知ると面白いハプスブルク家 2)フリードリヒ3世
オーストリアやヨーロッパの歴史に登場するハプスブルク家のストーリーをたどっています。
今回は、15世紀に活躍したフリードリヒ3世(1415 – 1493)です。
フリードリヒ3世は、再び神聖ローマ皇帝として活躍します。およそ130年ぶりとなるハプスブルク家出身の皇帝、さぞかし立派な皇帝であったのかと思いたいところですが、実際は気が弱く決断力に欠ける、得意技は逃げること、などとなんとも悲しい枕詞がついている人物です。
けれど個人的には、ハプスブルク家に登場する人物の中で、フリードリヒ3世は是非知ってもらいたいと思う人物の1人なのです。
では、どんな人物であったのかさっそく見ていきましょう。
1 ハプスブルク家の領土分割統治
前回、1365年に25歳で亡くなった型破りなルドルフ4世についてお話ししました。
ルドルフ4世は亡くなる前、ハプスブルク家の土地は兄弟全員の共有財産であるという規則を正式に残しました。そしてそれに従い、2人の弟アルブレヒト3世とレオポルド3世に領土が引き継がれました。ハプスブルク家の家督は、長男であるアルブレヒト3世が握りました。そして最終的に1379年ノイベルク分割条約により、2人の領土分割は下記のように決まったのです。
アルブレヒト3世:エンス川が流れるエリアの上部と下部のオーストリア
レオポルド3世:シュタイヤーマルク、ケルンテン、チロルとシュヴァーベン
そして、ハプスブルク家は本流であるアルブレヒト系とレオポルド系に分裂することとなりました。
ここでお話しするフリードリヒ3世は、レオポルド系のハプスブルクです。
上記で述べたレオポルド3世亡き後は、兄弟たちで領土を引き継ぎました。そして、フリードリヒ3世の父親エルンストは、長男が亡くなった後、シュタイヤーマルク、ケルンテン、クラインの領土を引き継いでいました。1424年エルンスト死後は、フリードリヒ3世と弟のアルブレヒト6世の共同統治となりました。
そしてその時、このフリードリヒ3世は、神聖ローマ皇帝になっていたのです。
まずはその経緯を振り返りましょう。
2 フリードリヒ3世 神聖ローマ帝国の皇帝に
先に述べたように、ハプスブルク家は本流のアルブレヒト系とこのフリードリヒ3世の系列であるレオポルド系に分かれていました。本流ハプスブルク家には、フリードリヒ3世とほぼ同世代に当たる親戚アルブレヒト5世がいました。
ここで、14世紀後半の神聖ローマ帝国周辺の動きを見ておきましょう。
バルカン半島ではオスマン朝トルコが勢力をつけ、ドイツ軍を中心に十字軍を結成して対抗しますが、敗れてしまいます。その後、1453年には東ローマ帝国がオスマン朝によって滅ぼされてしまいますよね。
また、16世紀に起こった宗教改革の前衛といわれるローマ・カトリック教会の腐敗を説く動きも始まりました。
イギリスではオックスフォード大学の神学者であったウィクリフが、聖職者や教皇の特権を否定し、聖書のもとに平等であると説き、オックスフォード大学から追放されてしまいます。また、ウィクリフの考えに共鳴し、15世紀はじめ、ボヘミアではプラハ大学の教授であるヤン・フスがローマ教皇を批判しました。そして1414年神聖ローマ皇帝ジギスムントの働きかけによりコンスタンツで宗教会議が開かれ、フスが召喚されました。思想の撤回に応じなかったフスはそこで異端宣告を受け、火あぶりの刑に処せられてしまいます。
フスを支持していた農民たちはこのことに反発し、ジギスムントがボヘミアの王位を継承すると不満は爆発し、1417年ボヘミアで農民たちによるフス戦争が起こります。
その後、ジギスムントは1437年に亡くなります。そして、娘婿であったハプスブルク家の本流系であるアルブレヒト5世がアルブレヒト2世として神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれました。アルブレヒトは、フス戦争でジギスムントを支援していたため、その見返りとして後継者に指名されていたのです。
アルブレヒト2世は同時に、ジギスムントが王を兼ねていたボヘミアとハンガリーの王の地位も手に入れました。しかし、皇帝に就任してからわずか1年と数か月のちの1439年、トルコの攻撃から守るためハンガリーで戦っている間、赤痢にかかり亡くなってしまいます。
そして、アルブレヒト2世の従兄弟であるフリードリヒ3世が、選帝侯によって神聖ローマ皇帝に選ばれたのです。
さて、アルブレヒト2世ですが、亡くなった時に妻であるルクセンブルク家のエリザベートは妊娠していました。そして、4ヶ月後に息子のラディスラウスが誕生し、ラディスラウスが、ハプスブルク家の家督を引き継ぐこととなったのです。
3 フリードリヒ3世の領土拡大
神聖ローマ皇帝に就任した当時のフリードリヒ3世が所有する領土は、シュタイヤーマルク、ケルンテン、クラインを弟のアルブレヒト6世と共同統治していただけでした。
アルブレヒト系の本流ハプスブルク領はラディスラウスが、チロルは従兄弟のジークムントが領有していたのです。
しかし、フリードリヒ3世は最終的にはハプスブルク家の家督を掌握し、オーストリア全土とハンガリー、ブルゴーニュまでもハプスブルクの配下に収めていたのです。
それは、決して勇敢に戦って勝ち取った領土ではありませんでした。
では一体どのようにしてフリードリヒ3世が領土拡大を果たしたのでしょうか。
時系列を追いながら見ていきましょう。
1)後見人となるフリードリヒ3世
1440年 24歳で選帝侯より皇帝(ローマ・ドイツ王)に選出されたフリードリヒ3世。
神聖ローマ帝国は、引き続き東のトルコの脅威をかかえていました。そして、ハンガリー、ボヘミアの領土をオスマン朝から守る必要がありました。
さて、本流アルブレヒト系のラディスラウスの動きを見てみます。
母親であるエリザベートはラディスラウスはハンガリーの権力を継承したと主張し、戴冠させます。
その後1442年に母親のエリザベートも亡くなり、フリードリヒ3世が後見人に選ばれました。そして、ラディスラウスが18歳になるまではフリードリヒの元にとどまり、代わってフニャディがハンガリーを統治するという契約が交わされます。
ボヘミアでもラディスラウスが王を継承することが認められず、イジーが摂政としてボヘミアを統治しました。
幼いラディスラウスの後見人となったフリードリヒは、本流ハプスブルグのオーストリアの領土を、我が地のように支配しました。
1442年、王に選出されて2年後にようやく、フリードリヒ3世はアーヘンで戴冠をしました。フリードリヒは主に自領の統治に力を注ぎます。
1451年12月、フリードリヒ3世はようやくローマで戴冠式を行うべくラディスラウスと弟のアルブレヒト6世を連れて、イタリアへ向けて出発しました。そして途中シエナに立ち寄り、ポルトガル王の娘エレオノーレと合流をし、ローマで戴冠式と結婚式をあげます。レオノーレとの間には、1459年マクシミリアン1世が誕生します。
2)ラディスラウスのその後とアルブレヒト6世との相続争い
フリードリヒがイタリアへ赴き不在の間、ラディスラウスを自由の身にするようにという動きが大きくなり、本流ハプスブルクのアルブレヒト派らが支持を集めます。そして、フリードリヒ3世はラディスラウスを解放することとなりました。1453年13歳のラディスラウスはボヘミア王も戴冠し、以後ウィーンやプラハで生活することになります。
その後数年間、フリードリヒは後見人としての権利争いから離れ、シュタイヤーマルク、ケルンテン、クラインの統治に集中し、自身はウィーナー・ノイシュタットで過ごしました。
そして、1457年予期せぬことが起こります。
ラディスラウスがプラハで突然亡くなったのです。フランス王の娘との結婚準備が勧められている時でした。死因はのちに白血病と診断されています。
これにより、1379年に定められた分割統治のアルブレヒト系の後継が途絶えてしまい、フリードリヒ3世率いるレオポルト系一つにまとめられることになったのです。
本流アルブレヒト系の領土は、フリードリヒ3世と弟アルブレヒト6世に与えられました。
また、ハンガリーではマーチャーシュ1世が新王に選出され、ボヘミアではイジーが王位につきました。
さて、こうしてオーストリアの分割が終わると、今度は共同統治者である弟のアルブレヒト6世がフリードリヒと敵対することになりました。
1463年野心を燃やしたアルブレヒト6世は、兄の不在時にウィーンで暴動を起こさせ、妃であるエレオノーレと4歳の甥マクシミリアンをウィーンの王宮に幽閉してしまいます。移動を好まないフリードリヒもさすがにあわててウィーンに駆けつけますが、アルブレヒト6世により入城を拒まれます。
しかし、ここでもまた予期せぬことが起こりました。
アルブレヒト6世が亡くなったのです。暗殺説もありますが、明確な死因はわかっていません。
フリードリヒはウィーン市民と和解し、妃と息子も取り戻しました。
それにより、ハプスブルク家の統治者はフリードリヒ3世とチロル領を引き継いでいる従兄弟のジーグムントだけになったのです。
その後、1467年妃のエレオノーレは31歳で亡くなりました。
明るいポルトガルの地から嫁いできた若き王妃は、フリードリヒ3世との地味な暮らしに失望していたと言われています。
3)ブルゴーニュ公国との縁談
今のフランスのブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方、そしてオランダ、ベルギー、ルクセンブルクがあるあたりは、当時ブルゴーニュ公国と呼ばれていました。
ブルゴーニュ公シャルルは、唯一の子女である娘のマリーの縁談相手を探していました。そして、フリードリヒ3世はマキシミリアンとマリーとの縁談話を持ちかけます。野心家であるシャルルは、マキシミリアンと縁組みをすることでローマ王の座も奪おうと狙っていましたが、そのことにフリードリヒ3世はためらいを示します。
しかし、その後2人の婚約は成立し、シャルル公が亡くなった後、マキシミリアンはブルゴーニュ公国へ赴き、2人はそこで結婚をします。
マキシミリアンはブルゴーニュ公国で暮らすことになりました。
4)ハンガリーとの戦い
さて、ラディスラウスの死により1458年よりハンガリーの王についていたマーチャーシュ1世の動きを見てみます。
ハンガリーは東のオスマン帝国の勢力と対立する一方で、オーストリア、ボヘミアへも進出していきました。
ボヘミアの王についていたイジーは、宗教会議で異端とされたフスを支持しており、ローマ教皇から敵対視されていました。そして、ローマ教皇パウルス2世により破門され、ボヘミア王は廃位されてしまったのです。
そして、マーチャーシューは1469年にはシレジア、モラヴィアなどを領有しボヘミアの王位まで手にします。
イジーは1471年に亡くなります。そして、ポーランド王の息子ウラジスラフが次の王に選ばれます。
フリードリヒはウラジスラフと同盟を結び、ボヘミア王国を併合します。しかし、同じようにボヘミアを主張していたマーチャーシュと対立することになり、マーチャーシュはハンガリー、ボヘミア、オーストリアの統一を目指してハプスブルク家を脅かします。
1478年マーチャーシュとウラジスラフはオロモウツで和平を結び、ハンガリーとボヘミアの戦争は終結します。
それから、マーチャーシュはオーストリアへと進出し、1485年ウィーンを占領します。そして、フリードリヒの居室であったウィーナー・ノイシュタットへも攻め込み、住処を失ったフリードリヒは、リンツへと宮廷をうつします。
その頃、ブルゴーニュ公国の子女マリーと結婚した後、ブルゴーニュで幸せに過ごしていた息子のマキシミリアン1世は、愛するマリーを亡くしたのちにネーデルラントで捕虜として捉えられていました。フリードリヒ3世へも助けを求め、ウィーンの中心部から逃れていたフリードリヒ3世は、マキシミリアンの解放にも動くこととなったのです。
さらに、ウィーンをハンガリーに奪われたフリードリヒは、息子マキシミリアンのために皇帝の地位を確保しようと働きかけ、1486年フランクフルトの選帝侯会議では6人の選帝侯一致でマキシミリアンが皇帝に選ばれました。フリードリヒは息子に同行してアーヘンへ向かい、戴冠式も行いました。しかし、選帝侯たちにまだ政治経験の浅い息子が利用されることを恐れたフリードリヒは、実際マキシミリアンに政権は譲りませんでした。
そして、ここでもまた予期せぬことが起こりました。
1490年マーチャーシュ1世がウィーンで脳卒中により亡くなったのです。
マーチャーシュには正当な後継者がいなかったため、フリードリヒはハンガリーによって占領されていたオーストリアの地を取り戻すことができました。しかし、ハンガリーの継承については認められず、ボヘミア王のウラジスラフがハンガリーの王となりました。
その後、フリードリヒはウラジスラフと和平交渉を結び、ハプスブルク家はハンガリー東部の領土を確保することができました。さらに後には、ハンガリーはマキシミリアンに引き継がれることとなるのです。
ブダペストのブダの丘にマーチャーシュ教会があります。13世紀半ばにベーラ4世によって建てられた教会ですが、このマーチャーシュ1世の時に増改築が行われました。マーチャーシュ1世自身この教会で2回結婚式を挙げたことで知られており、マーチャーシュの名前をとって、今日もマーチャーシュ教会(聖堂)と呼ばれているのです。
5)チロル領の掌握
レオポルド系ハプスブルク家としてチロルを領有していたのは、フリードリヒ3世の従兄弟であるジークムントでした。
彼はスコットランド王ジェームズ1世の娘と結婚後に死別、その後ザクセン公アルブレヒト3世の娘と結婚しましたが、2回の結婚で子供はいませんでした。
ジークムントはイタリアとの貿易で富を築き、チロルの町シュヴァーツで新しいコインの製造にも成功しました。しかし、彼の治世の後期にはチロルの領民から反発を受けることになり、1490年にチロルの支配権をフリードリヒ3世の息子、マクシミリアン1世に譲りました。
その後、ジークムントは1496年に亡くなります。
こうして、レオポルト系の支流も途絶え、マクシミリアンに全オーストリアの支配権が握られることとなったのです。
フリードリヒ3世は、1493年77歳でリンツで亡くなりました。
晩年健康状態が悪化していたフリードリヒは、動脈硬化により左足が悪化し、切断手術を行いました。これは中世において文書化された最も有名な外科手術の一つとなっています。この手術が死の直接の原因とは言われておりません。食べたメロンがあたって亡くなったのではという説もあります。
葬儀はウィーンのシュテファン大聖堂で行われました。
4 謎の暗号 A E I O U
フリードリヒ3世は、建物や食器など、さまざまなところに謎の暗号のような文字を残しています。
A. E. I. O. U. (ア・エ・イ・オ・ウ)
これは、ドイツ語とラテン語で、下記の意味だとされています。
Austriae est imperare orbi universo
Alles Erdreich ist Österreich untertan
「全世界はオーストリアに服従する」
この文字は、フリードリヒ3世がまだオーストリアを統治する前にシュタイヤーマルクにいた頃から書かれているので、”オーストリア”という言葉はハプスブルク家を意味しているのではないかと言われています。
この文字の解読は今でも続けられており、2023年3月、ドイツの歴史家は新たにこの文字を下記のように解き明かしたという発表もあります。
amor electis iniustis ordinor ultor
Geliebt von den Erwählten, gefürchtet von den Ungerechten
選ばれた者に愛され、不正な者に恐れられる」
ハプスブルク家として名前を聞く有名な人物の中に、フリードリヒ3世はあまり登場しないと思われます。しかも、さまざまな資料や文献で、よくない肩書きを持つ人物として紹介されています。
実際、勇ましく戦い抜いた人物ではなく、危機に瀕した時になぜか敵方が死を迎えることで乗り越え、50年以上も王位につき、長生きをした人物でした。
でも、それも立派なことなのではないでしょうか。長生きをすることは、大切なことです。
若き頃から、A.E.I.O.Uなどという文字を刻むことで、ハプスブルク家の、オーストリアの発展を望んでいたことは確かなのでしょう。
私は以前シュタイヤーマルク州のグラーツへ行った際、ブルク(王宮)を訪れました。グラーツにブルクがあったことに驚き、誰が住んでいたのだろうかと素朴な疑問が起こりました。そして、ハプスブルク家のフリードリヒ3世の居城であったことを知りました。さらに、A.E.I.O.Uの暗号まで残されており、フリードリヒって誰? ハプスブルク家の王宮がなぜグラーツにあるのか、など色々なことが気になり、調べてみることにしたのです。
フランツヨーゼフやマリアテレジアではなく、まだ知らないハプスブルク家の人たちに興味を持ち、ハプスブルク家について勉強したくなったきっかけとなった人物がフリードリヒ3世だったのです。
フリードリヒ3世が築いた王宮があるグラーツ観光についての記事も、是非のぞいてみてください。
旅がもっと面白くなる! グラーツってどんなところ?! オーストリア編3
ハプスブルク家は、この後もっと大きく長く発展していくのです。