知ると面白いハプスブルク家 10)マリア・テレジアとフランツ1世

もわりー

オーストリアを中心に勢力を誇ったハプスブルク家のお話です。
今回は、ハプスブルク家の人物として名前を聞いたことがある方も多いと思われるマリア・テレジアについてです。

前回は、神聖ローマ皇帝カール6世が、スペイン継承戦争が終結した頃、後継者に関わる国事勅書を発令し、その後誕生した娘のマリア・テレジアが家督を継ぐことを合法化したところまで見てきました。

そして、1740年カール6世は56歳でこの世を去りました。

しかし、その後マリア・テレジアの相続はカール6世の思惑通りにはならず、周りから歓迎されるものではありませんでした。

では、マリア・テレジアの治世で起こった2つの大きな戦いとそこで登場する宿敵、そして最愛の夫フランツ1世と娘たちとの関係に焦点を当てて見ていきましょう。

1 マリア・テレジア(1717-1780年)

カール6世とエリーザベト・クリスティーネの長女として誕生したマリア・テレジアは、家督を継ぐ教育を受けずに育ちました。カール6世が女系の相続を進めていた一方で、まだ自身の生存中にマリア・テレジアに男子が誕生する可能性を信じていたのでしょう。

マリア・テレジアは1736年18歳の時にフランツ・シュテファンと結婚し、2人の王女が誕生しました。

その後王子が誕生する前に、1740年23歳の時に父親カール6世が亡くなり、ついにマリア・テレジアがハプスブルク家の後継者となったのです。

1)オーストリア継承戦争(1740-1748年)

ハプスブルク家の女系相続に関する法が制定されても、神聖ローマ皇帝は女性が継ぐことが認められなかったため、夫であるフランツが即位することを主張しました。

しかしこの状況に対して、カール6世の兄ヨーゼフ1世の娘婿であるバイエルン選帝侯のカール・アルブレヒトもまた、自身も王位後継者であることを主張しました。

そして、これに乗じてプロイセン王国の若き王フリードリヒ2世は、シュレージエンに攻撃を仕掛けてきたのです。さらにバイエルン、ザクセン、ハプスブルク家の弱体化を狙うフランスもまたハプスブルク家の領土に侵入し、オーストリア継承戦争が起こりました

マリア・テレジアは困窮しつつも猛々しく立ち向かい、イギリスとオランダを味方につけることに成功しました。

バイエルン選帝侯によりボヘミアを占領されると、マリア・テレジアは1741年6月ハンガリー女王として即位します。3月に誕生したばかりの息子ヨーゼフを腕に抱いてハンガリー議会に登壇し、「この子を助けられるのはあなた方だけなのです」と演説をし、ハンガリーの民衆から大きな指示を得ることになったとも言われています。

プロイセンとのシュレージェンを巡る戦いは、2期に分かれ長期化し、最終的に1745年12月ドレスデンの和約を結びシュレージェンはフリードリヒ2世率いるプロイセンの領土となったのです。

1748年アーヘンの和約が締結され、オーストリア継承戦争は終結しました。マリア・テレジアが統治者として国際的に承認され、フランツ1世として神聖ローマ皇帝位も確保されることとなりました。そして、シュレージェンはプロイセンの領土として世界的に認められたのです。

しかし、マリア・テレジアのシュレージェンの地奪還への意志は消えることなく、次なる戦いへと導くことになりました。

ウィーン美術史博物館と自然史博物館の間の広場にあるマリア・テレジア像
Leonhard NiederwimmerによるPixabayからの画像

2)七年戦争 ( 1756ー1763年)

皇帝となったフランツは政治には興味がなく、実際はマリア・テレジアが共同統治者として実権を握っていました。彼女の政治手腕は、後世までその名声が広まるほどに優れていたのです。

マリア・テレジアはプロイセンの攻撃に対抗しながら、国力を強めるために国家改革に着手しました。

内政改革には、シュレージェン出身である官僚ハウクヴィッツを登用し、各領地の貴族たちによって独自に行われていた政治活動を、中央に集約した組織体制に置き換えることを目指しました。

そして、外交政策はカウニッツが指導しました。彼はプロイセンのフリードリヒ2世に対抗するために、イギリスではなく、これまで長年敵対する関係にあったフランスと手を組むことを進めたのです。彼はフランスに渡り、ルイ15世の愛妾であるポンパドール夫人を通じてフランスとの同盟を取り付けました。

さらに、プロイセンのフリードリヒ2世を嫌っていたロシアのエリザベータ女帝とも手を組むことに成功したのです。

しかし、そんなオーストリアの動きに気づいたフリードリヒ2世は、1756年イギリスとウェストミンスター条約を結び、同盟関係を結びました。そのことを脅威に感じつつも、オーストリアもまたフランスとの同盟関係を築くためにヴェルサイユ条約を結びます。それにより、生後間もない末娘のマリア・アントニア(仏名マリー・アントワネット)をフランスの王太子のもとへ嫁がせることが決まったのです。

1756年8月末、プロイセンのフリードリヒ2世はついにオーストリアの同盟国であるザクセン選帝侯領へと攻撃を仕掛けました。これによって七年戦争が勃発したのです。

この戦いは、シュレージェンを巡るオーストリアとプロイセンとの戦い、ヨーロッパの権力を巡るプロイセン、オーストリア、フランス、ロシアの戦いということだけではなく、北米とインドの支配権を巡るフランスとイギリスの戦いでもありました。

両者ともにヨーロッパ内で決定的な勝利を収めることがなく長期化し、1763年フーベルトゥスブルクの和約で終結しました。

結局シュレージェンの地は、再びプロイセンの手に渡ったのです。

では次に、マリア・テレジアが恋愛結婚を果たした夫フランツ1世のお話をたどりながら、マリア・テレジアの晩年まで見てみましょう。

2 マリア・テレジア最愛の夫 フランツ1世(1708−1765年)

マリア・テレジアの結婚相手には、ポルトガルの王子やバイエルン家の名前が上がり、さらには、先に紹介した2つの戦争で宿敵となったプロイセンのフリードリヒも候補になっていました。しかし、マリア・テレジアの気持ちはすでにロレーヌ(ロートリンゲン)公レオポルト・ヨーゼフの息子フランツ・シュテファンにありました。

1)ロレーヌ(ロートリンゲン)大公からトスカーナ大公へ

ロレーヌ公爵家の領土は、ハプスブルク家が統治する神聖ローマ帝国の領土の一部でしたが、ライン川の西岸に位置するこの領土は、常にフランスからの脅威も感じていました。

ロレーヌという名前の方がよく使われていますが、ドイツ語名はロートリンゲンと言います。

1724年15歳のフランツ・シュテファンは、教育と社交を学ぶためにウィーンの宮廷に送られました。皇帝カール6世は、美しく陽気な青年を快く受け入れ、狩にも一緒に行くようになり、祝賀会や舞踏会などにも参加しました。そんなフランツ・シュテファンとマリア・テレジアは恋に落ちたのです。

しかし、フランツの父と兄が亡くなると、フランツは1729年にロレーヌ領を引き継ぐために帰国し、ロートリンゲン公フランツ3世となりました。

その後1733年に、ザクセン選帝侯およびポーランドの国王であった強王と呼ばれたアウグストが亡くなると、後継をめぐりフランスとハプスブルク家を中心とした権力闘争、ポーランド継承戦争がおきました。

結果的に、1735年和平が結ばれ、フランスはルイ15世が後継を主張していた義父スタニスワフ・レシチニスキのポーランドの王位放棄を認めました。そして、代償として神聖ローマ帝国領であったロレーヌ公国とバール公国がレシチニスキに与えられることになったのです。実際、レシチニスキ亡き後は、ロレーヌはフランスに併合されてしまいます。

これにより、フランツ・シュテファンは祖先の地であるロレーヌ公国を手放さなければいけなくなりました。そして、代わりにメディチ家の断絶が予見できていたトスカーナ公国が与えられ、フランツは1737年トスカーナ大公に即位しました。このことはフランツにとって大いなる屈辱でした。しかし、この背景にはもう一つのストーリーがありました。

フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの婚姻により、ハプスブルク家の領土が拡大されることを阻止したいというフランスの思惑もあったのです。フランツにとって、マリア・テレジアと結婚するために、ロレーヌとトスカーナを交換するより他に選択肢がなかったのです。

こうして、1736年2月12日、ウィーンのアウグスティーナ教会で2人は結婚式をあげました。

2)自然科学と財政への貢献

オーストリア継承戦争の最中、1742年バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトがカール7世として神聖ローマ皇帝に即位していました。その後アーヘンの和約でフランツの皇帝位が認められ、1745年カール7世が亡くなると、フランツ・シュテファンはフランツ1世として神聖ローマ皇帝となりました。

しかしこの頃には、ヨーロッパのドイツ語圏で第2の大国としてプロイセン王国が勢力を拡大しており、ハプスブルク家はオーストリア国家の統治をするに過ぎない状態でした。神聖ローマ皇帝の威厳は、ほとんど実体のないものとなっていたのです。

オーストリアの政治はマリア・テレジアが実権を握っていた一方で、フランツは自身の科学への興味に邁進する時間を十分に取ることができました。研究やコレクションを自由に行える自室を持っており、それはのちにウィーンの自然史博物館の収集物の基礎となりました。

1752年にはヨーロッパに現存する最古の動物園をシェーンブルン宮殿の中に設立し、翌年には植物園も作りました。

シェーンブルン宮殿は、1743年から1749年にかけてマリア・テレジアが再建を手がけ、夏の間家族と過ごす場所となっていました。宮殿の庭園にあるグロリエッテは、1757年七年戦争の際、フリードリヒ2世のプロイセン軍を破ったコーリンの戦いを記念して建てられました。

シェーンブルン宮殿
シェーンブルン宮殿庭園とグロリエッテ

フランツ・シュテファンはまた経済的才能にも恵まれていました。収益性の高い織物工場や陶器工場も設立し、国庫に財産を残したのです。

3)フランツとマリア・テレジアの晩年

フランツ・シュテファンは、1765年インスブルックで行われた息子レオポルトの結婚式の後、脳卒中で突然息を引き取りました。56歳でした。

マリア・テレジアは大変大きな衝撃を受け、以後生涯黒い衣装のみを身につけて過ごしました。

インスブルックには、このレオポルトとスペイン王女マリア・ルトヴィカの結婚を祝して凱旋門が建てられましたが、南側には2人の結婚式に関連したモチーフが、そして北側にはフランツ皇帝の死を悼むモチーフが描かれているのです。

インスブルックの凱旋門
W PによるPixabayからの画像

フランツ1世のあとは、長男のヨーゼフ2世が継ぎました。そしてマリア・テレジアは摂政として共同統治をすることになりましたが、その後2人は意見が対立していきます。

マリア・テレジアは1780年肺炎にかかり、63歳で子供達に見守られながら崩御しました。

3 マリア・テレジアと娘たちの関係

マリア・テレジアとフランツ・シュテファンは、16人の子供に恵まれました。そのうち6人は母親の存命中に亡くなっています。

国家統治者として見事な腕をふるったマリア・テレジアですが、娘たちとの関係には偏愛問題もあったようです。

1)二女マリア・アンナ

マリア・アンナが生まれた時、マリア・テレジアはまだ家督を継ぐことは決定していませんでした。マリア・テレジアに男児が生まれることを誰もが望んでいたのです。しかし、生まれてきた2番目の子が女児だったことで、周囲をがっかりさせたと言われています。

長女マリア・エリザベートは幼くしてこの世を去っています。

生まれながら病弱であったマリア・アンナは、19歳の時に重い肺炎にかかり、それ以後脊髄が癒着して猫背になってしまいました。そして、マリア・テレジアは彼女の結婚相手を見つけることができなかったため、彼女にプラハの修道院の経営を任せ、後にマリア・アンナはオーストリアのクラーゲンフルトの修道院へ移住しで生涯過ごすことになりました。

兄弟姉妹に疎まれていたと言われており、マリア・テレジアからも冷遇されていたという説と、マリア・テレジアが一番目にかけていた娘だという説もあります。自然科学の分野に長けており、父親のシュテファンとは気が合い可愛がられ、父親のコインコレクションも完成させています。

2)四女マリア・クリスティーネと五女マリア・エリザベート

四女のクリスティーネは、マリア・テレジアと同じ誕生日5月13日に生まれ、マリア・テレジアに寵愛されていたと言われています。

子供達の結婚政策を思案する中、クリスティーネだけには、ザクセン選帝侯アルバート王子との恋愛結婚を許可しました。父シュテファンはこの財力もない小国の王子との結婚には反対していましたが、その頃シュテファンは急逝してしまったのです。

そして愛娘が最愛の人と幸せな結婚をする姿を見て、マリア・テレジアは慰められたと言います。

五女のマリア・エリザベートも、はじめは大変可愛がっており、ルイ15世の再婚相手にも名前が上がっていた矢先、彼女は天然痘にかかり顔に湿疹が残ることとなってしまったのです。そのために結婚話もなくなり、母テレジアの愛情も薄れたと言われています。彼女は二女のアンナと同様生涯独身で過ごしました。

3)六女マリア・アマーリアと末娘マリー・アントワネット

六女のマリア・アマーリアには、四女のクリスティーネのように恋愛をして結婚を望む男性がいました。しかし、マリア・テレジアは彼女の恋愛結婚を認めることをせず、5歳年下のルイ15世の孫であるパルマ公フェルディナンドと結婚をさせられました。

パルマ公との結婚生活は幸せなものではなく、アマーリアは生涯マリア・テレジアを恨んで過ごすことになりました。

その後も娘たちを次々と政略結婚させていったマリア・テレジアは、末娘のマリア・アントニア(マリー・アントワネット)を七年戦争でフランスと同盟を築くことに乗じて後のルイ16世の元へ嫁がせました。そして、彼女にもその後最大の悲劇が訪れることとなったのです。

マリア・テレジアとシュテファンの間には4人の王子たちがいました。

長男ヨーゼフは皇帝位を、次男レオポルトはトスカーナ大公国を継ぐことになっていました。そして、三男フェルディナントは北イタリア地方で総督となり、四男マクシミリアンは聖職者となりました。

ヨーゼフとレオポルトのお話は、また次回詳しく見ていきましょう。

ハプスブルク家シリーズ

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もわりー
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