旅がもっと面白くなる! ワルツ王 ヨハン・シュトラウス2世を知って、ウィーンをもっと楽しもう! ー 2025年 生誕200周年
ウィーンと言えば、音楽の都です。
ウィーンでのモーツァルトやベートーベンゆかりの場所を、これまでこの”ステキをつくる旅”でも紹介してきました。
そしてウィーンの人にとってもっとも身近な音楽で、生活と密着している音楽家と言えば、ヨハン・シュトラウスなのではないでしょうか。
オーストリア航空でウィーン空港に到着すると、フライトの疲れを癒してくれるかのように機内にヨハン・シュトラウスのワルツが流れます。
ウィーンに住んでいた頃は、着陸後にこの音楽を聞くと、ウィーンに帰ってきた! と安堵する気持ちになったものです。
また新年の始まりは、世界中の大都市で壮大で華やかな花火の演出が行われていますが、ウィーンではカウントダウンが終わり花火が上がると、同時にヨハン・シュトラウスのワルツが流れ、誰もが手を取り合ってワルツを踊るのです。
今年2025年は、ヨハン・シュトラウス生誕200年をお祝いするシュトラウスイヤーです。
今回は、ウィーンと特に縁が深い音楽家、ヨハン・シュトラウス2世についてみていきましょう。
1 ヨハン・シュトラウス2世 (1825-1899年)
まず、ヨハン・シュトラウスという名前の音楽家は2人いるということはご存知でしょうか? そう、ヨハン・シュトラウス2世のお父さんもまた音楽家で、ヨハン・シュトラウス1世という名前なのです。
今回ご紹介するヨハン・シュトラウス2世のお話に入る前に、まずは父親のストーリーから見てみましょう。
1) 父親 ヨハン・シュトラウス1世 (1804-1849年)
ウィーンで居酒屋の息子として誕生したヨハン・シュトラウス1世は、子供の頃から店で楽士がバイオリンなどで奏でる音楽に親しんでいました。
しかし、ヨハンが7歳の頃に母親が亡くなり、父親もその後ドナウ川に身を投げたと言われています。ヨハンは親戚に引き取られ、製本屋の見習いとして働くことになりました。
製本の仕事を覚える傍ら、ヨハンはバイオリンを習いながら音楽も勉強し、やがて地元の楽団に入団します。そこでヨーゼフ・ランナーと出会いました。
その後ランナーは、ヨハンを誘って独立し、2人は新たな楽団を作ってウィーンでワルツ旋風を巻き起こします。
ウィーンの市庁舎広場に、ヨハン・シュトラウス1世とヨーゼフ・ランナーの記念碑があります。
しかし、ヨーゼフ・ランナーとヨハン・シュトラウス1世との間はそれからうまくいかなくなり、ヨハンはランナーの楽団から独立することになりました。
その頃、ヨハンは居酒屋の娘であったアンナと知り合い、結婚しました。そして、長男ヨハン・シュトラウス2世が誕生します。
2人の間には、ほかに次男ヨーゼフ、四男エドゥアルド(三男は早くに亡くなっています)と2人の娘がいます。
独立した後もヨハン・シュトラウス1世の楽団はウィーンで人気を博し、ヨーゼフ・ランナーの楽団と競い、ウィーンではワルツやダンス音楽が発展していきました。
当時メッテルニヒによるウィーン体制が敷かれていたウィーンでは、オーストリア帝国側からワルツを推進する動きもあり、ワルツが流行していたのです。ワルツはそれから、西ヨーロッパにも広がっていきます。海外遠征にも出かけるようになったヨハンは、家を留守にすることが多くなり、夫婦仲は次第に冷めていったのです。
1843年ランナーが亡くなると、ヨハンがワルツ王として独占状態になりました。
そんな中、息子のヨハンもまた幼い頃から音楽に親しんでいました。しかし、ヨハン・シュトラウス1世は息子たちに不安定な音楽への道を歩むことを禁止し、銀行の仕事につくことを望んでいたのです。
それでもこっそりバイオリンを練習していたヨハン・シュトラウス2世ですが、ある時父親に見つかってしまいます。父親ヨハンは大変憤り、息子のバイオリンを壊してしまいます。
しかしその後、父親のヨハンが愛人の元で暮らし始めると、愛人を作った夫への反発もあり、母親のアンナは息子ヨハンが音楽の道を進むことに協力をしました。そして、ヨハン・シュトラウス2世は音楽家としてデビューを果たし、父親とワルツ合戦を繰り広げることになるのです。
1846年ヨハン・シュトラウス1世は、フェルディナンド1世皇帝により宮廷舞踏音楽監督の地位を授けられました。しかし、そのわずか2年後の1848年ウィーンでは3月革命が起きます。
メッテルニヒの抑圧された政治体制へ不満を抱えた革命軍が蜂起したのです。ヨハン・シュトラウス1世は当初革命軍へ同調していましたが、君主制の崩壊を望んでいたわけではありませんでした。そして、オーストリア帝国の軍人ヨーゼフ・ラデツキーを讃える『ラデツキー行進曲』を作曲し、帝国軍の巻き返しに大いに貢献することとなったのです。この『ラデツキー行進曲』は、今でもよく耳にする曲なので皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。
ヨハン・シュトラウス1世はその後ロンドンへ演奏旅行へいきます。そして、戻ってきた時には体調を崩し、愛人エミーリアの子供の感染病がうつり、1849年45歳の若さで亡くなってしまうのです。
では、話を今回の主役ヨハン・シュトラウス2世に戻しましょう。
2) ワルツ王としての躍進・演奏旅行
少し重複しますが、ヨハン・シュトラウス2世のデビューの頃からお話しします。
父親が家を出て、母親のサポートを受けて音楽を勉強した息子ヨハンは、いよいよ1844年19歳の誕生日を目前とした10月に、カフェ ドムマイヤーで演奏会を開きます。
ドムマイヤーでのコンサートは大成功を収め、ウィーンのマスコミも大々的に報道し、下記のように書かれたのです。
“Gute Nacht Lanner, Guten Abend Strauss Vater, Guten Morgen Strauss Sohn !”
「おやすみなさい ランナー、 こんばんは シュトラウス父、 おはよう シュトラウス息子!」
19世紀当時、ドムマイヤーカフェはウィーン市民が集まる音楽カフェの一つとして、シェーンブルン宮殿の近くにありました。現在はオーストリアの有名な洋菓子店オーバーラーが経営していますが、当時の趣を残した大理石のテーブルやシャンデリアに囲まれ、常に賑わっています。ヨハン・シュトラウス2世のこのデビューを果たした時のコンサートのポスターも飾られているとか?
Standort Dommayer
音楽家としてデビューを果たした息子ヨハンは、それから父親ヨハンとワルツ合戦を繰り広げていき、さまざまなワルツを生み出しました。
1849年に父親ヨハン・シュトラウス1世が亡くなると、息子ヨハンは父親ヨハンのオーケストラを引き継ぎ、自分の楽団と合併して活動していきます。
1856年からは、ロシアの鉄道会社の招待を受け、ハバロフスクへの長期演奏旅行へも出かけ、ヨーロッパ各地や北米にも遠征しています。
息子ヨハンはしかし長旅を非常に嫌っていたそうで、日本も再三招待をしたようですが、ヨハン・シュトラウスが日本へ赴くことはなかったそうです。
多忙を極め、体調を崩したヨハンを助ける形で、弟のヨーゼフとエドゥアルドもヨハンの音楽活動に参加するようになりました。2人は作曲活動も行い、2人の楽曲も今日たくさん残されています。
ヨハン・シュトラウス2世は3回結婚をしていますが、1862年に「イエッティー」という芸名を使って活躍していたオペラ歌手、ヘンリエッテと1度目の結婚をします。
ヨハン36歳、ヘンリエッテ47歳でした。
ヘンリエッテの財力と社交界での知名度は、息子ヨハンが音楽家として活躍する道を切り開いてくれました。
ヨハンはフランツ・ヨーゼフ1世が皇帝に就任する時やエリザベートとの婚礼の際にも曲を献呈してハプスブルク家との繋がりを築いていき、1863年ついに宮廷舞踏音楽監督に就任します。
フランツ・ヨーゼフとエリザベートの話は、こちらからお読みいただけます。
知ると面白いハプスブルク家 13) フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリザベート(シシィ)
そして、1867年にはヨハン・シュトラウス2世の代表作『美しく青きドナウ』を作曲し、「ワルツ王」として名を確実なものとしていきました。
他にも、『ウィーンの森の物語』『皇帝円舞曲』などがヨハン・シュトラウス2世の代表的なワルツとして知られています。
3)オペレッタの作曲
1870年 ヨハンの音楽活動を支えてくれた母親のアンナが亡くなります。また、弟のヨーゼフもワルシャワで指揮をしている最中に倒れ、その後帰らぬ人となりました。
意気消沈していたヨハンは、妻ヘンリエッテのすすめもあり、オペレッタの作曲を手がけるようになりました。
オペレッタとは、オペラよりもセリフで進める劇の部分が多く、喜劇の内容になっているものです。
当時フランスでオッフェンバック作のオペレッタが広まり、ウィーンでもオペレッタが上演されるようになっていたのです。
ヨハンは宮廷舞踏会音楽監督を弟のエデュアルドに譲り、オペレッタの作曲に専念するようになりました。
当初オッフェンバックはヨハンへオペレッタの作曲を促し、オペレッタ界の代表として君臨していましたが、ヨハンがオペレッタの作曲を始めると、オッフェンバックをしのぐ人気作品が次々と誕生したのです。
ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタの代表作は、『こうもり』『ジプシー男爵』『ウィーン気質』などがあります。
1878年妻のヘンリエッテが亡くなると、半年後には27歳年下のアンゲリカと結婚します。しかし、アンゲリカとの結婚生活は長く続かずに破綻します。その後アンゲリカよりさらに若く、幼い頃から知っていたアデーレと再会し、1887年 ヨハンは62歳で3度目の結婚をします。
3度の結婚で子供を授かることができなかったヨハンですが、アデーレの娘アリーチェと共に最後は幸福な時間を過ごしました。
1899年 ヨハン・シュトラウス2世は肺炎にかかり、アデーレに看取られ75歳で亡くなりました。
ヨハン・シュトラウス2世の葬式には多くの市民が参列し、中央墓地に埋葬されました。
ヨハン・シュトラウス2世が残した偉大な楽曲の数々は、今でもウィーンの人々やウィーンを訪れる観光客を魅了しています。
では次に、ヨハン・シュトラウス2世の音楽に焦点を当てて見てみましょう。
2 ヨハン・シュトラウス2世の音楽
1)1月1日 ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート
毎年1月1日には、ウィーンの楽友協会の黄金の間で、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートが開かれます。このコンサートは世界中にテレビで生配信されています。
この世界で最も有名なコンサートでは、ヨハン・シュトラウス2世の曲を中心に、シュトラウスファミリーや同年代のワルツを作曲家の曲が演奏されるのです。
そして、第1幕と第2幕の間の30分の休憩時間に、テレビでは毎年趣向を凝らした映像が流され、それもこのコンサートの楽しみの一つとなっています。
ー 2025年 ウィーン ニューイヤーコンサート
2025年はリッカルド・ムーティが指揮をしました。ムーティがニューイヤーコンサートの指揮をしたのは7回目、前回は2021年で、コロナのパンデミックにより無観客での演奏会となったのです。
今年2025年は、ヨハン・シュトラウス2世の生誕200年を祝うシュトラウスイヤーなので、幕間の30分にどのような演出がされるか楽しみにしていましたが、皆さんはご覧になりましたか?
テーマはもちろん、ヨハン・シュトラウス2世でした。
バーバラ・ヴァイセンベックの演出による、ヨハン・シュトラウス2世の子孫が宇宙船に乗って時空を超えて旅をするというストーリーが放映されました。
現代のウィーンを流れるドナウ川の上で小楽団が演奏する『美しく青きドナウ』のほか、ウィーン各地で演奏されるシュトラウスのワルツなどに合わせて、ヨハン・シュトラウス2世が活躍する19世紀の様子を描いた映像も流れました。
当時のウィーン各地のコンサートホールやサロンで行われるワルツコンサート、鉄道に乗って旅に出かけ、アメリカボストンでの演奏をするヨハン・シュトラウスの様子などが映し出され、ヨハン・シュトラウス2世の軌跡を辿る旅が楽しめましたね。
ファゴットだけの編成で演奏した『こうもり 序曲』や、『美しく青きドナウ』をバイオリンを中心にジャズ風にアレンジした『It might be Donau』の演奏は特に印象的でした。
2025年のニューイヤーコンサートでは、初めて女性の作曲家コンスタンツェ・ガイガーのワルツが演奏されたことも話題となりました。
年々変化を遂げていくニューイヤーコンサートですが、変わらずに続いていることもあります。それは最後の演目です。
アンコールの2曲目は『美しく青きドナウ』、そして最後の曲は『ラデツキー行進曲』です。
テレビの前で、ウィーンの客席の人たちと一緒に手拍子を楽しみながら最後の行進曲を聞く、それがもう長い間も私の新年の習慣になっています。
2)12月31日と1月1日 オペレッタ『こうもり』の公演
年末と言えばベートーベンの第九の演奏が有名ですが、12月31日ウィーンの国立オペラ座やフォルクスオーパーで定番になっている演目があります。それは、ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ『こうもり』です。
『こうもり』は、男女間の浮気心が描かれた喜劇ですが、その設定が12月31日なのです。
劇中で流れる舞踏会の様子もとても華やかで、華麗な音楽が舞台を引き立てます。
浮気をする話は悲劇にもなりかねませんが、そこを楽しい喜劇に仕立て上げるところがヨハン・シュトラウスのオペレッタの魅力のひとつなのです。
『こうもり』の公演は、ウィーンのフォルクスオーパーで年末年始に限らず上演されることがあるので、是非ご覧になってみてください。話が複雑な上にドイツ語での上映になるため、あらかじめあらすじを読んで行かれることをお勧めします。
3)気軽に楽しめる シュトラウス&モーツァルトコンサート
上記以外にも、ウィーンではもっと気軽にヨハン・シュトラウスの音楽が楽しめるコンサートがほぼ毎日行われており、たくさんの観光客を魅了しています。
国立オペラ座の前の広場で、チケット売りの人から声をかけられるかもしれませんが、彼らは怪しい人たちではありませんので、興味があればどうぞお買い求めください。
ヨハン・シュトラウスやモーツァルトの聞き慣れた曲目を、バレエダンサーやオペラ歌手などを交えて楽しく演奏します。クラッシックにはあまり興味はないけれど、ウィーンを訪れた思い出にちょっとコンサートを見てみたいという方は、こちらに行かれてはいかがでしょうか。
サウンドオブヴィエナ・シュトラウス&モーツァルトコンサート
会場:市立公園のクアサロンやコンツエルトハウスなど
https://www.soundofvienna.at/
シェーンブルン宮殿コンサート
会場:シェーンブルン宮殿のオランジェリーホールなど
https://www.palaceconcertsvienna.com/en/
ホーフブルクオーケストラ
会場:王宮のセレモニーホール、祝祭の間など
https://www.hofburgorchester.at/en/
レジデンツオーケストラ
会場:旧証券取引所ベルゼやアウワースベルク宮殿など
https://www.wro.at/en/
どのコンサートがお勧めなのかと聞かれますと、内容はどちらもほぼ同じです。
会場の雰囲気やお泊りのホテルからアクセスしやすい場所などから選んでもよいですね。
3 ヨハン・シュトラウス2世 ウィーンでの見どころ
では最後に、ウィーンでヨハン・シュトラウス2世を楽しめる場所をご紹介します。
2025年シュトラウスイヤーに合わせて、新しいミュージアムも誕生しています。
1)ヨハン・シュトラウス2世 記念碑
まずは是非、ウィーンに佇む華麗なヨハン・シュトラウス2世に会いに行ってください!
ウィーンリンク通りに面した市立公園の中にいます(像があります)。
地下鉄U4号線 Stadtpark(シュタットパーク)下車後、公園に入ってすぐです。リンク通りを走るトラムでもアクセスできます。
金色に輝くヨハン・シュトラウス2世の像は、ウィーンに来た!という気持ちにさせてくれれますよ。
2)ヨハン・シュトラウス ミュージアム
2024年11月7日にオープンした新しいミュージアムです。
マルチメディアを使った最新の体感型ミュージアムになっています。
ヨハン・シュトラウス2世の誕生から、ワルツ王として活躍する様子、海外遠征に出かける様子など順を追って展示が楽しめます。
国立オペラ座最寄りのウィーンの中心駅 地下鉄U2とU4号線が走るKarlsplatz(カールスプラッツ)下車後、野外マーケットナッシュマルクト方面に歩いて徒歩8分ほどのところにあります。
Home – English
3) ハウス オブ シュトラウス (House of Strauss)
2023年10月25日 ヨハン・シュトラウスの198回目の誕生日にオープンしました。
かつてヨハン・シュトラウスが活躍していた演奏会のサロンがあった場所が、ヨハン・シュトラウスのミュージアムとコンサート会場として生まれ変わったのです。
ヨハン・シュトラウスに関する展示やマルチメディアの演奏が楽しめるほか、夜はライブ演奏も行っています。
また、レストラン&カフェも併設しているのでウィーン料理やケーキと共に楽しむのもまた良いですね。
ここは中心地から少し離れたところにあります。
地下鉄U4 とU6号線が通る駅Spittelau (シュピッテラウ)から歩くと10分ほど、国立オペラ座前から市電Dに乗って20分ほどのRampengasse下車後、徒歩約3分です。
Home
4)ヨハン・シュトラウス アパートメント
1863年から1870年までヨハン・シュトラウスがヘンリエッテと一緒に住んだ家です。
バイオリンやピアノのほか、デスマスクも展示されており、古くからヨハン・シュトラウスのミュージアムとして親しまれています。
観覧車で有名なプラターの近くです。
地下鉄U1号線 Nestroyplatz(ネストロイプラッツ)から徒歩5分ほどです。
https://www.wienmuseum.at/johann_strauss_wohnung_en
***
2025年は、ヨハン・シュトラウス2世生誕200年をお祝いするさまざまなイベントが開かれます。
野外コンサートや舞踏会など種々のプログラムがありますので、ウィーンを訪れる方は下記をご参照ください。
https://www.johannstrauss2025.at/en/
1844年10月15日、ヨハン・シュトラウス2世が音楽家としてデビューを果たしたコンサートがカフェ ドムマイヤーで行われました。そして今年2025年同じ10月15日、ドムマイヤー近くのホテル、パークホテルシェーンブルンのホールでコンサートが開催されるようです。
こちらもまた興味深いですね。