知ると面白いハプスブルク家 6)ルドルフ2世とマティアス兄弟、そしてフェリペ3世
オーストリア、ヨーロッパの歴史に登場するハプスブルク家についてたどっています。
宗教改革の後プロテスタント系新教徒とカトリック教徒の対立が始まり、東からはオスマン帝国が勢いをふるっているヨーロッパ。ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝を代々引き継いでいるオーストリア系ハプスブルク家とスペイン系ハプスブルク家に分かれています。
前回、それぞれオーストリアとスペインのハプスブルク家当主となった、いとこ同士のマキシミリアン2世とフェリペ2世のお話を見てきました。
プロテスタントの行方が気になるオーストリア、ハンガリー、ボヘミア(チェコ)では、ルドルフ2世とマティアス兄弟が神聖ローマ皇帝として統治します。芸術や錬金術・占星術に興味を注いだルドルフ2世、兄から奪うように王位を継いだマティアス。
衰退の兆しを見せたスペインハプスブルクを継いだフェリペ3世。近親婚を続けたスペインハプスブルク家の行方が危ぶまれています。
今回はそんな3人のストーリーを見ていきましょう。
1 ルドルフ2世(1552ー1612年)
ルドルフ2世の父親であるマクシミリアン2世は、ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝としてカトリックを支持している中、プロテスタントに興味を示していました。
そこで、子供たちにきちんとカトリックの教育を受けさせるために、ルドルフ2世と弟のエルンストは幼少期1563から1571年の間、母親マリアの出身地であるスペインハプスブルクのフェリペ2世のもとで過ごしました。ルドルフ2世が後にスペイン家も継ぐ可能性があったこと、そして両家の絆を強くしたいという背景もあったようです。
ルドルフ2世は、11歳から19歳までの10代をスペインで過ごしたことにより、敬虔なカトリック教徒として成長しました。
1576年24歳の時に父マクシミリアン2世がなくなると、神聖ローマ皇帝位を引き継ぎました。
ルドルフ2世は政治統治者としては優秀とは言えず、新教徒との対立・オスマン帝国との戦いに悩まされました。そして、芸術・科学の擁護者として知られており、錬金術や占星術に深く関わっていきました。
では、具体的に2つのことに焦点をあてて見てみましょう。
1)プラハでの芸術・科学の支援
ルドルフ2世は1583年にハプスブルク家の都をウィーンからプラハに移し、プラハ城に居住します。そして、プラハ城にこもり、あらゆる芸術作品や珍奇な品々を収集しました。さまざまな分野の芸術家を宮廷に呼び、芸術・科学を支援したのです。
ルドルフ2世にまつわる最も有名な作品の一つとして、ミラノ出身の画家ジュゼッペ・アルチンボルト作の『ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世像』があります。
ルドルフ2世をローマ神話の豊穣の神ウェルトゥムヌスに見立てた、果実や野菜などで描かれた肖像画です。何も知らずにこの絵を見ると、皇帝の肖像画をこのようにふざけた視点で描いて大丈夫なのだろうかと驚きますが、実際本人から依頼されて書いた絵であり、アルチンボルトは翌年爵位が与えられたそうです。
後に起こる三十年戦争後期、スウェーデン軍によりプラハを包囲された際、多くの美術品が押収され、ルドルフ2世のコレクションの多くもスウェーデンに渡ってしまったと言われています。アルチンボルトによるこの肖像画も、現在スウェーデンのスコークロステル城が所蔵しています。
そのほか、ルドルフはデューラーやブリューゲルなどの絵画作品も積極的に集めており、それらはルドルフの死後ウィーンに運ばれ、ウィーンの美術史美術館に収められています。
2)ハプスブルク家統治者としての衰退
オーストリアを中心とする中央ヨーロッパ領土の統治は、中央統治国家であるスペインの君主制とは違うということをルドルフ2世は感じました。さらに、ハプスブルク帝国は、オスマン帝国との脅威にもさらされていました。戦争の資金問題もあり、オスマンとの長引く戦争で、ルドルフ2世はハンガリーでの権威が衰退していきました。
1600年頃から、ルドルフは精神的な問題を抱えるようになりました。周囲の人々にも大きな不信感をいただくようになり、自身の芸術コレクションの世界へと埋没していきます。
そして、弟マティアスを中心とする兄弟・親族によって、ルドルフ2世は精神に障害を持っているとしてへ反発する条約がなされ、ルドルフ2世廃位への動きが公然と起こるようになりました。
そのような中でますます精神不安定に陥ったルドルフ2世は、1611年弟マティアスにボヘミアの王位を奪われます。
その後数ヶ月プラハで孤独な生活を送り、1612年はじめに亡くなりました。
ルドルフ2世はプラハの聖ヴィート大聖堂の地下室に埋葬されました。
ルドルフ2世は幼い頃からスペインハプスブルク家の王女であるイザベラとの婚約を決められていましたが、結婚はしませんでした。美術収集家のヤコポ・ストラーダの孫娘カタリーナとの間に非嫡出子が数人いましたが、後継者はいませんでした。
そして、ルドルフ2世のあとは弟のマティアスが後を継ぐこととなったのです。
2 マティアス(1557ー1619年)
ルドルフには1歳違いの弟エルンストがいましたが、彼は1595年41歳で亡くなりました。エルンストとは幼少期を一緒にスペインで過ごしており、ルドルフ2世も信頼を寄せていたようです。
エルンストの死後、マティアスが後継者候補となり、ルドルフ2世との兄弟抗争を繰り広げることとなるのです。
マティアスは、スペインハプスブルクのフェリペ2世とオランダとの間で起こった争いの際に、フェリペ2世にも兄のルドルフにも告げずに1577年オランダへと赴きます。ネーデルラントで新教側とうまく折り合いをつけて、総督の座につくことを画策していたのです。しかし、若きマティアスは政治経験も乏しく、オランダの紛争を収めることはできず失敗に終わりました。そして、1583年オーストリアに戻ります。
その後、兄のエルンストが亡くなると、ルドルフ2世がプラハにいるため、マティアスはオーストリアの総督としての地位を得ます。
そして、兄ルドルフ2世の精神状態が問題となった際に、主要人物となっていくのです。
1604年ハンガリーでカトリックのハプスブルクに対する反乱が起こると、オスマントルコがハンガリーの不安定な状況を利用してさらに侵攻する可能性があるとし、ハンガリーとの協力体制をしきます。そのことに兄であるルドルフ2世は反発してきますが、マティアスはハンガリーの信教の自由を容認し、オスマン帝国とも和平を結びます。
そして、1611年ルドルフから奪う形でハンガリー総督に就任します。
1612年初めルドルフ2世がなくなると、マティアスは神聖ローマ皇帝を引き継ぎました。
そして、首都も再びプラハからウィーンへ移します。
マティアスが皇帝になった頃、ハプスブルク家は増大するプロテスタントとカトリックの対立に悩まされていました。マティアス自身は政治に積極的に関与せず、寵臣であるメルヒオール・クレスルに任せていました。
マティアスは、1611年にいとこであるチロル大公フェルディナントの娘アンナと結婚していましたが、後継者には恵まれませんでした。そこで、いとこであるフェルディナント2世が後継者となりました。マティアスとルドルフの父親マクシミリアン2世の弟カール2世の息子です。
そしてフェルディナント2世は1617年にボヘミア、1618年にはハンガリーの王に選ばれます。このフェルディナントは半カトリックへの妥協を容認しない君主であり、非カトリック領地に対して宣戦布告することとなるのです。
政権を動かしていたクレスルもフェルディナント2世によって打倒され、病床にいたマティアスはなすすべもなく1619年ウィーンで命を引き取りました。
その後、この宗教戦争は国際的に発展し、三十年戦争と呼ばれる戦いが始まったのです。
マティアスに関して、記しておきたいことが他に2点あります。
マティアスは現在でも観光地として有名なハプスブルク家にまつわる建物に一役買っています。
ハプスブルク家の夏の離宮としてマリアテレジアの頃から使われていたシェーンブルン宮殿があります。その名付けの親は、マティアスに発していました。
1612年マティアスが狩に出かけた際に、シェーンブルン宮殿があるあたりで美しい泉を見つけ、「なんて美しい泉なのだろう „Ei, welch’ schöner Brunn’!“」と言ったことが残されており、シェーンブルン宮殿という名前がつけられたのだそうです。
また、マティアスの皇妃となったアンナは、ウィーンのカプツィーナー教会に墓所を作ることを依頼し、フェルディナント2世の統治下に完成しました。
マティアスとアンナの遺体は、カプツィーナーの地下室が完成してからそこに移されています。カプツィーナー教会にはハプスブルク家代々12人の皇帝を含む146体の棺が安置されています。歴代ハプスブルク家皇帝の名が連なる墓所は、大変興味深い観光スポットとなっています。
さてこの頃、スペインハプスブルクはどうなっていたのでしょうか?
3 フェリペ3世 (1578ー1621年)
前回ご紹介したフェリペ2世は4回結婚をしていますが、1回目のポルトガル王女マリアとの結婚で息子ドン・カルロスが生まれました。
しかし、ドン・カルロスは精神疾患を抱え、父親に暗殺されるという恐怖を抱え、反逆まで企てて幽閉され、獄死してしまうのです。
フェリペ2世はその後、オーストリアハプスブルク家アナと、叔父と姪という関係で4回目の結婚をし、後継ぎのフェリペ3世が誕生します。アナとの間には4人の息子と1女を授かりますが、成長したのはフェリペ3世だけで、フェリペ3世も幼い頃から病弱でした。
フェリペ3世は、1598年20歳の時に父親フェリペ2世の死によってスペイン領を引き継ぎます。しかし、フェリペ3世は父親ほど統治能力に長けていませんでした。政治は国王の強力な代理人としてレルマ公が担っていました。
そして、南米からの銀の輸入によるインフレで、スペイン国内の経済は減退していきます。さらに、モリスコ族と呼ばれる表面的にキリスト教に改宗していたイスラム教徒たちを、不誠実であるとのことで迫害します。スペインで重要な経済要素を担っていたモリスコの数は25〜27万人に及び、スペイン農業及びスペイン経済は大きな打撃を受けてしまいます。
財政的に疲弊したことにより、フェリペ2世の頃から始まっていたオランダとの紛争は休戦となり、イングランドとの戦いも解決となりました。
オーストリアハプスブルク家との関係は、マティアスに嫡出子がいなかったことで後継者問題になりましたが、スペイン首席交渉官オニャテ伯により1617年オニャテ協定が結ばれ、フェリペ3世の請求権棄却が認められました。そして、オーストリアハプスブルク家はフェルディナント2世が引き継ぐことになったのです。
フェリペ3世は、1599年にオーストリアハプスブルクのフェルディナント2世の妹マルガレーテと結婚しました。マルガレーテは夫のフェリペ3世と違って政治にも積極的に関わりました。
そして8人の子供に恵まれ5人が成長します。後継者フェリペ4世は1605年に誕生しています。
フェリペ3世は闘病の末1621年42歳で亡くなりました。
オーストリアハプスブルクのマティアスが亡くなった2年後でした。