知ると面白いハプスブルク家 3)マクシミリアン1世

もわりー

オーストリア、ヨーロッパの歴史に登場するハプスブルク家についてたどっています。

今回は15世紀から16世紀に活躍したマクシミリアン1世を中心に見ていきます。

前回ご紹介したフリードリヒ3世の息子であるマクシミリアン1世は、父親と違ってオーストリアに止まらず積極的に動き回り、「中世最後の騎士」と呼ばれる活躍をしました。

そしてハプスブルク家の領土は、オーストリアからさらに他国へと拡大していきます。

ではどのようにしてハプスブルク家が発展していったのか、マクシミリアン1世と家族の物語を追いながら見てみましょう。

1 マクシミリアン1世(1459〜1519年)

マクシミリアン1世の物語をたどる際に、3つのテーマを取り上げてみていきましょう。

1)ブルゴーニュ公国

マクシミリアン1世の人生で重大な出来事のひとつは、オーストリアから離れてブルゴーニュ公国へ渡ったことです。

今のベルギー、オランダ、ルクセンブルグとフランスのロレーヌ、ブルゴーニュ地方に当たる場所です。私もウィーンに住んでいた頃、ウィーンからベルギーやフランスのブルゴーニュを訪れると、洗練された明るい雰囲気を感じました。では、まったく情報がないままオーストリアからその地に飛び込んだマクシミリアン1世にとって、ブルゴーニュは未知なる刺激的な場所であったに違いないと想像できます。

マクシミリアンの父フリードリヒ3世と、シャルル突進公と呼ばれたブルゴーニュ公国の偉大な権力者は、お互いに子供の縁談話を進めていました。シャルルはハプスブルク家と縁を持てば、自身もいずれ神聖ローマ皇帝になれるのではないかという野心があったのです。そして、マクシミリアンは、14歳の時に父に連れられて初めてシャルル大公に会いました。豪奢なもてなしをしてくれたシャルルは、幼いマクシミリアンに強烈な印象を残していたようです。

しかしそんなシャルル大公は、娘マリアの花嫁姿をみる前に、1477年に戦死してしまいます。唯一残された嫡子はマリアだけでした。可憐な娘が統治するブルゴーニュを、近隣諸国が狙いました。そして、マリアは父が定めてくれた相手マクシミリアンに、どうかブルゴーニュ国を救って欲しいと手紙を書くのです。マリアからの助けの声に応じたマクシミリアンは、ブルゴーニュ公国へ旅立ち、マリアと結婚するのです。

マリアとマクシミリアンは大変仲が良く、言語が通じなかった2人は、お互いの言語を学び、習得しました。そして、息子のフィリップと娘のマルガレーテを授かります。ブルゴーニュ公国で幸せに暮らしていた2人ですが、3人目を妊娠していたマリアは、マクシミリアンについて乗馬に出かけ、落馬して命を落としてしまいます。幸福な結婚生活は、5年も経たずに終わってしまったのです。

悲しみにくれたマクシミリアンに、さらにひどい仕打ちが起こります。マクシミリアンがブルゴーニュを統治していたのは、シャルルの娘婿という立場であったからなのです。その娘マリアが亡き今となっては、本当の後継者は息子のフィリップであると貴族や諸侯らから圧力をかけられ、マクシミリアンは摂政の座におろされてしまいます。そのようにブルゴーニュの民衆を扇動していたのは、フランスのルイ11世でした。ルイ11世は、息子をマリアの婿にしたいと狙っていたところ、マクシミリアンにとられた形になっていたのです。ルイ11世はブルゴーニュ南部を奪ってフランスの領土にし、さらにマクシミリアンとマリアの娘マルガレーテを、後にルイ11世の息子であるシャルルと結婚させようとしてフランスへとさらっていきます。マクシミリアンはそれを阻止することができなかったのです。

その後、故郷オーストリアがハンガリーのマーチャーシュ1世に占領されているなか、フリードリヒは息子マクシミリアンの将来を案じ、息子が神聖ローマ皇帝になれるよう働きかけます。そして、1486年マクシミリアンは26歳で神聖ローマ皇帝になり、アーヘンで戴冠しました。

1488年、ネーデルラントでマクシミリアンによる税の徴収に対する民衆蜂起が起こり、マクシミリアンは捕らえられてしまいます。これもフランスが挑発したことでした。そこで、父のフリードリヒ3世も動き、フランス軍を追放してマクシミリアンを解放させます。

それからマクシミリアンは摂政の地位を解かれ、息子のフィリップがブルゴーニュ公となり、ブルゴーニュを去ることになるのです。

マクシミリアンはこのことで、異国の地を統治することの難しさを学び、その後はその地での商人たちを味方につけるような施策を取るようになったということです。

2)チロルの領土掌握

前回フリードリヒ3世のところでもお話ししましたが、オーストリア領をフリードリヒ3世が掌握した際、チロルだけはまだ従兄弟のジークムントが領有していました。

ジークムントはお金に困ると、フリードリヒ3世の娘クニグンデが嫁いでいたバイエルン公アルブレヒト4世から多額の借金をし、それから返済がないということで紛争が起きていました。

そこで、1490年フリードリヒ3世の助言と支援を受け、マクシミリアンが借金ごとチロルを継承することになりました。

マクシミリアンはインブスブルックを都に定め、ブルゴーニュで行われていた経理体制を導入し、法制度や官僚制度の改革にもあたり、チロルの発展に大きく貢献しました。借金は6年で返済したと言われています。

また、ネーデルラントからも職人を集め、チロル職人と合同で甲冑の製作などにも力を入れました。後に、今でもインスブルックの名所となっている「黄金の小屋根」をつくりました。これは、マクシミリアンとミラノのスフォルツァ家ビアンカ・マリアとの結婚を祝してつくられたものでした。マクシミリアンは再婚したのですね。でも、それには意図があったようです。

黄金の小屋根 Image by ksbenchtal from Pixabay

インスブルックには、マクシミリアンにゆかりのあるさまざまな場所があります。ジークムントがインスブルックに建てたお城は、マクシミリアンによってゴシック様式で拡張され、その後もハプスブルク家に受け継がれていきました。マリア・テレジアの時代には立派な家具や調度品を備えたロココ様式として生まれ変わり、今でもその王宮内部を見学することができます。

3)イタリアへの関心

マクシミリアンは宿敵フランスを東西から挟撃しようともくろみ、ブルターニュ公女アンヌとの結婚を画策していました。しかし、当時マクシミリアンはチロルやハンガリー問題に従事しており、アンヌを迎えに行くことができませんでした。するとその最中にフランスのシャルルがアンヌを奪ってしまったのです。このことは、後にハプスブルク家にとって別の方面への発展に繋がることになるのです。

1493年フリードリヒ3世の死後、マクシミリアンはローマで神聖ロー皇帝としての戴冠を目指しますが、ベネチア共和国の軍に邪魔されてしまいます。そこで、ローマ教皇は新しい規則を定めたのです。

「戴冠をする代わりに、”宣言”をすれば皇帝として認められる」と。

このことは、ハプスブルク家が後に皇帝の地位を世襲化させることへとつながったのです。正式に皇帝になれば、次期皇帝を推挙することができたのです。

マクシミリアンはイタリアへの関心を示し、ミラノのスフォルツァ家の公女ビアンカと再婚することにしました。スフォルツァ家が莫大な財力を誇っていたためです。

マクシミリアンとビアンカは、マリアのような幸せな結婚生活は送れませんでした。言語が通じない2人は、マクシミリアンがイタリア語を習得しても、ビアンカにはドイツ語を習得しようという意思はなく、趣味も合わずにビアンカは孤立していき、マクシミリアンより先に亡くなっています。

さて、イタリア進出を狙っていたマクシミリアンは、イタリアへ侵攻していたフランスのシャルル8世と再び対立することになります。

そして、同様にフランスの権力を牽制したい立場にいたのが、スペインでした。マクシミリアンは、スペインのアラゴン王フェルディナンドからの要請に答え、息子のフィリップと娘のマルガレーテ2人と、スペイン家との二重の婚姻関係を結びました。

その後も、マクシミリアンはイングランドのヘンリー8世と同盟を組むなどしてフランスと対立していきました。じっとしていることなく動き回る、”中世最後の騎士”だったのです。

さらに、晩年にはウィーンにてハンガリーとボヘミアを統治するヤゲロー家と孫たちの縁談も成立させ、婚姻政策によって領土を拡大するハプスブルク家の政策を確立していきました。

 

1519年マクシミリアンは60歳でリンツ近郊のヴェルスにて亡くなります

マクシミリアンは、生前に自身の壮大な墓碑を構想していました。それは、インスブルックで鋳造した先祖の像と一緒に置かれるものでした。墓碑が未完成のうちにマクシミリアンは亡くなり、遺体はヴィエナーノイシュタットの聖ジョージ礼拝堂の祭壇の下に埋葬されました。しかし、マクシミリアンが構想していたブロンズ像は重すぎたため、マクシミリアンの孫フェルディナンド1世が、からになった墓碑をインスブルックへ運び、マクシミリアン1世の希望通りに28体のブロンズ像を周りに配置させるべく、宮廷教会を建てました。

現在インスブルックの宮廷教会には、マクシミリアン1世の大きな墓石と、その周りを取り囲むように28体の黒いブロンズ像が配置されています。

インスブルック 宮廷教会 photo AC

2 2人の子供たち、マルガレーテとフィリップ

マクシミリアンとブルゴーニュ公女のマリアとの間には、フィリップとマルガレーテが生まれました。2人がどのような運命をたどったのか、見ていきましょう。順番は逆になりますが、まずは妹のマルガレーテからです。

1)マルガレーテ(マルグリッド)(1480〜1530年)

1482年に母親のマリアが亡くなると、2歳のマルガレーテはフランスのルイ11世によってフランスに連れ去られ、後に息子のシャルルと結婚してフランス王妃となるように育てられます。利発で愛らしいマルガレーテはフランス宮廷でも可愛がられ、シャルルの姉であるアンヌに育てられます。

そして、シャルル8世として即位しマルガレーテとの婚姻が成立する頃、父マクシミリアンがブルターニュ公国のアンヌと婚約します。それに反撃したシャルル8世は、マクシミリアンがオーストリアから離れられなくなっているすきにアンヌを奪い取ってしまいます。そうして、立場をなくしてしまったマルガレーテは、ブルゴーニュへと帰郷するのです。けれど、ハプスブルク家にとっては、よかったのです。

その後、イタリアをめぐる争いでフランスと対立していたハプスブルク家は、同じくフランスを牽制したいスペインと二重の婚姻関係を結ぶことになります。そして、マルガレーテはスペインの王太子フアンと結婚しスペインへ渡ります。

しかし、フアンの子を妊娠した結婚後わずか半年で、病弱であったフアンが亡くなります。その後、お腹の中にいた子が死産となり、マルガレーテは国王・女王からスペインにとどまることを望まれましたが、再びブルゴーニュへと帰郷します。

その後はサヴォイア公フィリベールと再婚します。政治に無力なフィリベールに代わって、マルガレーテが公国の統治に関与しますが、フィリベールも5年も経たないうちに急死してしまいます。子供がいなかったため、マルガレーテはその後またブルゴーニュへ帰郷します。

それからは、結婚することなく、ネーデルラントの総督として立派に活躍しました。

幼少期をフランスで過ごした時の幼馴染と連絡を取り合い、甥のカールが神聖ローマ皇帝の座につくことを助けたとも言われています。

2)フィリップ(フェリペ1世)(1478〜1506年)

マクシミリアン1世とマリアとの間に生まれたフィリップは、美男子と言われており、フィリップ美公という別名もありました。

スペインとの二重結婚政策で、1496年フィリップはスペインのカスティーリャ王女のフアナと結婚します。フィリップは、スペインからきた王女に初めの頃は夢中になりました。しかし、元来好色家であったフィリップはフアナの情熱に愛想をつかしていき、一方でフアナはいつまでもフィリップに夢中で、精神異常をきたすほどフィリップへの愛情を注ぎました。

そんな中、スペインではフィリップの妹マルガレーテと結婚したフアナの兄フアンが亡くなり、姉や甥も次いで亡くなると、フアナがカスティーリャ王国の後継者として指名されました。そして、1501年フアナとフィリップは、スペインへと渡ります。

スペイン到着後、フィリップは義父母にフアナの精神異常を訴え、自身の王位継承を主張すると、妊娠中のフアナを残してネーデルラントへと戻ってしまいます。そして、フアナは1503年スペインで次男のフェルディナント1世(スペイン名フェルナンド)を産みました。その後、父に息子の養育を任せ、フアナは息子を置いてネーデルラントへと戻りました。この頃からフアナの精神異常はひどくなっていたのです。

1504年フアナの母、スペインのカスティーリャ王国のイザベル1世が亡くなり、1506年フィリップとフアナが再びスペインへはいり、フアナがスペイン王女を継承しました。

そして、フィリップはその後すぐ、スペインで遊びに興じた後で飲んだ水にあたり、28歳で急死してしまうのです。

息子の死の知らせを聞いたマクシミリアンはひどくショックを受けたそうです。そして、ネーデルラントの統治は、娘のマルガレーテに託したのです。

フィリップの死を受けて、フアナは大きな悲しみで正気を失いました。フィリップの棺を埋葬させず、棺を馬車に乗せて数年間カスティーリャ国内を彷徨い続けたと言われています。狂女となったフアナは1508年から父のフェルナンド王によりトリデシリャスの修道院に隣接した城館に幽閉され、そこで残りの人生を40年以上過ごしたのです。

フアナは政治には関心を示しませんでしたが、自身が女王であることは主張し続け、亡くなるまで女王の地位にいたのです。

フィリップとフアナの間には2人の息子たちカールとフェルディナンドがいました。この兄弟がそれぞれ別の地で、その後のハプスブルク家の発展に大きく貢献していくのです。

ハプスブルク家シリーズ

ABOUT ME
もわりー
もわりー
日本→ウィーン15年→現在ロンドン在住です。
書くこと・なにかをつくり出すことが好きです。

記事を読んでいただいた方をステキな旅へと案内できたら、そんな思いで書いていきます。

どうぞよろしくお願いします。
記事URLをコピーしました