オリバー・クロムウェルと王政復古 The Restoration – スチュアート朝③
17世紀のイギリス、スチュアート朝で起きた大きな出来事についての記事、今回は3回目です。
前回、国王と議会が争った大きな戦い、日本語でピューリタン革命と呼ばれるEnglish Civil Warについて紹介しました。
議会派のニューモデル軍が活躍し勝利、そして、国王チャールズ1世は処刑され、息子のチャールズ2世はその後フランスへと逃亡しました。
国王がいなくなった後、国はいったい誰が実権を握ったのでしょうか?
それは、オリバー・クロムウェルでした。
今回は、そのオリバー・クロムウェルの時代と、さらにその後に起きた変革について見ていきます。
1 オリバー・クロムウェル
王党派と議会派の戦いが終結した後、国王に代わって国を率いた人物は、オリバー・クロムウェルでした。
戦争中、議会派のニューモデル軍の最高司令官として活躍していた人物は、トーマス・フェアファックスでしたが、彼は国王チャールズ1世の処刑には反対しており、1650年に軍の指揮を辞任したのです。
そしてオリバー・クロムウェルが、その後を継ぎ、チャールズ1世処刑後に蜂起したスコットランドやアイルランドの反乱軍を征伐することとなったのです。
では、オリバー・クロムウェルは王がいない共和国の指導者として、どのような振る舞いをとったのでしょうか。
1)1653年 ランプ議会を解散
1648年12月、議会がチャールズ1世を処刑するかどうかの投票をした際、穏健派と王に同情する者は強制的に排除され、議会にはわずかな人数だけが残っていました。その議会を、ランプ議会(残存していた議会)と呼んでいました。
過激な行動に出て残ったランプ議員でしたが、クロムウェルが、1653年スコットランド・アイルランドとの戦いの後に議会に戻ってきた頃には、自分たちの権力をそのまま続かせたいという気持ちから、議員たちは保守的な考えを示すようになっていました。そして、新たな選挙の実施にも消極的になっていたのです。
政治や宗教の改革が先に進まない状態に苛立ちを覚えたクロムウェルは、1653年4月20日、兵士たちの支援を受け、強制的に議会を解散させました。
その後7月に、選挙をせず、クロムウェルと将校たちによって指名された議員で構成されたベアボーンズ議会が召集され、オリバー・クロムウェルによる高揚感に満ちた演説がなされました。
しかし結局ここでも穏健派と急進派の対立が起き、召集からわずか5ヶ月後の12月12日には、クロムウェルに権限を返上する形で議会は解散されました。
2)護国卿 Lord Protectorへの就任
1653年12月16日、オリバー・クロムウェルは護国卿 Lord Protectorに就任しました。
ベアボーンズ議会が失敗に終わった後、軍の将校たちは新憲法(統治法)を起草し、この憲法に基づいて、オリバー・クロムウェルが正式に護国卿に任命されたのです。
護国卿は、イギリスで国家元首としての役割を示します。
オリバー・クロムウェルも、君主と同様の多数の最高権力を有していました。そして、軍事国家元首としてイギリスを統治したのです。
護国卿に就任した後も、護国卿議会は開かれましたが、議員とは頻繁に衝突し、解散と開会を繰り返しました。
1657年、オリバー・クロムウェルは憲法改正の一環として、議会から王位を提示されました。一時はその申し出に魅力を感じたクロムウェルでしたが、王位は共和国を弱体化させると考え、終身護国卿にとどまったのです。
3)敏腕な外交政策
オリバー・クロムウェルは軍事的才能に長けていたと言われています。
彼が護国卿として君臨した間に、イギリスをヨーロッパの大国として揺るぎない地位へと押し上げました。
具体的に見てみましょう。
* 第一次英蘭戦争の終結
1651年 オリバー・クロムウェルが、オランダの中継貿易を排除するために出した航海法をきっかけに、イギリスとオランダで海上の覇権争いが起こり、1652年から1654年まで英蘭戦争がおきました。
結果的に、1654年ウェストミンスター条約を結び、オランダは航海法を受け入れ、イギリスは海軍を拡張し、海軍国家としての力を見せつけることになりました。

* スペインとの戦い(英西戦争)
オランダとの戦いが終結すると、クロムウェルは1654年から1660年の間、植民地の拡大や宗教的対立を起因とし、ハプスブルク・スペインと戦いました。スペインはカトリック大国だったのです。
1657年イギリスはフランスと同盟を結び、ヨーロッパで大国であったスペインを打ち破りました。
4)オリバー・クルムウェルの悪評
ここまで、オリバー・クロムウェルについての功績をお伝えしてきました。
専制政治を強いた絶対君主制を解体し、軍事的な才能を発揮してイギリスを強国へと導いた英雄であるクロムウェルですが、逆に悪党としての声も聞かれています。
まずはチャールズ1世を処刑に追い込んだことで、残忍な印象を与えましたが、続いて下記の行いが悪評を呼んだのです。
* アイルランドの残虐な征伐
1649年から1650年にかけて王党派と戦った際のアイルランド征伐の際、カトリック教徒の民間人を大量虐殺したと言われています。
また、土地を没収し、アイルランドでプロテスタントを確立した政策は、アイルランド史上において、極めて残忍なやり方であったと言われています。
* ピューリタンとして娯楽の禁止
護国卿となったオリバー・クロムウェルは、敬虔なプロテスタントの一派であるピューリタンとして、人々の娯楽を禁止しました。
具体的には、観劇や競馬、スポーツ、そしてクリスマスを祝うことも禁じたのです。
このことは、人々から大いに不満を買うこととなりました。

***
1658年 オリバー・クロムウェルは体調を悪化させ、亡くなりました。
そして、遺体はその時は、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。
しかし、その遺体は後に掘り起こされ、ひどい仕打ちを受けることとなります。

2 オリバー・クロムウェルのミュージアム
イギリスには、オリバー・クロムウェルに関連したミュージアムが2つあります。
この2つのミュージアムは、車で40分ほどの距離のところにあります。
1)オリバー・クロムウェルの家
イングランドのケンブリッジシャーの都市、イーリー (Ely)にあるオリバー・クロムウェルの家は、彼が1636年から護国卿になる前に家族と一緒に住んだ家が、そのまま記念館として残されています。
オリバー・クロムウェルが実際に住んだ家として残されている場所は、ロンドンのハンプトン・コート宮殿以外にはこのオリバー・クロムウェルの家のみになります。
クロムウェル夫人が使ったキッチンなど、17世紀の家庭生活に使われていた部屋や、イングランド内戦(English Civil War)に関する資料の展示を見ることができます。
ホームページはこちらです。
2)クルムウェル ミュージアム
オリバー・クロムウェルが生まれた町、ハンティンドン (Huntingdon)にあるミュージアムです。
オリバー・クロムウェルの生家は今は残されていませんが、オリバー・クロムウェルの生家と記されたプレートが掲げられています。
そして、オリバー・クロムウェルが通ったグラマースクールの建物が、現在クロムウェル博物館となっています。
オリバー・クロムウェルの肖像画やミニチュア、軍事的な資料などが展示されています。
ホームページはこちらです。
3 リチャード・クロムウェル
オリバー・クロムウェル亡き後は、息子のリチャードが後を継ぎ、護国卿に就任しました。
リチャードは、父オリバー・クロムウェルが護国卿として国を統治していた時から、護国卿議会の議員として政治に参加していました。しかし、実際リチャード・クロムウェルには、政治的にも軍事的にも父親のような手腕はなく、政権を混乱させてしまいました。
そして、就任からわずか8ヶ月後、護国卿を辞任しました。
有能な統治者を欠いた、不安定で娯楽もない世の中に、人々はうんざりしていました。
そのような中で議会が出した答えは、チャールズ1世の息子、チャールズ2世を王として呼び戻すことだったのです。
4 王政復古とチャールズ2世
1)ブレタ宣言と王政復古
イングランドへ王として戻ってきてもらいたいという話を受け、チャールズ2世は亡命先のオランダからブレダ宣言を発表しました。
それは、再び君主制に戻す際に、残忍な復讐を求めたり、新たな内戦を引き起こさないように国を説得するためのものでした。
議会はその条件を受け入れ、チャールズ2世を国王として迎えることになったのです。
1660年5月25日、9年間の亡命生活を送っていたチャールズ2世が、船でドーバーに到着しました。そして、チャールズ2世の30歳の誕生日である5月29日にロンドンに入りました。チャールズ2世は、大勢の市民から盛大な祝福を受けました。
このチャールズ2世が国王に戻って統治をしていた時代を、王制復古期 The Restorationと呼んでいます。
チャールズ2世は、オリバー・クルムウェルの支持者たちほぼ全員に恩赦を与えましたが、父親であるチャールズ1世の処刑を支持した者たち9名は、処刑されました。その中には、オリバー・クロムウェルも含めてすでに亡くなっている者たちもおり、遺体が掘り起こされ、死後の斬首刑に処せられたのです。
では、再び王制がはじまったイギリスでのチャールズ2世について、見ていきましょう。

2)チャールズ2世
1661年4月23日、ウェストミンスター寺院でチャールズ2世の戴冠式が行われました。
チャールズ1世処刑後、それまでの王冠などの装飾品は売却されたり融解されたりしたため、新しい王冠が用意されました。
そして、1662年5月ポルトガルの王女キャサリン・オブ・ブラガンザと結婚しました。
チャールズ2世は好色として知られており、結婚した当時から、すでに既婚者である女性を愛妾にしており、その後も何人もの愛妾をもったことで知られています。しかし、このキャサリンも王妃として大切にしていたそうです。
チャールズ2世が国王として君臨したスチュアート朝の1660年代には、2つの惨事がありました。
ひとつは、1665年頃から大疫病(ペスト)が蔓延したこと、そしてもうひとつは、1666年にロンドンで発生した大火災です。
この二つの出来事により、多くの国民が命を落とすことになってしまいました。
このように不安と危機に立ち向かった治世初期でしたが、チャールズ2世はイギリス史上の中で、国民に親しまれた君主の一人だったと言われています。
チャールズ2世は、9年間の亡命生活の間、ルイ14世統治下のフランスやヨーロッパでの洗練された文化を体験していました。そして、観劇やスポーツ、競馬などを復活させ、イギリスにも再び活気ある文化的な社会を取り戻したのです。
また、ケンブリッジのトリニティ・カレッジで研究をしていたアイザック・ニュートンのパトロンとなったり、グリニッジに王立天文台を設立したりと、科学の発展にも貢献しました。

ロンドン大火で消失した建築物の復興にも力を入れ、クリストファー・レンにセントポール大聖堂を含むロンドンの再建を依頼しました。

1685年2月8日、チャールズ2世はホワイトホール宮殿で亡くなりました。54歳でした。
亡くなる前に、チャールズ2世は自らが実はカトリック教徒であったことを明かしたのです。
スチュアート朝治世下のイギリスで、カトリックとプロテスタントという異なる宗派が問題となる時が、やがて再びやってくるのです。
つづく
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