名誉革命 Glorious revolution : ジェームズ2世とウィリアム3世ースチュアート朝④
17世紀のイギリス、スチュアート朝のお話、今回は4回目です。
現代のイギリス議会や王政に影響を与えているスチュアート朝のできごと、今回もまた、議会と国王の間で大きな動きがありました。
前回は、フランスに亡命していたチャールズ2世を呼び戻し、イギリスに王政が復活したお話でした。
チャールズ2世が亡くなった後、このまま順当に王政が続いていくように思えましたが、また革命が起きたのです。それは、名誉革命 Glorious Revolutionという名前がついたものでした。
明るい希望を感じるような命名ですが、いったい何が起きたのでしょうか?
1 名誉革命 Glorious Revolutionとは?
1685年チャールズ2世が亡くなると、後を継いだのは弟のジェームズ2世でした。
チャールズ2世には庶子はいましたが、ポルトガルから迎えた王女キャサリンとの間に世継ぎが誕生しなかったため、弟のジェームズが国王になったのです。
しかし、ジェームズ2世はカトリック教徒でした。
プロテスタントを国教としていたイングランドの中で、カトリックを優遇する王は歓迎されませんでした。
ジェームズ2世の長女のメアリーは、1662年に誕生しています。この時は、すでにチャールズ2世がイギリス国王としてイングランドに戻って統治をしていました。そのチャールズ2世は、女王としての継承順位が高いメアリーを、プロテスタントとして育てるように強く進言したのです。
そのため、プロテスタントの議員たちも、ジェームズ2世の治世が終われば、またプロテスタントの王に戻ると思っていました。
しかし、1688年ジェームズ2世に息子が誕生しました。
そこで、イングランドが再びカトリックの王による統治に戻ることを避けるため、プロテスタントの議員たちは、オランダからウィリアムをイングランドへ呼び寄せたのです。そして、ウィリアム3世としてイギリスの国王に即位することになりました。ウィリアムは、ジェームズ2世の長女、メアリー2世と結婚しており、二人ともプロテスタントを信仰していたのです。
ジェームズ2世は退位をしてフランスへ亡命し、ウィリアム3世とメアリー2世が共同統治をする形で、新たにイギリスの国王となりました。
戦いにより血を流すことなく、プロテスタントの王へと交代した栄誉ある革命、と言われています。
しかし、よく調べてみると、この名誉革命 Glorious Revolutionにもさまざまなストーリーがありました。
ではさっそく、退位したジェームズ2世、そしてオランダからやってきて新しくイギリスの国王となったウィリアム3世を中心にストーリーを追いながら、名誉革命について見ていきましょう。

2 ジェームズ2世(1633 ー 1701年)
1)カトリックの信仰
ジェームズ2世は、ピューリタン革命(English Civil War)で処刑されたチャールズ1世の次男でした。15歳の時にイングランドから脱出し、その後ヨーロッパで亡命生活を送っていました。
1660年兄のチャールズが国王としてイングランドに戻った際、ジェームズもイングランドに戻ってきました。そして、平民の出であるアン・ハイドと結婚をしました。
アンとの間には、メアリとアンが誕生しました。
ジェームズの母親ヘンリエッタ・マリアはカトリック、また、ヨーロッパでの亡命生活の間にフランスとの親交を深めたこともあり、1669年頃ジェームズはカトリックに改宗したと言われています。
この頃、まだ兄のチャールズに世継ぎができることを想定し、自身が国王になるとは思っていなかったのかもしれませんが、イングランドの国王がカトリックを信仰することはまったく好ましいことではありませんでした。
しかし、実際自身の父親を処刑した者たちもプロテスタントであり、ジェームズ2世がプロテスタントよりもカトリックへ思いを強めていたことは確かだったのでしょう。
ジェームズ2世は、1671年に妻のアン・ハイド亡き後、1673年メアリー・オブ・モデナと再婚しました。彼女もまた、カトリック教徒だったのです。
2)息子の誕生
兄のチャールズ2世が亡くなった後、1685年4月23日 ジェームズ2世はウェストミンスター寺院で戴冠しました。
ヘンリー8世による宗教改革の後、2番目のカトリックの君主でした。
1番目は、そう、ヘンリー8世の娘、メアリー1世でした。
メアリー1世は、ブラッディーメアリーと呼ばれたように、プロテスタントの残忍な迫害を行った女王でした。
ジェームズ2世は、宗教的寛容政策をとり、カトリックを解放しようとしました。
また、政府や軍・大学などの高位職にカトリック教徒をつけました。
このようなカトリック優遇策に対して、プロテスタントたちは脅威を覚えましたが、ジェームズの後継ぎと思われいてた娘のメアリーがプロテスタントであったため、ジェームズの治世が終わればまたプロテスタントに戻ると思い、我慢していました。
しかし、状況は一転したのです。
1688年ジェームズに息子が誕生し、カトリックの洗礼を受けさせたのです。

ジェームズの息子誕生には、陰謀説まで飛び交いました。
メアリー・オブ・モデナが妊娠していたということも実は虚偽なのではないか、出産時には多くの人が立ち会っていたにも関わらず、本当は出産しておらず、別の赤ちゃんとすり替えられたのではないかという話が出回ったのです。
驚くべきことに、この虚偽話には、ジェームズ2世の娘アンも積極的に関わっていたと言われています。
それほどまで、プロテスタントの人々にとって、ジェームズ2世のカトリックの世継ぎ誕生は認めたくないことであったのです。
そして、いよいよプロテスタントの政治家たちは動きに出ることにしたのです。
この先は、ウィリアム3世に焦点を当てて、見ていきましょう。
3 ウィリアム3世(1650 – 1702年)
1)オランダ総督
ウィリアムは、オランダ総督オラニエ(オレンジ)公ウィレム2世と、イングランドのチャールズ1世国王の娘、メアリー・ヘンリエッタの間に生まれました。
オランダではウィレムと呼ばれています。
そして、1677年いとこにあたるジェームズ2世の娘、メアリーと結婚したのです。
当時オランダは、7つの半独立州からなる連合体で、ウィリアム3世はそのうち5州を治める総督(Stadtholder)でした。その5つは、最も裕福な州であるオランダと、ゼーランド、ユトレヒト、ゲルダース、オーバーイッスルでした。
ウィリアムが誕生する8日前に、父親のウィレム2世は天然痘に罹患し亡くなっていました。ウィリアム誕生時には、オランダの有力商人や共和派指導者たちは、オラニエ家が強大化することを防ぐため、ウィリアムを総督としては認めず、総督不在の年が続いていました。
しかし、1672年フランスがオランダへ侵攻し、オランダの大半をフランスに占領されると、ウィリアムがオランダの総督として任命され、フランスと戦うことになったのです。オランダは同時に、イングランド、ドイツからも攻撃を受けましたが、ウィリアムの聡明な指導力により国を救い、オランダの英雄となったのです。
ウィリアムは、イングランドとオランダの間のプロテスタントの関係を強化し、カトリックのルイ14世率いるフランスと対抗する手段の一環として、イングランドのいとこであるメアリーと結婚したのです。
当時、ウィリアムは27歳、メアリーは15歳でした。

ウィリアムとの結婚が決まった当初は、その取り決めに悲しみにくれたメアリーでしたが、オランダでの生活も次第に馴染み、ウィリアムとの仲も良好になっていきました。
そんな中、1688年6月30日 イングランドのプロテスタントの7人の政治家たちが、ウィリアムに接触してきました。イングランドに上陸して、国を導いてほしいと。
2)イングランドへ上陸 ー 名誉革命
ウィリアムにとっては、宿敵ルイ14世のフランスからプロテスタントのヨーロッパ北部を守るために、この話は悪い話ではありませんでした。
そして、イングランドをカトリックから守るという名目で、1688年11月6万の兵を率いてイングランドに上陸しました。
ジェームズ2世にとっては、まさか義理の息子から本当に裏切りにあうとは思ってはおらず、さらに娘のアンもウィリアム側に協力する体制をとり、兵力も敵わず逃げるしかありませんでした。
ジェームズ2世は一度ロンドン郊外で捕えられましたが、ウィリアムはジェームズを処刑するつもりはなく、退位をするという意味でフランスへ逃しました。
こうして、1688年イングランドでは戦争をして犠牲者を出すことなく、体制の変革に成功したということで、名誉革命 Glorious Revolutionと呼ばれることになったのです。
本来であれば、メアリーが君主の座につくところですが、ウィリアムはただの侵略者としての立場になることを嫌がり、メアリー2世とウィリアム3世の共同統治という形で戴冠したのです。
イギリスの歴史上、共同統治という形はこのメアリー2世とウィリアム3世だけになります。
3)権利の章典 Bill of Rights
ウィリアム3世とメアリー2世が共同統治をするにあたり、議会によりイギリス憲法の礎となる「権利の賞典 Bill of Rights」が起草されました。
これにより、君主が議会の同意なく法律の停止・廃止を行わない、課税をしない、常備軍を維持しないなど、君主の権力が制限されることとなりました。
また、議会の権利と独立を守り、個人の自由と正義を守ることが定められています。
さらにこの法案では、王位継承に関しても記載されました。そして、ローマ・カトリック教徒がイングランドの王位に就くことを禁じることになったのです。

3 ジェームズ2世・ジャコバイトの反逆
君主による絶対王政の仕組みが平和に改革された名誉革命でしたが、実はつづきはありました。
名誉革命後でも、ジェームズ2世を支持するカトリック教徒がアイルランド・スコットランドにいました。彼らはジャコバイトと呼ばれていました。
そして、フランスへ逃亡したジェームズ2世は、ルイ14世の援助を受け反逆に出たのです。
1689年3月、ジェームズ2世の軍は、ジャコバイトのカトリック教徒が多いアイルランドに上陸しました。そして、ウィリアム3世のプロテスタント軍もそこへ派遣され、戦いが起こりました。
1690年7月、両軍はボイン川で衝突しました。
ジェームズ2世の軍は惨敗し、再びフランスへ撤退しました。その後、ジェームズ2世がイングランドに戻ることはありませんでした。
また、スコットランドのキリエクランキーでもジャコバイトが反乱を起こしました。
当初優勢に見えたジャコバイト軍でしたが、優秀な指揮官ダンディー子爵の戦死後、軍の統率が乱れ、ウィリアム軍に敗北しました。
さらに、ウィリアム3世は、ジャコバイトの反乱に関連付けて、スコットランドのグレンコーでマクドナルド氏族を残忍に虐殺し、残された女性・子供も飢餓などで死亡したという話も残されています。
無血の栄誉ある革命と呼ばれた名誉革命に関連して、実際はアイルランド・スコットランドでは多くの人々が血を流し、命を落としていたのです。
4 ケンジントン宮殿とハンプトンコート宮殿 – ウィリアム3世とメアリー2世

ウィリアム3世とメアリー2世は、ロンドンのケンジントン宮殿とハンプトンコート宮殿に住居をかまえました。
二人は、この二つの宮殿の改築を、建築家のクリストファー・レンに依頼しました。
今でも、ケンジントン宮殿とハンプトンコート宮殿でウィリアム3世とメアリー2世が過ごした部屋や庭園見ることができるのです。
1)ケンジントン宮殿
ウィリアム3世とメアリー2世は、当初ホワイトホール宮殿に住みました。しかし、ロンドンの町の中心のテムズ川沿いの宮殿は、湿った空気に煙がただよい、喘息を患っていたウィリアム3世の健康には適しませんでした。
そこで、少し離れた場所にあったノッティンガム・ハウスという名前の邸宅を購入し、クリストファー・レンに王室の住居として改築するよう依頼をしたのです。それが、ケンジントン宮殿です。
それから、ケンジントン宮殿も王室の居城として使われるようになりましたが、今でもメアリー2世とウィリアム3世が住んでいた様子を、そのまま見ることができます。


Queen’s apartment

また、ケンジントン宮殿は、ビクトリア女王が生まれてから、女王に即位する18歳まで住んだ場所でもあり、ビクトリア女王のお部屋の展示も見ることができますよ。
2)ハンプトンコート宮殿

ハンプトンコート宮殿は、チューダー朝のヘンリー8世が居城として使うようになってから、代々王室の居城として使われてきました。
ウィリアム3世とメアリー2世も、ハンプトンコート宮殿をたびたび訪れて、住居として使っていました。
ハンプトンコート宮殿では、ヘンリー8世のチューダー朝の大広間やキッチンが見どころとして知られていますが、ウィリアム3世とメアリー2世が新たに改築した居住エリアも見学することができます。
ウィリアム3世の居室に続く階段も見事です。

右:William III State Apartment
オーディオガイドを聞きながら、ウィリアム3世とメアリー2世がどのように過ごしていたかを想像しながら歩くのもまた面白いですね。
ハンプトンコート宮殿の敷地は非常に広く、ヘンリー8世のチューダー朝の部屋、ウィリアム3世のスチュアート朝の部屋、そしてガーデンをすべて見ようと思うと、かなり時間がかかりますので、一度に全部を見学することは難しいかもしれません。

メアリー2世は、1694年天然痘に罹患し、32歳の若さで亡くなりました。
それ以後は、ウィリアム3世の単独統治となりました。
メアリー2世を失ったウィリアム3世は、大きな悲しみにくれ、深刻なうつ状態に陥ったと言われています。
ウィリアム3世にはいろいろなスキャンダルの噂もありましたが、メアリー2世亡き後は、1702年51歳で亡くなるまで、生涯独身で過ごしました。
ウィリアム3世とメアリー2世の間には、世継ぎは誕生しなかったため、その後はメアリー2世の妹であるアンが君主の座を引き継ぎました。
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