マウリツィオ・ポリーニ ー ピアニストの魂
2024年3月後半の週末、寝る前にスマホを見ていると衝撃的なニュースが目に飛び込んできました。マウリツィオ・ポリーニが亡くなったと。
ここ数年、ロンドンでポリーニのピアノコンサートに行くことを楽しみにしていました。
最後に行ったコンサートは、2023年6月のロイヤル・フェスティバル・ホールでのコンサートでした。そのコンサートは、決して忘れることのできないコンサートとして心に刻まれています。
今回は、その時のコンサートのことも含め、ポリーニについて振り返ってみたいと思います。
1 マウリツィオ・ポリーニ (1942〜2024年)
1960年、ポーランドのワルシャワで行われた第6回ショパンピアノコンクール。それまでの5回のコンクールの入賞者は、ソ連とポーランド出身のコンテスタントが入賞していました。
しかしこの時、審査委員長であるアルトゥール・ルービンシュタインは言いました。
「今ここにいる審査委員の中で、彼よりうまく弾ける人がいるであろうか」
そうして優勝を果たしたのが、18歳という最年少のマウリツィオ・ポリーニだったのです。そして、ポリーニは西側諸国出身者にも入賞という道を切り開いたのです。
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建築家の父親と声楽家兼ピアニストの母親を持つポリーニは、16歳でジュネーブ国際ピアノコンクールに出場し、2位を獲得しました。そして、翌年もまた同じジュネーブ国際ピアノのコンクールに出場し、同じく2位。1位はいませんでした。
それから、18歳でショパンピアノコンクールに出場し優勝。素晴らしい演奏技術を持つピアニストとして世界デビューへの道が開けます。
しかし、ショパンコンクールで優勝した後、ポリーニは演奏旅行やレコーディングなどのオファーを断り、8年間も活動を停止しているのです。
理由は明らかではありません。けれど、若くして天才ピアニストとして一躍有名になってしまったポリーニは、本格的にピアニストとして世界に羽ばたく前に、もう少し勉強をし、レパートリーも増やしたかったのではと言われています。
1968年からポリーニは世界を舞台にして、本格的にツアーを開始します。
完璧で隙のない演奏と言われたポリーニのピアノは、世界中の人たちを魅了してきました。しかしやがて、歳を重ねるにつれポリーニの技巧が衰えてきたという声も聞かれました。またそれと同時に、ポリーニは自分の思いを込めて弾くようになったという評価もありました。
私はポリーニの晩年に訪れたリサイタルで、まさに歳を重ねたポリーニだからこそのピアノを聴いて、心が震えた経験をしました。
2 2022年 80歳のバースデーコンサート
ポリーニは頻繁にロンドン公演も行っており、私がロンドンに住んでから数回ポリーニのコンサートに足を運びました。
2022年3月1日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでポリーニの80歳のバースデーコンサートが行われました。ポリーニはその年1月に80歳の誕生日を迎えたのです。
2020年、2021年は世界中に蔓延したコロナウィルスの影響で、コンサートやライブ公演は中止。2022年は私自身にとっても、久しぶりに訪れるライブのコンサートでした。
会場に登場したポリーニは、決してパワーみなぎる姿ではありませんでした。
少し頼りなさが感じられる80歳のピアニストでした。
1部目はシューマンの『アラベスク ハ長調』でした。
やさしいピアノの旋律が流れるように心の中にスッと入ってきました。
安心できる温かい音、美しい音でした。
コロナ禍が終わりを告げ、人々がまた新たな出発を迎えた、そう感じさせてくれる音色でした。
そして、2部目はショパンです。
10代の頃から弾きこなしていたポリーニのショパン、80歳になったポリーニだからこそ奏でることのできる旋律でした。特に、『ソナタ第2番 葬送行進曲』は、人生の重みが伝わるような、心揺さぶられる演奏でした。
全身の力を注いで演奏している様子が感じられました。
最後の『英雄ポロネーズ』が終わったあとは、拍手喝采、会場中が総立ちでポリーニの演奏に魅了されている様子が伝わりました。
音楽の素晴らしさ、ポリーニの素晴らしさを感じずにはいられませんでした。
翌日の英国の新聞『ザ・タイムズ』ではこの日の演奏を綴っていました。
「80歳を迎えた伝説のピアニストが、魂のこもった演奏を披露」
まさに、その日の演奏は、ポリーニの魂が込められていたと感じる演奏でした。
そして、また来年もポリーニの演奏を聞きにこよう、それを楽しみにリサイタルの終わりを見届けたのです。
3 2023年 ポリーニの最後のコンサート
80歳のバースデーコンサートの翌年も、ポリーニのロンドン公演が発表されました。よかった、またポリーニの演奏が聞ける、そう思い、チケットを取りました。
しかし、予定されていた3月の公演は6月に延期されました。体調不良のためということでした。
不安がよぎりましたが、6月には無事にポリーニのピアノリサイタルが行われました。
会場は同じロイヤル・フェスティバル・ホール。
ポリーニが舞台に現れました。
今年もポリーニの姿を見ることができた、それだけでなんだか安堵した気持ちになりました。
そして、演奏が始まりました。
曲目は、やはりシューマンのアラベスクでした。
心に染み渡る聞き慣れた旋律。
しかし、途中でポリーニの手が止まりました。
演奏が続けられなくなり、頭を抱えるポリーニ。
会場中から集まる心配の視線。
ポリーニは、どうするのだろうか。
ポリーニは弾き続けました。けれど、途中で会場から立ち去りました。
スポットライトは灯されたまま。
静まり返ったままの会場。
そして、ポリーニは再び現れました。楽譜を持って。
ピアノの前に座り、演奏を続けました。
演奏を続けていると、楽譜をめくる手が追いつかず、演奏を止めてまた楽譜をめくるポリーニ。
そして、最後まで弾き切ったポリーニ。
観客は心からの拍手を送ります。
楽譜がピアノに残されたまま、ポリーニは立ち去りました。
2部目はショパンでした。
楽譜と楽譜をめくる人と一緒に、ポリーニは登場しました。
楽譜を見ながら、演奏を続けるポリーニ。
一音、一音の大切さが心に沁みます。
スケルツォ1番の音は、以前は迫力のある音が心に刺さるような演奏でしたが、今回は、音を奏でることの大切さが伝わる、心のこもった音でした。
ポリーニはショパンを弾ききりました。
観客はみんな、心からの拍手を送りました。
ありがとう、ポリーニ。
お疲れ様でした、ポリーニ。
ブラボー、ポリーニ。
このような素晴らしいコンサートを初めて経験しました。
最後までプログラムどおりの演奏を観客に届ける、それがプロフェッショナルの姿。ポリーニは本当に立派な姿を私たちに見せてくれました。
ポリーニがピアノに人生を捧げたように、生涯をかけて、最後までプロとして向き合うことができるものを持ちたい、心からそう思いました。
2024年のポリーニの公演は発表されませんでした。今年はもうロンドンには来ないのだろうか、コンサートは開催しているのだろうか、気になっていました。
息を引き取ったというニュースはとても悲しいニュースでした。
けれど、きっと天国に行ってもポリーニはピアノを弾き続けていると思います。
生涯をピアノに捧げた魂を込めて。