知ると面白いハプスブルク家 14最終回) フランツ・フェルディナントと最後の皇帝カール1世

オーストリア帝国を築いたハプスブルク家のストーリー、今回はいよいよ最終回になります。
多民族を抱えているハプスブルク帝国は、オーストリア=ハンガリー帝国としてハンガリーの自治権を認めました。しかし、その後も民族問題が大きくなる中、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の周りでは不幸が続き、最愛の皇后エリザベートも暗殺されてしまいます。
今回は、帝位につく前に暗殺されてしまったフランツ・フェルディナントと、ハプスブルク家最後の皇帝となったカール1世のストーリーを追ってみましょう。
1 フランツ・フェルディナンド(1863−1914年)
フランツ・フェルディナンドは、フランツ・ヨーゼフの弟カール・ルードヴィヒとカール・ルートヴィヒの2番目の妃であるマリア・アンヌンツィアータの長男として誕生しました。しかし、フェルディナンドが7歳の時に、母親は結核で亡くなります。
父親カール・ルートヴィヒはその後22歳年下のポルトガルの王女マリア・テレサと再婚ししました。聡明な彼女は、フランツ・フェルディナンドの2番目のマリア・アンヌンツィアータとの子供達の面倒もよく見て、フランツ・フェルディナンドも彼女を慕っていたと言われています。
ここでは3つのテーマに分けて、フェルディナンドについて見てみましょう。
1)世界一周旅行へ出かけ、日本も訪問
フランツ・フェルディナンドは1877年14歳でオーストリア=ハンガリー帝国の軍隊に入隊しました。
1889年フランツ・ヨーゼフ皇帝の長男ルドルフが自殺を遂げると、フランツ・フェルディナンドが帝位継承者として名をあげることになりました。そして、若きフェルディナンドは見聞を広めるため、1892年から1893年にかけて世界一周の航海旅行へ旅立ちました。
イタリアのトリエステから出航したフェルディナンドは、その後インド、インドネシア、オーストラリアを周り、日本へ上陸したのです。
1983年8月長崎に入港したフェルディナンドは、そこで初めて日本の文化に触れました。
熊本、神戸、京都、奈良、岐阜、名古屋、横浜、東京、日光などを訪問し、寺社や城郭の見学、温泉体験などを楽しまれたようです。
東京では、明治天皇・皇后を表敬訪問しています。
その後、横浜から太平洋を渡り、カナダ・北米を訪れてヨーロッパに戻りました。
コレクション好きなフェルディナンドは、日本からもオーストリアへお土産を持ち帰っています。
フランツ・フェルディナンドは細かい旅行記を記していました。そして、日本を訪れた部分が翻訳され、出版されています。
2)ゾフィ・ホテクとの結婚
1895年フェルディナンドは結核にかかり、療養しました。
そして、一時は帝位継承者はフェルディナンドの弟であるオットーになるのではないかという話が出るようにもなりました。しかし、1年半ほど療養した後病気が回復し、また父のカール・ルートヴィヒが1896年に亡くなったことで、皇位継承者に認定されました。
33歳になっていたフェルディナンドが誰と結婚をするのか、世間の注目が集まりました。
そして、当時フェルディナンドが頻繁に訪れていた、フリードリヒ大公家の娘の誰かと結婚するかと思われていた矢先、フェルディナンドがその家に忘れてしまった腕時計の中に、女官であるゾフィの写真がはめ込まれていたことが発覚したのです。ゾフィはフェルディナンドが療養中にも手紙を送っていたようです。
しかし、彼女は将来ハプスブルク家の帝位を継ぐフェルディナンドの妻となるには身分が不相応で、フランツ・ヨーゼフ皇帝はじめ、周囲からは猛反対を受けました。
結婚か帝位かと迫られたフェルディナンドは、気丈にも両方諦めないと言い張り、継母であるマリア・テレサがフランツ・ヨーゼフ皇帝を説得し、結婚が認められることになりました。
しかし2人の結婚に際して、ゾフィは皇族としての権利を全て放棄し、2人の間の子孫には帝位を継がせないという条件を了承する必要があったのです。
1900年に2人の結婚式が行われましたが、フランツ・ヨーゼフ皇帝は出席せず、マリア・テレサ以外の皇族も欠席しました。
ゾフィはホーエンベルク公妃と名付けられました。
結婚後も、公式行事ではフェルディナンドと並ぶことは許されず、末席に座るなど冷遇を受け続けました。
フェルディナンドと皇帝フランツ・ヨーゼフは政治的思想でも対立しており、フランツ・ヨーゼフがシェーンブルン宮殿に住む一方で、フェルディナンドはベルベデーレ宮殿を使っていました。
フェルディナンドとゾフィ一家は、フェルディナンドが1889年父親のカール・ルートヴィヒから与えられたオーストリアのアルトシュテッテン城やボヘミアのコノピシュチェ城で、家族の時間を好んで過ごしました。

しかしやがて、フェルディナンドとゾフィには悲劇が訪れるのです。
3)サラエボ事件
1878年ベルリン会議にて、オーストリアはオスマン帝国領であったボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を得ました。そして1908年にこの地をオーストリア帝国へ併合しました。
そこは、スラブ民族グループが人々の多数をしめており、スラブ民族の独立運動の気運が高まっていました。
フェルディナンドは、オーストリアがハンガリーに自治権を与えたように、スラブ民族も優遇すべきとの考えも持っていました。
そのような状況の中で、1914年フェルディナンドは陸軍監察官としてボスニア・フェルツェゴビナの首都サラエボで行われる軍事演習の行事に参加するため、ゾフィと共にサラエボを訪れました。
身の危険も十分に考えられる状況でしたが、フェルディナンドにとっては初めて公式にゾフィを連れて訪問を許可された行事であり、2人揃って堂々とサラエボへと赴くことになったのです。
6月28日サラエボにフェルディナンド夫妻が到着すると、盛大なパレードが行われました。
その最中、警護の隙をついて手榴弾が投げられ、副官の車にあたり数人が負傷しました。
けれどパレードは続けられ、市庁舎に到着して式典が行われました。
その後、フェルディナンドは負傷した副官を見舞うために病院へ行くことにしたのですが、そのことが運転手に伝わっていなかったためか、あるいは急な変更で道を間違えたためか、車が橋のたもとで一度停車することになったのです。
その場所は、ちょうど暗殺を企んでいたうちの1人プリンツィープが潜んでいたところであったのです。突如として目の前に現れたフェルディナンド夫妻に向け、プリンツィープはピストルを2発発射しました。
倒れるゾフィを抱きかかえ、「ゾフィ、死んではいけない、子供たちのために生きてくれ」フェルディナンドはそう叫ぶも、間もなく2人は息絶えたのです。
プリンツィープはその場で逮捕されました。
フェルディナンドとゾフィの遺体は、ハプスブルク家の納骨堂であるカプチィーナ教会ではなく、2人が家族と共に時間を過ごしたオーストリアのドナウ川沿いの城、アルトシュテッテンに並んで眠っています。

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アルトシュテッテン城は今でもゾフィに与えられた家名ホーエンベルク家の子孫が所有しています。そして、そこはフランツ・フェルディナンドミュージアムとして一般公開されています。
サラエボ事件の詳細や、フェルディナンドが世界一周旅行で収集したコレクションなどとても興味深い展示がされています。
https://www.schloss-artstetten.at/

また、フランツ・フェルディナンドは非常に狩猟を好んだ人物としても知られています。
ハンティングのコレクションは、チェコのプラハ郊外にあるかつてのフェルディナンド一家の住居であったコノピスチェ城に展示されています。この城にはお庭もあり、プラハから日帰りで訪れる人気のある観光地としても知られています。
https://www.zamek-konopiste.cz/en2 カール1世(1887ー1992年)
フランツ・フェルディナンドとゾフィとの結婚では、子供たちへの帝位継承権は放棄させられいました。そのため、その次の帝位継承権は、フェルディナンドの弟であるオットーになっていました。しかしその後、オットーは1906年41歳の若さで亡くなりました。
フェルディナンドとゾフィがサラエボで暗殺されたことにより、オットーの長男カールが次期継承者となり、第一次世界大戦が勃発したのです。
1)ツィタ・フォン・ブルボン=パルマとの結婚
1911年カールは、ブルボン=パルマ公国の公女であるツィタと結婚しました。
カールの結婚相手に関しては、大伯父であるフランツ・ヨーゼフも気を病んでいました。
フランツ・フェルディナンドがゾフィと貴賤結婚をしたことにより、カールにはカトリック教徒であり、身分相応の人物との結婚を強く望んでいたのです。
ツィタの父親パルマ公は、ブルボン家の末裔にあたり、1861年サルディニアによりイタリアが統一された後に多くの領地を没収されていました。
ツィタの母親は、フェルディナンドとオットーの継母マリア=テレサと姉妹でした。
カールとツィタは幼い頃からお互いを知っていましたが、適齢期になり改めて見合いが設定され、親しく交際するようになったのです。
カールとツィタとの結婚は、フランツ・ヨーゼフも大変喜び、結婚式では稀に見る上機嫌な姿を見せ、カールとツィタと一緒に写真に写る姿も残されています。
カールとツィタはシェーンブルン宮殿に住み、長男オットーも誕生し、フランツ・ヨーゼフが孫と一緒に過ごすこともありました。

ウィーンで購入したポストカードより
ツィタは王朝思想を強く指示しており、ハプスブルク家という存在を誇りに思う女性でした。
夫であるカールに同伴して人前に出ることが多かったため、でしゃばりという印象も持たれていたようです。
また、イタリアはドイツと共にオーストリアと三国同盟を結んでいたにも関わらず、第一次世界大戦の戦況悪化を察して同盟から脱退したこともあり、イタリア出身であるツィタを悪く思う国民も多くいました。
1916年11月、68年間ハプスブルク家を統治し続けたフランツ・ヨーゼフ皇帝が永眠すると、
29歳のカール1世皇帝と皇后ツィタが新たに即位しました。
2)シクストゥス事件
オーストリアの第一次世界大戦の戦況は悪化していきました。
そんな中、ツィタはベルギーの軍隊に所属していた兄のシクストゥスとシャヴィエルと密かに連絡をとり、オーストリアとフランスの和平交渉を画策したのです。
1917年3月、カール1世はシクストゥス書簡を発しフランスとの講和条約の締結へと動きます。しかし、結局主張は折り合わず、1918年4月フランス側からこの書簡の存在を暴露されてしまいます。
このことにより国内外でカールは信頼を失い、同盟国であるドイツとより緊密に結びつきを強めるしかなくなってしまったのです。
1918年11月4日、休戦が発表され軍隊が解散されると、君主制との最後のつながりは崩壊しました。
1918年11月9日 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ベルリンで共和国が宣言されました。
そしてその2日後、1918年11月11日 カール1世はシェーンブルン宮殿にて、オーストリアの政務における一切の関与を放棄する宣言に署名をさせられることとなったのです。
この署名には、ツィタは最後まで反対していたそうです。
さらに2日後には、ハンガリーの統治を断念する書面にも署名しました。

3)亡命と復権の試み
カール一家は当初ウィーン郊外のエッカルツアウ城にうつりました。
しかし、暴徒に襲撃される危険があるとされ、4ヶ月後にスイスに亡命しました。
スイスではカールに対する批判はなく、穏やかに過ごすことができました。
1921年3月、カールはハンガリーでの復位を試みてハンガリーに入国をしますが、結局国外退去を命じられます。その半年後、政権交代したハンガリーで再び復権を目指して妊娠中のツィタと共にハンガリーへ赴きますが、再び失敗に終わります。
それからカール一家はイギリス軍艦の移送により、ポルトガル領のマデイラ島へと追放されてしまいます。
当初は快適な家を与えられ生活していましたが、すぐにお金に困るようになり、環境の悪い山荘へと移動しました。カールはそこで風邪にかかり、1922年35歳で命を落としました。
カールの葬儀はマデイラ島で行われ、遺体はマデイラのフンシャル近郊の教会に埋葬されました。
ツィタはその後カールより60年も長生きしました。
カールの死後、スペイン、ベルギー、カナダ、スイスと移転を繰り返し、1982年ようやくオーストリアへの再入国が許可されました。
第一次世界大戦下で国民が抱いた憎い感情は消えており、最後の皇后を歓迎する声が多く聞かれたそうです。
1989年3月14日 ツィタはスイスの老人ホームで96歳で亡くなりました。
ツィタの遺体は、ウィーンのカプツィーナ教会に埋葬されていますが、カール1世の遺体はマデイラ島から移されることはありませんでした。
カールの遺体もカプツィーナ教会へ移そうという話はありましたが、長男のオットーは、それはマデイラの人たちに対して無礼に当たると考え、移送は行われなかったということです。
しかし、カール1世の心臓は、ツィタの心臓と一緒に壺に入れられスイスのムーリ修道院に安置されています。
この修道院は、私がハプスブルク家のストーリーを辿り始めた第1回目の記事で、スイスに拠点を置いていたハプスブルク家が建てた修道院として紹介したところです。
知ると面白いハプスブルク家 1)始祖からルドルフ1世、そしてルドルフ4世まで
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ハプスブルク帝国は崩壊しましたが、ハプスブルク家の血縁はまだ途絶えておりません。
2011年7月、ウィーンに暮らしていた私はハプスブルク家の荘厳な葬列を目にすることになりました。
7月4日、カール1世とツィタの長男オットーが、ドイツの自宅で98歳で亡くなったのです。
そして、7月16日にウィーンのシュテファン寺院で行われた葬儀には、オーストリアの大統領、首相をはじめ各国の要人が参列し、かつてのハプスブルク帝国の民族衣装を身に纏って参列している市民もいました。



葬儀はオーストリア国営放送ORFで生中継され、遺体はカプツィーナ納骨堂に安置されました。
誕生した頃はフランツ・ヨーゼフ2世となることを期待されていたオットーの長い人生は、まさに波乱万丈の人生でした。シェーンブルン宮殿でフランツ・ヨーゼフ皇帝と共に幼い時間を過ごし、突如父親が皇帝となり、第一次世界大戦敗戦後から激動の波にのまれ転々とし、第二次世界大戦中はアメリカへ亡命、戦後はヨーロッパへ戻り欧州議会議員としても活躍しました。
オットーの子孫たちは、今でもヨーロッパでそれぞれに生活をしています。
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14回にわたり綴ってきたハプスブルク家のストーリー、長々とお付き合いいただき誠にありがとうございました。
知れば知るほど面白い、と思いながら書いてきましたが、同じ気持ちで記事を読んでいただくことができましたら大変うれしく思います。また、今後オーストリアやハンガリー、チェコをはじめハプスブルク家ゆかりの地を訪れることがある際には、ハプスブルク家の人々へ思いを馳せて、ストーリーを思い出していただけると幸いです。