知ると面白いハプスブルク家 11) ヨーゼフ2世とレオポルド2世兄弟 マリアテレジアの息子たち

もわりー

ヨーロッパの歴史に登場するハプスブルク家のストーリーをたどっています。

前回は、名前を聞き知っている人も多いと思われるマリア・テレジアの話をご紹介しました。

フランツ1世と恋愛結婚を果たしたマリア・テレジア。
宿敵プロイセンのフリードリヒ2世との戦いや、娘たちとの関係を見てきました。

今回は神聖ローマ皇帝を継いだ息子たち、ヨーゼフ2世と弟レオポルド2世のお話です。

1 ヨーゼフ2世(1741ー1790年)

ヨーゼフ2世は、カール6世の死後、周辺の列強諸国からマリア・テレジアのオーストリア継承とフランツの神聖ローマ帝国皇帝位を認められずに奮闘している時に誕生しました。
待望の世継ぎ男子の誕生に、国中が歓喜に包まれました。

ここでは、若きヨーゼフ2世の結婚生活と、神聖ローマ皇帝になったヨーゼフが取り組んだ改革に焦点を当てて見ていきます。

1)ヨーゼフ2世 2度の結婚

* パルマ公女 マリア・イザベラ(1741−1763年)

ヨーゼフ2世とパルマ公女マリア・イザベラとの結婚式は、1760年七年戦争の最中にウィーンのアウグスティーナ教会で行われました。2人とも、18歳でした。

ヨーゼフ2世は美しく控えめなイザベラに一目惚れをし、家族もイザベラに好感を抱き、幸せな家族が誕生したように見えました。

しかし、イザベラの方は元来引っ込み思案でうつ病の傾向があったとも言われており、ヨーゼフとの結婚生活にも華やかな宮廷生活にも馴染めずにいたのです。

そのことは、ヨーゼフの妹であるマリア・クリスティーネへの手紙に書き綴っていました。

1762年には女の子が誕生し、マリア・テレジアと名付けられました。彼女は、ヨーゼフ2世の両親、マリア・テレジアとフランツ1世にとっての初孫でした。

男の子ではなく女の子の誕生でしたが、まだこれから男子が生まれるチャンスは来るからと、大変喜ばれていたのです。

しかし、イザベラ自身は明るい希望を抱くことはできなかったようです。

その後1763年に再び出産しますが、イザベラは天然痘に罹患してしまいます。誕生した子は数時間後に息を引き取り、イザベラもまもなく21歳という若さでこの世を去りました

ヨーゼフ2世は深い悲しみにくれました。

そして、マリア・テレジアはヨーゼフ2世に2度目の結婚を勧めました。

* マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン (1739ー1767年)


イザベラを失ってから1年と数ヶ月後、1765年ヨーゼフ2世はバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの娘マリア・ヨーゼファとシェーンブルン宮殿で結婚式をあげました。

ヨーゼフ2世に憧れ、喜んで嫁いできたヨーゼファでしたが、ヨーゼフ2世はマリア・ヨーゼファを歓迎することはできず、終始冷たい態度をとっていました。

そんな時、父親のフランツ1世が急逝してしまい、ヨーゼフは神聖ローマ皇帝として即位しました。

しかし、その後もシェーンブルン宮殿内の共用バルコニーを、部屋同士を行き来できないよう塞がれるなどの冷遇を受け、宮廷の人たちとも馴染めずにいました。

そして、1767年マリア・ヨーゼファもまた天然痘に罹患し、27歳で短い人生を閉じました。

ヨーゼフ2世は病床に見舞うことも、葬儀に参加することもしませんでした。
ヨーゼフ2世自身は、2番目の妻を愛せないことに苦しんでいたという話もあります。

彼はそれ以後、結婚はせず独身を貫きました。

最愛のマリア・イザベラとの間に生まれたマリア・テレジアも、1770年に重い病にかかり、7歳で早逝しました。ヨーゼフ2世は立ち直れないほどの悲しみにくれたのです。

2)ヨーゼフ2世の急いだ改革

1765年父のフランツ1世が、インスブルックで急死を遂げると、すでにローマ王に選出されていたヨーゼフが即位しました。そして24歳のヨーゼフ2世は母マリア・テレジアと共同統治をすることになりました。

しかし、ヨーゼフ2世とマリア・テレジアはしばしば意見が対立するようになります。

ヨーゼフ2世はマリア・テレジアが憎んでいたプロイセンのフリードリヒ2世の啓蒙思想の考え方に傾倒していったのです。

1772年にはフリードリヒ2世とロシアのエカチェリーナ2世と共にポーランド分割に参加し、オーストリアはガリチアを併合しました。
ポーランドの分割はその後も繰り返し行われることとなるのです。

マリア・テレジアはこのことには反対しており、西欧諸国からも反感を買いました。

マリア・テレジアは伝統を維持しながらの改革に着手していましたが、ヨーゼフ2世は絶対主義的な改革を目指していたのです。

フランス革命が起こったのちに、1780年マリア・テレジアが63際で崩御し共同統治が終了すると、ヨーゼフ2世は性急にに改革を進めていきました。

教会・宗教改革に乗り出し、集権的近代化を阻止していたイエズス会を廃止、農業改革を行い農奴世を廃止検閲を廃止して本や芸術を解放、過度な式典を廃止し葬儀も簡素化するなどあらゆる変革を起こしました。

また、数世紀に渡り宮廷や貴族だけの狩猟・娯楽の場所であったプラター公園を民衆に公開し、続いてアウガルテン(その後アウガルテン陶器工房やウィーン少年合唱団の宿舎ができた場所)の緑地やシェーンブルンの公園も民衆へ明け渡しました。

ヨーゼフ2世は民族の異なるハンガリーにも介入して中央集権化をはかり、大きな反感を買いました。

ヨーゼフ2世は、歴代皇帝と比較しても頻繁に旅行に出かけたと言われています。
それは、母親との共同統治という窮屈さから逃れたかったためとも言われています。
身分を隠し様々な地を訪れ、そこで見聞きした状況をすぐに改善すべく改革に着手していったのです。

しかし、ヨーゼフ2世が行った劇的な改革は理想に走りすぎているところがあり、貴族・僧侶からだけではなく農民、市民からも反発を受け、ヨーゼフ2世の死後元に戻された法もありました。

1790年病におかされたヨーゼフ2世は、48歳で崩御しました。

2度の結婚で後継を残せず、皇帝位は弟のレオポルドに継ぎました。

ウィーンの王宮の敷地に面したところに、ヨーゼフ広場と呼ばれる場所があります。
ここには、ヨーゼフ2世の騎馬像が立っています。改革家として活躍したヨーゼフの名は、あらゆるところに残されているのですね。

vienna royal palace joseph ii statue / photoAC
ウィーン王宮 ヨーゼフ広場 ヨーゼフ2世騎馬像

2 レオポルド2世 (1747−1792年)

ヨーゼフ2世の6つ下の弟レオポルドは、父親フランツが有していたトスカーナ大公を継ぎました。

トスカーナ公国は、もともと神聖ローマ帝国の領域ではなかったため、皇帝とは別の君主を立てることになっていたのです。

レオポルド2世は25年間トスカーナ大公として在位し、トスカーナの発展に貢献しました。

1)レオポルド2世の妻 マリア・ルトヴィカ(1745ー1792年)

レオポルドの結婚相手は、ナポリ・シチリア王国の王カルロス3世が父であるマリア・ルトヴィカでした。この結婚もまたマリア・テレジアによりスペイン・ブルボン家との繋がりを持つために画策されたものでした。

1764年レオポルド2世とマリア・ルトヴィカはインスブルックで結婚式を挙げました。

その結婚式に出席していたレオポルドの父フランツ1世が、式の後でインスブルックにて急死するという悲劇に見舞われました。

そして、父に代わってレオポルドがトスカーナ大公位を継ぎました。

フィレンツェに移住後、2人は仲睦まじく過ごし、マリア・ルトヴィカもレオポルド2世を助けながら、トスカーナで幸せな時間を過ごしました。

レオポルト2世は兄のヨーゼフ2世と同じく啓蒙主義を実現させ、改革を行っていきました。ヨーゼフ2世より慎重に行動し、トスカーナ公国を繁栄させました。

現代のフィレンツェ

1790年兄のヨーゼフ2世が亡くなると、皇帝位を継ぎウィーンへ移住します。

トスカーナ大公は、次男のフェルディナント3世が継ぎました。

トスカーナ公国は、その後イタリア独立戦争が起こり、1860年フェルディナンド4世がトスカーナ大公を退位するまで、トスカーナ・ハプスブルク家が続いていきます。

レオポルト2世にはリヴィア・ライモンディという浮気相手の女性がおり、子供までいたのです。しかし、マリア・ルトヴィカもその女性を容認しているところがあり、家族でウィーンに移る際に、リヴィアと子供も一緒にウィーンに連れて移住したそうです。

2)神聖ローマ皇帝 レオポルド2世

1790年兄ヨーゼフ2世の跡を継いで神聖ローマ皇帝に即位しました。
すると、農奴制の撤廃など混乱を招いたヨーゼフ2世の改革を撤回しました。

またこの頃、オーストリア外交はあらゆる脅威にさらされていました。

ヨーゼフ2世の頃から続いていたオスマン帝国との戦いは、シストヴァ条約を締結して終結させ、オランダで起こっていた蜂起はベルギーの独立を扇動するブラバント革命が起きたことにより、軍を送って鎮圧しました。

また混乱が起きていたハンガリーでもヨーゼフ2世が行った改革を撤廃することになりました。

そんな状態で、フランス革命下で妹マリー・アントワネットの様子を危惧しながらも、ルイ16世からの資金援助や軍隊援助の要請に対応することができずにいました。

1791年ヴァレンヌで逃亡を試みたフランス王家でしたが、失敗に終わり、チュイルリー宮殿に幽閉されてしまいました。すると、レオポルド2世はようやく妹一家を救助すべく動きました。

各国に向けてフランス国王一家の自由を訴え、1791年8月プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共に、ピルニッツ宣言を出しました。フランス王政の復興と秩序の回復のためにヨーロッパ各国君主に協力を要請し、必要に応じて共同措置を取るよう表明したのです。

しかし、当時のヨーロッパはポーランド分割を巡り利害が対立しており、各国の事情は以前とは大きく変わっており、一致団結してフランスに軍事行動を起こせる状態ではありませんでした。結局この宣言によりフランス人の戦争意欲を掻き立てることになり、結果としてフランス革命戦争を起こす引き金となってしまったのです。

そんな不穏な流れの中、1792年3月レオポルド2世は突然亡くなりました。

あまりにも突然な死であったため毒殺も疑われましたが、彼の死は自然死と診断されました。
神聖ローマ皇帝としての在位期間は、わずか2年ほどでした。

その後は、息子のフランツ2世が継ぐことになりました。

1793年10月、マリー・アントワネットは命を落とすこととなるのです。

ハプスブルク家シリーズ

ABOUT ME
もわりー
もわりー
日本→ウィーン15年→現在ロンドン在住です。
書くこと・なにかをつくり出すことが好きです。

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