知ると面白いハプスブルク家 12) フランツ2世(1世)ーナポレオンの登場と神聖ローマ帝国の崩壊

もわりー

オーストリアを中心に活躍したハプスブルク家の物語をたどっています。

女性で初めてハプスブルク家を継いだマリア・テレジア、そしてその後絶対君主的な改革を遂げた息子たちヨーゼフ2世とレオポルト2世でしたが、その頃フランスでは君主制を脅かすフランス革命が勃発しました。

神聖ローマ皇帝であるレオポルト2世は、妹であるフランス王妃マリー・アントワネットと国王ルイ16世を擁護するピルニッツ宣言を出しました。

しかし、その宣言はかえってフランスの革命派を刺激する形となり、その最中にレオポルト2世は47歳の若さで急逝してしまいました。

その後を継いだ長男フランツ2世の治世下では、ヨーロッパに新たな強者が登場しました。

今回は、そんなヨーロッパの情勢を追いつつ、フランツ2世のストーリーを2つに分けて見ていきましょう。

1 フランツ2世(1768ー1835年)神聖ローマ皇帝 の時代

フランツ2世は、レオポルト2世の長男としてフィレンツェで誕生しました。

そう、レオポルト2世マリア・テレジアの次男であったため、神聖ローマ帝国ではなく、父親フランツ1世が所有していたトスカーナ公国を継いでいたのでフィレンツェで生まれたのです。

フランツ2世が誕生した当時は、マリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世が2度目の結婚をした後でしたが、残念ながら後継者誕生への朗報を聞けず、マリア・テレジアは後継問題に心を悩ませていた時期でした。そのため、次男レオポルト2世に長男が誕生したという知らせを聞いたマリア・テレジアは、喜びのあまり王宮の隣のブルク劇場に飛び出し、「ポルドルに男の子が誕生したのよ!」と聴衆に向かって叫び、国民から歓喜の拍手につつまれたという話があります。

フランツ2世は16歳でウィーンへ行き、家督相続の教育を受けました。

そして、22歳の時に父レオポルト2世が叔父ヨーゼフ2世の後を継いで皇帝位につき、そのわずか2年後、レオポルト2世が亡くなりました。フランツ2世は1792年、24歳でハプスブルク家の家督と神聖ローマ皇帝位を継ぎました。

フランツ2世の就任直後、フランス革命政府はオーストリアに宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発しました。

1793年フランス国王ルイ16世が処刑されると、危機感を抱いたヨーロッパ諸国は第1次対仏大同盟を組みフランス革命政権へ対抗することを表明しました。

そしてその頃、フランスではフランツ2世と同世代の「怪物」と称された人物が動き始めていたのです。

1)ナポレオン・ボナパルト(1769ー1821年)台頭から皇帝へ

*ナポレオンの台頭

1789年のフランス革命以前にパリの士官学校で学んだナポレオンは、故郷のコルシカ島(イタリア半島西部のフランス領の島)から1793年フランスの軍隊へ戻っていました。そして1796年、フランス革命戦争ではイタリア側からオーストリアを包囲することに成功し、1797年にはついにウィーンまで迫っていきました。そこで、オーストリアはカンポ・フェルミオの和約を結び、ネーデルラントと北イタリアの一部の領土を失いました。これにより、ナポレオンはフランス国内で英雄となったのです。

*ナポレオン1世の誕生

その後ナポレオンは、イギリスを抑えるためにイギリスと植民地インドとの交易を妨害するため、エジプトへ遠征します。しかし、ネルソン提督率いるイギリス海軍の攻撃にあい、エジプトに足止めされることとなりました。

その頃、イギリスの呼びかけにより第2次対仏大同盟が組まれ、フランスは危機に瀕していました。そこでナポレオンは1799年エジプトを脱出してパリに戻り、ブリュメール18日のクーデターを起こし、統領政府を樹立して自ら政権を握ることとなったのです。

実権を握ったナポレオンは、外交面では戦争を続け、内政面ではナポレオン法典の発布などの改革に着手しました。

そしてついに、1804年ナポレオン1世としてパリのノートルダム大聖堂で戴冠式を行い、皇帝に即位したのです。この戴冠式にはローマから教皇を招き、妻のジョゼフィーヌも皇后として戴冠させました。

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ダヴィット作 ナポレオン戴冠式

2)神聖ローマ帝国の消滅

ナポレオンはさらにイギリス上陸を目指します。それに応じて、イギリス・オーストリア・ロシアによる第3次対仏同盟が結成されます。ナポレオンはトラファルガーの海戦でイギリスに敗北しますが、大陸では1805年オーストリアを破りウィーンに上陸します。その際、ウィーンのシェーンブルン宮殿に滞在しました。

チェコ方面へ逃れたフランツ2世の軍と、ロシアのアレクサンドル1世の軍は1805年アウステルリッツでナポレオン軍と対立し、オーストリア・ロシアの軍はそこで惨敗してしまいます。

フランス・オーストリア間ではプレスブルクの和約が結ばれ、オーストリアはイタリアとチロルなどのオーストリアの領土も失います。

その後、ロシアはイギリス・プロイセンと手を組んで第4次対仏大同盟を結成しますが、ナポレオンはプロイセンに圧勝してベルリンを占領、ヨーロッパのほぼ全域を支配下におきます。そして、ドイツ一帯にライン同盟を結成し、事実上神聖ローマ帝国領はフランスの支配下に置かれることとなってしまいました。

そこでついに、フランツ2世は1806年神聖ローマ皇帝位を退き、神聖ローマ帝国の消滅を宣言したのです。

フランツが領有していた場所はハプスブルク家領となり、フランツはオーストリア皇帝フランツ1世として即位し、ナポレオンもそれを承認しました。

2 フランツ1世 オーストリア皇帝の時代

1)ナポレオン・ボナパルト マリー・ルイーズとの2度目の結婚

イギリスとロシア以外のヨーロッパを制圧したナポレオンは全盛期を迎えていました。

しかし、兄のジョセフに統治させていたスペインで市民の蜂起が起きると、ナポレオンはスペインに手を焼くようになりました。

それを好機と見たフランツ1世は、1809年再びナポレオンに宣戦布告し、イギリスと組んで第5次対仏大同盟を形成します。オーストリアも勝ち負けを繰り返した後、ナポレオンはウィーンを占領し、1809年5月から10月まで再びシェーンブルン宮殿に滞在します。

シェーンブルン宮殿でナポレオンが寝室として使った部屋は、現在”ナポレオンの間”という名で残っており、見学コースに含まれています。

さて、ナポレオンは1796年にジョセフィーヌと結婚していましたが、子供に恵まれませんでした。そして、愛人が妊娠したという知らせを聞いた際、子供ができないのは自分の責任ではないことを知り、ジョセフィーヌと離婚することにしました。

そして、ナポレオンが再婚相手として選んだ女性は、オーストリア皇帝フランツ1世の長女、マリー・ルイーズでした。

ナポレオンは、かつては名もなきハプスブルク家が子孫を残して繁栄してきたように、子孫を残すことを切望していたのです。そのため、多産で知られるハプスブルク家と婚姻関係を結ぶことを選んだのです。

怪物と呼ばれている非情な人物との結婚を、オーストリアのために泣く泣く承諾したマリー・ルイーズでしたが、ナポレオンとの結婚生活は幸せだったと言います。

ナポレオンが切望していた息子のナポレオン2世(ライヒシュタット公)も誕生し、幸せな時間を過ごしていましたが、それも長くは続きませんでした。

2)ナポレオン・ボナパルト 衰退

ナポレオンはトラファルガーの海戦でイギリスに敗れた後、イギリスを弱体化させるために翌年1806年に大陸封鎖令を出して、ヨーロッパ各国にイギリスとの交易を禁じていました。しかしこれにより、ヨーロッパ各国は自国の工業製品や穀物をイギリスに輸出できなくなり、経済的な混乱を招き、現実に密輸も行われていました。

そしてついに1812年ロシアのアレクサンドル1世は大陸封鎖令からの離脱を表明しました。それに対して憤慨したナポレオンは、ロシア遠征を決行しました。

しかし、ここでロシアは策を練ったのです。

まともに敵対しては勝つことはできないと悟ったロシアは、広大なロシア領土にフランス軍を進軍させる一方で、フランス軍の進路の食料や物資を焼き払い、フランス軍を疲弊させていったのです。その作戦が功を奏し、ナポレオン軍はロシアで惨敗したのです。

そして、力の弱まったナポレオンに対してヨーロッパの国々では再び反ナポレオンの動きが加速し、第6次対仏大同盟を結成します。

プロイセン、ロシアとの間で戦火が切られ、その後オーストリアもそこに加わります。

一進一退を続け、ついに1813年10月ライプツィヒの戦いでナポレオン軍は敗北します。

その後、プロイセン・オーストリアの軍、スウェーデン軍、イギリス軍はフランスを包囲しパリは陥落、ナポレオンは退位に追い込まれ、エルバ島へ追放されてしまいます。

マリー・ルイーズは故郷のウィーンへ息子のライヒシュタット公(ナポレオン2世)を連れて戻り、後にイタリアのパルマの領地を与えられ、そこで再婚をします。

しかし、息子とは離れ離れにさせられてしまいました。ライヒシュタット公はシェーンブルン宮殿で監視されるように生活をし、その後病にかかり21歳でこの世を去りました。

3)ウィーン会議

フランツ1世の話ではなく、ナポレオンの話が長くなってしまいましたが、ここでまたフランツ1世の出番となりました。

ナポレオンが失脚した後、荒廃したヨーロッパをどのように建て直すかを話し合う会議が1814年9月からウィーンのシェーンブルン宮殿で開かれました。

フランツ1世がホストを勤めましたが、ここで主導権を握った人物は、オーストリアの外相メッテルニヒでした。

フランツ1世はメッテルニヒを信頼し、全権を委ねていたのです。

ウィーン会議では、フランス革命以前の統治者を復位させ旧体制を復活させることが話し合われましたが、各国自国の領土の拡大や少しでも有利な条件を引き出そうという目論見が交錯し、なかなか進展しませんでした。

その間にも舞踏会が開かれ、時間稼ぎをしていたという意味で、「会議は踊る、されど進まず」という揶揄された言葉も出る有様でした。

そんな中、1815年2月ナポレオンがエルバ島から脱出をはかったのです。

ナポレオンはパリに戻り、復位を宣言し、連合国とも講和を望みましたが、連合国はそれを認めず再び戦争となりました。そして6月18日ワーテルローの戦いで惨敗したナポレオンは、南大西洋のセントヘレナ島へ幽閉されたのです。

そこでは厳しい監視がしかれ、ナポレオンはその地で1821年55歳で死去しました。

そして、ウィーン会議ではナポレオンのエルバ島脱出を受けて合意を急ぐこととなり、1815年6月9日ウィーン議定書が調印され、ウィーン体制が築かれることになりました。

それは革命以前の絶対王政の形を復活させるものとなったのです。

崩壊してしまった神聖ローマ帝国は復活することなく、ドイツ連邦を設置し、オーストリアは議長権を得ることにとどまりました。

また、オーストリアはロンバルディアを取り戻し、トスカーナの領有権も戻りました。

自由主義、民族主義を否定する専制国家への逆戻りは、後に他民族を抱えるハプスブルク国家が大きな壁にぶつかる温床となるのです。

3 善良な皇帝フランツ とフェルディナント1世

フランツ1世は、「善良な皇帝”gute Kaiser Franz” 」として国民から人気があったと言われています。

ウィーン会議以後もメッテルニヒが政治上重要な役職につき、内政を動かしていました。

フランツ自身は政治よりも植物学に興味を示していました。質素な生活を好み、親しみやすさがあったと言われています。

フランツ皇帝は、1835年67歳でこの世を去りました。

神聖ローマ皇帝として、それからオーストリアの皇帝として合わせて43年間の治世を全うしました。

現在ウィーンの王宮ホーフブルクには、このオーストリア皇帝として初代のフランツ1世の像が立っています。

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ウィーンホーフブルク フランツ1世像


フランツ皇帝亡き後は、長男のフェルディナントがオーストリア皇帝位を継ぎました。

しかし、フェルディナントは生まれながらに病弱で、肉体的にも精神的にも健康ではありませんでした。これはまた繰り返されていたハプスブルク家の近親婚のためだとも言われています。

そのような状態で、皇帝位を継ぐことも危ぶまれていましたが、男系相続順位を忠実に守ったフランツ1世は彼を後継者としたのです。

フェルディナンドが即位すると、政治は事実上全てメッテルニヒが動かしていました。

そして、1948年3月革命が起こりフェルディナントは退位を余儀なくされ、フランツ・ヨーゼフ皇帝の誕生となったのです。

ハプスブルク家シリーズ

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もわりー
もわりー
日本→ウィーン15年→現在ロンドン在住です。
書くこと・なにかをつくり出すことが好きです。

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