音楽家ゆかりの地 ウィーン ベートーベン <前編>ウィーンの街中での軌跡を辿る
数々の音楽家が活躍した町、ウィーン。
今回はベートーベンの軌跡を辿ってみましょう。
ベートーベンの生まれは、オーストリアではなくドイツのボン。1770年ケルン宮廷の歌手・鍵盤楽器奏者として活躍する一族に生まれたベートーベン。優雅に聞こえますが、父親はアルコール依存症でお金を浪費し、幼いベートーベンは家計を支えるために強制的にピアノに向かわされたという悲しい過去があるのです。
そんなベートーベンは、16歳の時に初めてウィーンの地へ足を踏み入れ、モーツアルトを訪れました。2週間という短い滞在の後、危篤の母親を見舞うためにボンへ戻ったベートーベン。再びウィーンにやって来たのは、21歳の冬、1792年でした。それ以降、ベートーベンがボンに戻ることはなかったのです。
前編では、ウィーンの町の中心地でベートーベンの軌跡を辿ってみましょう。
ウィーン観光をするにあたり、中心地となる場所はやはり国立オペラ座のあるカールスプラッツKarlsplatz周辺です。まずはこの辺りで、ベートーベンがウィーンで活躍し、今でも人々に愛されていると感じられる場所を訪れます。
1 セセッション Secession
カールスプラッツKarlsplatzの駅から、国立オペラ座とは逆方向、屋外マーケットのナッシュマルクトの方へ向かう途中にセセッションはあります。月桂樹の葉をモチーフにしている黄金のドームを屋根に掲げる建物は、分離派会館とも呼ばれています。19世紀末に、画家のグスタフ・クリムトを中心に結成された新しい芸術のグループ、造形芸術家「分離派」の作品発表の場として建てられました。その中に、「ベートーベン・フリーズ」と呼ばれる見事な壁画があります。これは、1902年分離派の展示会で、クリムトが発表した、ベートーベンの名曲「喜びの歌(歓喜の歌)」と言われる「交響曲第9番」の最終楽章をモチーフに描かれています。ベートーベンが表現する「苦悩を突き抜けて歓喜に至る」という生き方が、独特な手法で壁画として描かれており、一見の価値があります。
2 コンツェルトハウス Konzerthaus
先述したベートーベンの「交響曲第9番」は、ウィーンでも毎年年末に演奏されます。新年のニューイヤーコンサートが開かれるのは楽友協会 Musikvereinですが、この年末のコンサートの会場は、コンツエルトハウス Konzerthausです。
ヨハンシュトラウス像があることで有名な市立公園の近くにあります。ウィーン交響楽団の本拠地となっており、夏期休暇時をのぞき、毎日様々なコンサートが開催されているので、音楽ファンの方は訪れてみてはいかがでしょうか。この記事の冒頭の写真は、このコンツエルトハウスの中にあるベートーベンの像です。
3 パスクアラティハウス Pasqualatihaus
ベートーベンは引っ越し好きであったことでも知られており、80回近くも引っ越したと言われています。そんなベートーベンが住んだ家は、ウィーン市内に3件ミュージアムとして公開されています。その中の一つがパスクアラティハウス。ウィーン大学のあるショッテントーアShottentorの近くにあります。
18世紀に建てられたこの建物は、オーナーの名前にちなんでパスクアラティハウスと呼ばれています。ベートーベンはここに、1804年から1815年の間、数回にかけて暮らしています。ここでは、ピアノ曲で有名な「エリーゼのために」やベートーベン唯一のオペラ「フィデリオ」などが誕生しました。
次回後編では、ベートーベンが遺書を書いた家など、ウィーン郊外の軌跡をたどります。
音楽家ゆかりの地 ウィーン ベートーベン<後編>ウィーン郊外で軌跡を辿る旅