知ると面白いハプスブルク家 1)始祖からルドルフ1世、そしてルドルフ4世まで

もわりー

ヨーロッパの歴史にふれると、”ハプスブルク家”という名前をよく耳にしますよね。何度も耳にするので、なんとなく知っている気になってしまうのですが、いったいどんな人たちなのでしょうか?

オーストリアを中心に領土を拡大し、ハンガリー、チェコ、ポーランド、イタリア、スペイン、ベルギー、オランダのあたりまで支配下に置いた一族。そして、その領土拡大の手腕は、結婚政策によるものだった。有名な人物をあげれば、マリアテレジア、フランツヨーゼフ、エリザベートなど

では実際どのように領土を広げていったのか、そもそもいつから始まってどのように終わったのか、そしてハプスブルク家にはどんな人たちがいたのか、調べ始めると家系図はどんどん複雑になっていき、頭の中が混乱して、もうお手上げ! となってしまった方もいらっしゃるのではないでしょうか?(私のように・・・)

そこで、今度こそお手上げとならないように、知るたびに面白い!と思えるように、ハプスブルク家についての物語をたどっていこうと思います。少々長丁場となっていきますが、ハプスブルク家の大河ドラマを見るような気持ちで、お付き合いいただけたらうれしいです。

今回は、そもそもの始まりから、ハプスブルク家の異端児とも言われ、猛威をふるったルドルフ4世までを見ていきます。

1 スイスに拠点を置いていたハプスブルク家の始祖

ハプスブルク家の始祖と言われている人までさかのぼると、カンツェリン(またはランツェリン)にたどりつきます。彼は現在のスイス北部、アールガウに拠点を置いていました。生まれた年は不明ですが、990年ごろ亡くなっています。

彼の息子のラートボットがその後を継ぎ、ハプスブルク家の名前を後世に伝える大きな建築物を残しました。

ひとつは、ベネディクト派のムーリ修道院です。ここはハプスブルク家の墓所となっており、最後の皇帝カールと皇妃チータの心臓もこの修道院のチャペルに眠っています。

そしてもうひとつは、ハプスブルク城です。これに関する一つの言い伝えが残されています。

ある日ラートボットが狩りにいった際、お気に入りの鷹(タカ)がいなくなりました。探し回り見つけたところが、アール川の近くの岩山でした。ラートボットはそこを理想的な拠点と思い、城を建てたのです。父親の世代から拠点を置いていたアールガウは、当時の中世ヨーロッパ時代には城が密集している地帯であり、また木造の砦であったのです。

ラートボットはその新しい城をハビヒツブルクー鷹の城と名付けました。そして、そこからハプスブルクと言う名前が後世にも定着していったのです。

Habsburg Castle :Image by Walti Göhner from Pixabay

ラートボットは1045年に亡くなります。その後、ハプスブルク家は後継者たちに引き継がれ、続いていきます。

そして、1273年ハプスブルク家に重大な出来事が起こるのです。

2 神聖ローマ帝国について

当時のハプスブルク家の活動エリアは、神聖ローマ帝国の領土内でした。ちょっと話はそれますが、ハプスブルク家を知るために、神聖ローマ帝国について見ておきましょう。

古代ローマ帝国が西ローマと東ローマに分かれたのち、ゲルマン民族が台頭しローマにまで進出します。そして西ローマ帝国を滅ぼしてフランク王国を築きました。そのフランク王国のカール大帝は800年にローマ(東ローマ)の教皇レオ3世により西ローマ帝国の皇帝として戴冠されました。その後カール大帝の孫の代でフランク王国は3分割され、今のドイツ・フランス・イタリアの礎となりました。そこで力をつけていったのが、ドイツ王国でした。962年ドイツ王国のザクセン侯オットーは、ローマ教皇領まで侵食していたイタリア王国のベレンガリオ2世を破り、ドイツ王がイタリア王も兼ねると言う意味でローマ教皇から戴冠され、神聖ローマ帝国の皇帝となったのです。

その後、神聖ローマ帝国として、皇帝の地位は続いていきます。そして、1250年ホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ2世が亡くなったのち、コンラート4世が引き継ぎましたが、わずか4年で病死してしまい、ホーエンシュタウフェン朝は断絶してしまいます。

それからは、世襲王朝を取らず、ネーデルラント家やイングランドのジョン王の次男リチャード、そしてカスティーリャ王国のアルフォンソ10世が皇帝となっていましたが、いずれも極めて不安定な王権で、世の中は乱れていました。イングランドのリチャードは兄のイングランド国王ヘンリー3世と共に内乱に巻き込まれ、神聖ローマ帝国の皇帝として戴冠を受ける状況にはなく、1272年64歳でイングランド国内で亡くなりました。

神聖ローマ帝国の皇帝は、選帝侯と呼ばれる諸侯たちによって選ばれていました。リチャードが亡くなった後、神聖ローマ帝国の秩序を守るため、教皇グレゴリウス10世からの催促もあり、選帝侯たちは皇帝を選ぶ会議を開きました。そして、その時に選ばれたのが、ハプスブルク家のルドルフ1世だったのです。

3 ルドルフ1世

神聖ローマ帝国はかつて皇帝の権力が強かった時代には、ローマ教皇と権力争いを起こしていました。選帝侯たちにとっても、自分たちの地位を脅かすような強い王は望んでいませんでした。そのため、今回の王の選定条件としては、絶対君主になるような強大な力を持つ王ではなく、ある程度の秩序を取り戻せるような王でした。

ハプスブルク家のルドルフ1世は、選帝侯たちにとってそのような意味で理想的な王だったのです。かつてのドイツ王であったシュタウフェン朝とも親密な関係を築いていたので、信頼できる人物だと思われていました。また、ルドルフはすでに55歳になっており、長期的に皇帝の座につく懸念もなかったのでしょう。スイスの田舎に拠点を置く、小さな貴族一家だと思われていたのです。

しかし、そんなルドルフが新王に選ばれたことに不満を唱える人がいました。ボヘミア(今のチェコの中西部)の王オタカル2世でした。

オタカルは、オーストリアを領土に持っていたバーベンベルク家の男系子孫が途絶えた後にオーストリア領を継いでいた、20から30歳年上と言われるマルガレーテと結婚をし、その領土を手に入れていました。けれどその後、彼女との間に後継者を授かることが難しいとわかると、当時マルガレーテはすでに修道女となっていたと言うことを理由にその結婚を無効とし、ハンガリー王族の若きクニグンデと再婚しました。そしてハンガリー領であったシュタイヤーマルクも手に入れたのです。

ボヘミアとオーストリア領を手中におさめたオタカルは、自分こそが神聖ローマ皇帝に選ばれると思っていたのです。そして、選帝侯会議に出席しなかった間にハプスブルク家のルドルフが皇帝に選ばれてしまったことに憤慨し、戴冠式にも欠席、その後の召喚にも応じませんでした。

そこで、ルドルフはオタカル2世と対決することになるのです。

ウィーンへ攻め入ったルドルフは、やがてオーストリアのマルヒフェルトでオタカルの軍と戦うことになります。そして、ルドルフの軍が見事勝利を収め、オタカル2世は戦死しました。

オーストリアの領土を手に入れたルドルフは、その後未亡人となったクニグンデと和睦を結び、ルドルフの娘のユッタをオタカルとクニグンデの息子ヴァーツラフに嫁がせます。そして、2人の息子アルブレヒト1世とルドルフ2世にオーストリアの領土を与え、オーストリア・ハプスブルクの誕生となったのです。

ルドルフは神聖ローマ皇帝の世襲化を認めさせることはできず、1291年ルドルフ1世が亡くなると、ハプスブルク家は皇帝に選ばれませんでした。選帝侯たちは、ハプスブルク家が勢力を強めていくことを恐れ、ナッサウ家のアドルフを選出したのです。

それでもしかし、ルドルフ1世の息子アルブレヒト1世は後に神聖ローマ皇帝に就任したのです。何が起こったのでしょうか?

4 アルブレヒト1世

ナッサウ家のアドルフは広大な所領を持たない家柄であったため、選帝侯たちは皇帝が権力を振るわないことを想定してアドルフを選びました。しかし、皇帝に選ばれたアドルフは思惑と違い、王権を確固たるものにすべく動き出し、領土拡大へも積極的になりました。すると、選帝侯たちはアドルフに反発し、ハプスブルクのアルブレヒトに助けを求めたのです。

1298年ハプスブルク家のアルブレヒトとナッサウ家のアドルフの戦いで、アルブレヒトが勝利を収め、アルブレヒト1世は神聖ローマ皇帝となったのです。

アルブレヒトはたくさんの子に恵まれ、フランス、アラゴン、ハンガリー、ポーランドなどと広く婚姻関係を結びました。

また、この頃スイスではスイスは同盟を結び、ハプスブルク家からの独立の気運を高めていきました。

そして、アルブレヒトはスイスで起きている反乱の鎮圧に向かいますが、途中で命を落としてしまうのです。

それは外敵からでも、教皇側からの圧力からでもなく、内部によるものでした。父親であるルドルフ1世は、手に入れたオーストリアの地を2人の息子アルブレヒトとルドルフ2世に与えました。けれど、実質共同統治は異例なことであったため、契約を結びアルブレヒトがオーストリアの統治者、ルドルフは領土や金銭で補償を受けるということになっていました。しかし、アルブレヒトは自分の子供たちへの財産分与を優遇し、ルドルフの息子ヨハンから恨みをかい、暗殺されたのです。

その後、賢公と呼ばれた息子のアルブレヒト2世、そのまた息子のルドルフ4世へと家督は引き継がれていきます。その間、ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝に選出されることはありませんでした。

ここで、ハプスブルク家の歴史上ふれておくべき面白い人物であった、ルドルフ4世について取り上げます。

5 ルドルフ4世

まず、ハプスブルク家が皇帝に選出されなくなった後の神聖ローマ皇帝について少し見てみましょう。

* 神聖ローマ皇帝の動き

相変わらず同じようなもくろみで、小さなルクセンブルク伯のハインリヒ7世が皇帝に選ばれますが、彼もまた領土拡大に勢力を注ぎ、反発を買います。そしてわずか5年でマラリアにより亡くなります(ローマ教皇による暗殺説もあり)。次はヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世が皇帝となります。しかし彼は後に教皇と対立してしまい、破門されます。そして、再びルクセンブルク家のハインリヒ7世の孫、カール4世が皇帝に選ばれます。

カール4世の父親はルクセンブルク家、そして母親はボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹でした。カール4世はプラハで生まれましたが、その後幼少期をパリで過ごし、プラハに戻ってきてカレル王子としてボヘミアの統治に携わります。

1346年神聖ローマ皇帝に選ばれてからもプラハで活動し、自領の統治に力を注ぎ、プラハ大学(カレル大学)も設立しました。

その後、カール4世は1356年神聖ローマ帝国の秩序の再建を掲げて、神聖ローマ帝国の法規に当たる文書である金印勅書を発表しました。31章からなる勅書には、皇帝選出に関して次の2つが定められていました。

*皇帝選出に関しては、教皇の認可を必要としない
*皇帝選出権は、7選帝侯が有する

選帝侯に選ばれのは、マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の3聖職諸侯、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の4世俗諸でした。カール4世は、ライバルとなるハプスブルク家とヴィッテルスバッハ家を選帝侯から外したのです。

さて、そんなことをされて黙っているハプスブルク家ではありませんでした!

* 型破りなルドルフ4世

そもそも、ルドルフ4世は、カール4世にとっての娘婿でした。けれど舅に当たるカール4世に対して、5通の文書に2通の手紙を添えて提出したのです。

「自分はオーストリア公、シュタイヤーマルク公、ケルンテン公、クライン公の他に帝国狩猟長官であり、シュヴァーベン公、アルザス公、そしてプファルツ大公である」

これらは官位を偽証した偽造文書だったのです。中でも”大公”という肩書きは当時存在しない官位でしたが、想像力たくましくルドルフ4世がつくり出し、冠まで用意していたと言われています。

さらに、添えられた2通の手紙は、ローマ皇帝カエサルとネロが、自身の後継者にオーストリアの地を封土すると書いたものだったのです。ハプスブルク家と古代ローマのカエサル皇帝との間に血のつながりがあるように思わせるその2通の手紙は、明らかに偽造とされました。

けれど、カール大帝はルドルフ4世とこのことで武力的に交戦することを避け、このことをうやむやにしました。

ルドルフ4世は、型破りな強権を推し進めた夢想家でした。このような暴挙に出たのはまだ20代前半のこと。ルドルフ4世はその猛進ぶりを突き進めることなく、26歳でこの世を去りました。

ルドルフはこの大公騒ぎだけではなく、オーストリアのチロル地方もハプスブルク家領にすべく、型破りな方法で手に入れています。

その他には、カール大帝がプラハにカレル大学を作ったように、ウィーン大学を建設しました。また、ウィーンの教会を単なる教会ではなく大聖堂へと改築すべく、シュテファン大聖堂の建設も進めました。ルドルフ4世のこれらの建設は後世に残されていき、彼は”建設公”と呼ばれています。

シュテファン大聖堂

ルドルフ4世の偽造文書により大公と名乗ったものの、ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝の地位に再びつくのはまだ75年も先のことになります。

ハプスブルク家の歴史は始まったばかりです。

ハプスブルク家シリーズ

ABOUT ME
もわりー
もわりー
日本→ウィーン15年→現在ロンドン在住です。
書くこと・なにかをつくり出すことが好きです。

記事を読んでいただいた方をステキな旅へと案内できたら、そんな思いで書いていきます。

どうぞよろしくお願いします。
記事URLをコピーしました