージ・オースティンが最初に出版社に原稿を送った当時のタイトル“First Impression”です。
“First Impression”は出版社に拒否されていたため、コピーライトはジェーンにありました。
20代初めに失恋を経験をした後に誕生したこの作品、当時の完成度がどこまでだったのかは分かりませんが、それから10年以上の時を重ねて、この小説は“Pride and Prejudice” 『高慢と偏見』とタイトルを変え、傑作へと生まれ変わったのです。
“センス アンド センシビリティ”で好印象を抱いた出版社のエガートン社は、2作目はコミッションを受け取る形ではなく、コピーライトそのものを買い取る契約を提案してきました。それであれば、ジェーン側の負担も減ります。リスクを承知で準備を進めたエガートン社は、結果的に大きな報酬を手にしたのです。
” Pride and Prejudice プライド アンド プレジュディス”は1813年1月27日に発売されました。そして、瞬く間に高評価が出回り、大人気となり、増刷されていったのです。
さらにその勢いに任せ、”Sense and Sensibility”もまた増刷され、ジェーンはその報酬も受け取ることになりました。
ジェーン・オースティンは、ようやく作家としての勢いに乗っていったのです。
そしてさらにその後、彼女は野心に満ちた行動に出ることになるのです。
<つづく>

