12) マウントバッテン卿 ー 英国王室ドラマ『ザ・クラウン』から学ぶ Season 4 & 2 / 3
Netflixで製作された英国王室ドラマ『ザ・クラウン』に登場する気になる人物、今回はマウントバッテン卿についてです。
シーズン4の第1話では、衝撃的な事件が描かれます。
冒頭から不穏なアイルランドの映像が流れますが、これが伏線になっていたのです。
この話を見て、これまでのシーズンにもたびたび登場していたマウントバッテン卿について、調べずにはいられなくなりました。
ではさっそく、『ザ・クラウン』に登場するマウントバッテン卿を追いながら見ていきましょう。
1 アイルランドで命を落としたマウントバッテン卿
1979年、夏をスコットランドのバルモラル城で過ごすことが恒例のロイヤルファミリーですが、それと平行して休暇の様子が描かれた場所は、アイルランドのクラッシーボーン城でした。そこでホリデーを過ごしていた人物が、マウントバッテン卿でした。
チャールズと電話で言い争いをしてしまい、心に残ったもやもやした気持ちを手紙にしたため、皇太子に届けるように指示します。それから、娘夫婦と双子の孫、娘婿の母親と一緒にボートに乗ってロブスター漁に出かけました。平和な夏のひとときのはずですが、何やら緊張した音楽が流れます。そして、漁を楽しんでいたマウントバッテン卿一家のボートが爆破するシーンが遠くから映し出されるのです。マウントバッテン卿はそこで命を落としました。79歳でした。
それは1960年代終わりから激化していた、北アイルランド紛争に端を発している事件でした。北アイルランドのスライゴーに城を所有するマウントバッテン卿は、イギリスによる圧政の象徴としてIRA暫定派(アイルランド共和軍暫定派)により殺害されたのです。
これまでもドラマの中に登場していたマウントバッテン卿とは、一体どういう人物だったのでしょうか。
2 ルイス・マウントバッテン卿
*ディッキーと呼ばれていたマウントバッテン卿
”マウントバッテン”と言えば、エリザベス女王の夫フィリップ殿下の姓ですよね。はい、このマウントバッテン卿はフィリップ殿下の母親アリスの15歳年下の弟、フィリップ殿下の叔父さんになります。フィリップ殿下は父親の祖国であるギリシャで生まれ育ちましたが、母親のアリスもルイス・マウントバッテン卿もイギリスのフロッグモアハウスで誕生しています。そこは、イギリス王室の邸宅であるウィンザー城の敷地内にある屋敷です。そこで誕生するということは、王家と繋がりがある家系ということがわかりますが、アリスもマウントバッテン卿もあの大英帝国最盛期を築いたヴィクトリア女王のひ孫にあたります。
マウントバッテン卿は”ディッキー”と呼ばれていました。なぜでしょうか? 気になり調べてみると、通常ディッキーはリチャードという名前のニックネームとして知られているそうです。マウントバッテン卿の正式名は、ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテンです。そこでヴィクトリア女王により”ニッキー”という呼び名がつけられたそうなのです。しかし、ニッキーはニコラスから来ている呼び名であり、ロシアの皇室に多くニッキーが存在したため、混同を避けるためにディッキーと呼ぶように変えたということです。
また、この”マウントバッテン”という名前も、実はもともとは “バッテンベルグ”という名前でした。これはドイツ語名だったのです。ヴィクトリア女王の家系はハノーヴァー朝、ドイツ系の出身であり、夫のアルバート公もドイツの出身です。
1714年スチュアート朝のアン女王亡き後、後継者がいませんでした。そして、スチュアート朝の血筋かつ新教徒であるドイツのゲオルクが、ジョージ1世として英国君主になったところまで遡ります。
しかし、第1次世界大戦でイギリスはドイツと対戦し、国民の反独感情が募りました。そこで、1917年にドイツ名を英語読みに変えたのです。バッテンベルクの”ベルクBerg”はドイツ語で山、それを英語の山マウンテンmountainに変えて、マウントバッテンになったということです。
この時に改名されたのはバッテンベルク姓だけではなく、英国王室のハノーヴァー朝という言い方も、その時に英語名のウィンザー朝へ改称されました。
*『ザ・クラウン』シーズン2・3に登場したマウントバッテン卿
そんなディッキーことマウントバッテン卿を『ザ・クラウン』の中で知るようになったのは、シーズン2の第9話でした。フィリップの母校であるスコットランドのゴードンストン校へ通うことになったチャールズでしたが、馴染めずに楽しいとは言えない学校生活を過ごしていました。そんな時にたびたびチャールズを訪ねて元気付けてくれた人が、マウントバッテン卿でした。この頃から、父親のフィリップ殿下に代わって、チャールズを想う父親・祖父のような存在感を出していました。
それから、シーズン3の第5話ではクーデターの渦中の人として登場したのです。
1965年ウィルソン率いる労働党政権下で最大の貿易赤字が発表されると、各新聞紙上はじめ世間からウィルソン政権が酷評されます。そこで評判を上げるために、防衛費の削減を拒否しているマウントバッテン卿を、国防参謀総長の座から退任へと追いやったのです。
その後、デイリーミラー紙のセシル・キング会長らはポンドが急落していく世の中を憂い、ウィルソン政権を倒し、マウントバッテン卿を首相の座へと導くクーデターを企てます。
ドラマの中では、はじめはクーデターに加担することを断固として拒否していたマウントバッテン卿でしたが、次第に乗り気になってきます。そして、女王を味方につけようとまで画策するのです。しかし、ウィルソン首相からこのクーデターを知らされたエリザベス女王は、即座にマウントバッテン卿を叱り、この企ては失敗に終わります。
本当にそんなことがあったのでしょうか。
マウントバッテン卿は海軍軍人の道を歩み、第2次世界大戦では英国のために活躍しました。東南アジア地域連合軍の総司令官としてビルマで指揮を取り、日本軍とも戦ったのです(そのため日本嫌いと言われています)。立派な指導者として偉大な功績を残した人物なのです。
そんなマウントバッテン卿を、未来が不安視される政権を倒して真の指導者にしようとした動きは本当にあったようです。そして、実際にマウントバッテン卿がキング会長らとの昼食会に出席した記録も残されているのです。がしかし実際は、ドラマのようにクーデターを起こして民主主義の政権を倒そうと本気で考えたようなことはなかったと言われています。
イギリスで生まれ、イギリスで海軍軍人として活躍してきたマウントバッテン卿は、不景気に陥るイギリスの世を憂い、国を変えたいと心底願ったのです。このストーリーの最後で、そのような思いを抱いたマウントバッテン卿の気持ちを感じることができました。
3 マウントバッテン卿とチャールズ皇太子
話をシーズン4の第1話に戻します。
アイルランドで命を落としたマウントバッテン卿は、自身の葬儀に関して長い指示書を残していたとフィリップ殿下が息子のチャールズに言います。そして、弔辞はチャールズに読んでもらいたいと希望していることも。
葬儀に関する書面が残されていたことは事実のようです。そして、実際にウェストミンスター寺院で行われた葬儀では、チャールズ皇太子が弔辞を読んでいます。
マウントバッテン卿とチャールズは、本当に親しい間柄だったようです。
しかし、死の間際に電話で口論をし、手紙が残されていたという話はドラマの中だけのお話です。
マウントバッテン卿がチャールズに宛てた手紙では、エドワード8世のことにも触れられていました。マウントバッテン卿とエドワード8世は若い頃から交流があったため、彼のように王冠を捨てて離婚歴のある女性と結婚をするようなことになってもらいたくない、皇太子として、未来の国王として立派な道を進んでもらいたい、そういう思いがあったようです。
2015年にチャールズ皇太子はマウントバッテン卿が殺害された現場を訪れています。そして、その時にこのように述べています。
‘I could not imagine how we would come to terms with the anguish of such a deep loss since, for me, Lord Mountbatten represented the grandfather I never had.’
このような深い喪失の苦しみをどうやって乗り越えたら良いのかわからなかった、なぜなら、マウントバッテン卿は私にとって祖父のような存在だったのですから。
エリザベス女王の父親であるジョージ6世は早くに亡くなり、フィリップ殿下の父親も結婚する前になくなっています。そのため、チャールズ国王には本当の祖父は存在していなかったのですね。
マウントバッテン卿は、インド・パキスタンが分離独立する前の最後のインド総督となりました。そのお話が、映画『英国総督 最後の家』で描かれています。
マウントバッテン卿を知る上で、こちらも一緒に見てみてはいかがでしょうか。