旅がもっと面白くなる!オーストリア編ー1 モーツァルトゆかりの地を訪ねよう
『アイネ・クライネ・ナハトミュジーク』『トルコ行進曲』というタイトルを聞いてもピンとこない方も多いかもしれません。でも、実際に曲が流れてくると、きっと誰もが「あ、知ってる!」と思われるでしょう。では、そんな誰もが耳にしたことのある曲を作った人物は誰でしょうか? 答えはそう、誰もが名前を耳にしたことがある偉人、モーツァルトです。
モーツァルトが誕生した国オーストリアでは、モーツァルトゆかりの地を訪れることができます。モーツァルトのことを知って、オーストリアのモーツァルトにゆかりのある場所をちょっとのぞいてみませんか? モーツァルトの音楽がもっと身近に感じられるかもしれません。
よろしかったら、モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトミュジーク』を聞きながら、一緒にモーツァルトの世界を旅してみましょう!
1 35年という短い人生のモーツァルト
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日オーストリアのザルツブルグで誕生しました。当時のザルツブルグは、ハプスブルク家の宮廷文化で栄えたウィーンとは違い、教会が大きな力を握っている町でした。
父親のレオポルトは大司教の宮廷音楽家であり、バイオリニストでもありました。幼い頃から父親に音楽を教わったモーツァルトは、またたく間にピアノを習得していきました。
モーツアルトには5歳年上のお姉さん、ナンネルがいました。彼女も幼少期から音楽を勉強しており、一家で音楽を楽しんでいたのです。
息子の並外れた才能を発見した父親のレオポルトは、6歳の頃から一緒にウィーン、ロンドン、パリ、ローマなどヨーロッパ各地へ演奏旅行に出かけました。ウィーンのマリアテレジア女帝の前で御前演奏をした6歳のモーツアルトは、招かれたシェーンブルン宮殿の床で転倒した際、マリアテレジアの末娘である7歳のマリーアントワネットに助けられました。その時「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と天真爛漫に言ったという有名な逸話があります。
「神童」と言われたモーツアルトは、幼い頃から作曲も手がけ、8歳の時にすでに交響曲を作曲していたといいます。
モーツァルトも父親と同じく大司教に仕え、宮廷音楽家として活躍しました。しかし、大司教と度重なる論争を起こし、25歳の時に一人でウィーンに移り住むことになりました。
ウィーンで一人暮らしを始めたモーツァルトは、作曲家としてまた貴族相手の楽器の先生として、生計を立てていきました。そして、コンスタンツェという女性と知り合い、結婚をします。この結婚には残念ながら父親からは反対されていました。
絶頂期にあったモーツァルトでしたが、やがて仕事も減り、浪費癖が原因となり貧困の生活を強いられるようになります。さらに、病弱の妻コンスタンツェが温泉地バーデンで湯治療養するための出費も重なりました。お金を工面するためにも作曲の仕事をいくつも請け負っていましたが、やがてモーツァルト自身体調を崩し、病におかされていきました。最後には『レクイエム』の作曲が未完となりこの世を去ります。まだ35歳という若さだったのです。
モーツァルト死後、コンスタンツェは借金を返すために演奏会を開き、後にデンマークの外交官であったニッセンと再婚をします。そして、ニッセンはモーツアルトの伝記を残し、コンスタンツェとニッセンは一緒にモーツァルト作品の版権を明確にし、財産を築きました。
モーツアルトによる楽曲は、交響曲、室内楽曲、協奏曲、オペラなど多岐に渡り、じつに620以上もの曲を作曲したといわれています。
では、モーツァルトが活躍したオーストリアの町を一緒に巡ってみましょう。
2 モーツァルト in ザルツブルグ
まずはモーツァルト誕生の地であるザルツブルグ。ここには、モーツァルトの記念館が2つ残されています。
モーツァルトの生家
モーツアルトが誕生した家は、今も記念館として残されています。このモーツァルトの生家がある「ゲトライデ通りGetreidegasse」は、立ち並ぶお店が掲げるかわいい看板がみられることで有名です。つねに観光客で賑わう通りで、旧市街の中心地となっています。
そんなザルツブルグ一の繁華街にある、黄色い外壁の家がモーツァルトの生家です。
モーツァルトの両親は1747年からこのフラットの4階に住み始め、7人の子供を授かりました。しかし、存命したのはマリーア・アンナ(通称ナンネル)とヴォルフガング・モーツァルトだけだったのです。
1880年からミュージアムとして公開されるようになり、彼が幼少期に使っていたバイオリンなどの楽器、肖像画、作曲した楽譜などが展示されています。
モーツァルト一家はこの家に1773年まで住み、その後マカルト広場の家にうつりました。
モーツァルトの住居
モーツァルト一家が引っ越した先の家は、モーツァルトの住居という名の記念館として公開されています。
旧市街からザルツァッハ川に架けられたマカルト橋をわたると、ザルツブルグの新市街に出ます。ホテルブリストルが建つその辺りはマカルト広場と呼ばれており、モーツアルトの住居はブリストルの向かいにあります。ゲトライデ通りの家が手狭になったために引っ越しをしたのです。モーツァルトは1781年25歳でウィーンに移住するまでそこで暮らしました。
このモーツアルトの住居は、1996年1月26日にリニューアルオープンしました。モーツァルトのピアノ、肖像画の展示のほか、モーツァルト一家の生活についてのマルチメディアを駆使した展示を見ることができます。
また新たな見どころとして2022年秋、モーツァルトの住居の中庭に、モーツァルトが『魔笛』を作曲したことで知られている小屋が展示されました。
この小屋は1791年9月にオペラ『魔笛』が初演されたウィーンのフライハウス劇場 (アンデアウィーン劇場)の裏庭にありました。それから、1873年、モーツァルテウム財団の主導で、この小さな家がザルツブルグに移されました。そしてようやくその改修工事が行われ、モーツァルトの時代と同じ緑色に塗り直され、モーツァルトの住居の中庭に移されたのです。
モーツァルトが『魔笛』を作曲していたというその山小屋のような小さな家が実際に見られるようになったことは、モーツァルトファンにとっては大変嬉しいことですね。
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これら2つの記念館の他、旧市街のモーツァルト広場にあるモーツァルト像や、モーツァルトが洗礼を受け、後にオルガン奏者を務めた大聖堂、モーツァルトのお姉さんナンネルのお墓があるザンクト・ペーター墓地なども是非一緒にまわってみましょう。
3 モーツァルト in ウィーン
25歳でウィーンに移住したモーツァルトは、それまで大司教の音楽家として務めていた立場から独立し、自ら作曲・演奏会・音楽レッスンなどでお金を稼ぐこととなりました。
ウィーンへ移住した翌年にはコンスタンツェと結婚し、作曲家としても活躍し絶頂期を迎えます。そして、1784年に移り住んだ家が今でも”モーツァルトハウス”というミュージアムとして残されています。
モーツァルトハウス
このミュージアムは、2004年まではモーツァルトが住んだ住居部分が”フィガロハウス”として公開されていました。この家で、モーツァルトが手がけた有名なオペラ『フィガロの結婚』が作曲されたことから、そのように呼ばれていました。2005年に改修工事が行われ、2006年モーツァルト生誕250周年を祝うモーツァルトイヤー、それもモーツァルトの誕生日である1月27日に”モーツァルトハウス”としてリニューアルオープンをはたしたのです
4つの大きな部屋と2つの小部屋、キッチンからなる大きな家で暮らしていたことがわかります。モーツァルトが生涯過ごした中でも一番大きな住居であったそうです。モーツァルトが生きた時代の家具の展示を見ながら、彼が家族と幸せなひとときを過ごしたことを想像してみましょう。
そのほか、上階ではモーツァルトが活躍した時代背景や音楽の世界などの展示がなされており、モーツァルトが短い人生を過ごした当時のウィーンの様子を知ることができます。
このモーツァルトハウスは、ウィーンで最も有名な観光名所の近くにあります。それはウィーンのシンボルとも言われている”シュテファン寺院”です。
そして、この寺院もまたモーツァルトと深くゆかりのある場所なのです。
シュテファン寺院
モーツァルトがウィーンに移住してから、シュテファン寺院は彼の人生の節目に大きく関わってきました。まず、モーツァルトがコンスタンツェと結婚式をあげたところがこのシュテファン寺院であったのです。
そしてモーツァルトの子供たちの2人は、このシュテファン寺院で洗礼を受けました。
晩年には、モーツァルトはシュテファン寺院で聖歌隊などの指導者に当たるカペルマイスターの補佐役に就任しました。そして、死者に捧げるミサ曲『レクイエム』の作曲に取り掛かることとなったのです。
しかし、『レクイエム』の作曲中にモーツァルトの病状は悪化し、1791年未完のままにモーツァルトは35歳でこの世を去りました。
モーツァルトの葬儀が行われた場所も、このシュテファン寺院であったのです
モーツァルトの命日である12月5日には、例年シュテファン寺院で『レクイエム』の演奏会が行われています。
ここでちょっと余談です。
ポーランドの作曲家ショパンは、自身の埋葬の際にモーツァルトの『レクイエム』が演奏されることを希望しており、実際ショパンの葬儀の際に演奏されました。今でもショパンの命日10月17日にはショパンの追悼コンサートでモーツァルトの『レクイエム』が演奏されています。
ザンクト・マルクス墓地 / 中央墓地
モーツァルトの遺体はザンクト・マルクト墓地に埋葬されました。しかし、誰も墓地まで付き添った者がおらず、正式にどこに埋められたのかはわかっていないそうです。これはモーツァルトの人気が落ちていたからということではなく、当時は葬式の後、遺体の埋葬まで参列するという習慣がなかったからだといわれています。
その後、妻のコンスタンツェの働きかけによりモーツァルトの偉大な功績が讃えられるようになると、モーツァルトが埋葬された場所を探し出す作業が行われました。そして、ついにザンクト・マルクス墓地のこの辺りに埋葬されたであろうところに記念碑が立てられました。
しかし、現在ザンクト・マルクス墓地にはその記念碑は存在しません。なぜならその後、モーツァルト没後100年にあたる1891年に、その記念碑は中央墓地へ移されたからです。
中央墓地には、ウィーンで活躍した偉大な音楽家、ベートーベン、シューベルトなどの墓地が集中しているところがあります。モーツァルトの記念碑もそこに一緒に置かれることになったのです。実際はそこに埋葬されているわけではなく、記念碑があるだけなのですが。
そして、ザンクト・マルクト墓地でモーツァルトが埋葬されたであろうとされた場所には、現在天使の像がよりそう形で、円柱形の記念碑が立てられています。
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そのほか、国立オペラ座近くにあるブルク公園にあるモーツァルト像や、オペラ『魔笛』が初演されたアンデアウィーン劇場などモーツァルトの見どころを一緒に訪れてみましょう。
海外でもスマホが使えると、場所探しにも便利ですね。