ウィーン ニューイヤーコンサート2024  ”アントン・ブルックナーゆかりの地を訪れる旅” を振り返ろう!

もわりー

毎年1月1日にウィーンで行われるウィーン・フィルによるニューイヤーコンサートをご存知ですか? 私は毎年テレビでこのコンサートを見ながら新年を迎えています。

2024年は日本では能登半島地震の報道でNHKのライブ放送が行われなかったとのこと、被災された方々に心からお悔やみを申し上げます。1月6日に録画放送にてご覧になった方もいらっしゃることと思います。

ウィーンの楽友協会で午前11:15から始まるコンサート、私は今ロンドンに住んでいるので、10:15からBBCで放映が始まります。世界中さまざまな時間帯の約100カ国へ同時中継されていることを思うと、改めて伝統的な偉大なコンサートだなと思います。

2024年はオーストリアの音楽家アントン・ブルックナーの生誕200年を記念する年で、演奏される曲にも初めてブルックナーの曲が1曲加えられました。

約25分間の幕間にテレビで流れる、毎年違ったテーマに沿った素敵なオーストリアの映像もこのコンサートの楽しみの一つですが、今年は “Anton Bruckner – Eine Entdeckungsreise” 「アントン・ブルックナー ゆかりの地をめぐる旅」と題した映像が流れました。

へえ〜、アントン・ブルックナーね〜。
あれ? ブルックナーってどういう人なんだっけ? 

そう思われた方も多いのではないでしょうか? 実際私もブルックナーのことは断片的なことしか知りませんでした。

美しいオーストリアの町、修道院、大聖堂、ドナウ川沿いの景色がブルックナーの音楽と共に映し出されたその25分間の物語は、ブルックナーの軌跡をまとめた素晴らしいものでした。そこで、ブルックナーのことをあまり知らない方々にも是非楽しんでもらいたく、この映像を振り返りながらブルックナーについて見ていこうと思います。

OÖ Landes-Kultur GmbH, Sammlung Bibliothek, Inv. Nr. PF III 3_4_Anton Bruckner
https://www.anton-bruckner-2024.at より

1 ブルックナーと聖フロリアン修道院

”ブルックナーのゆかりの地を訪ねる旅”に出発するのは、聖フロリアン修道院の少年合唱団に属する2人の少年です。修道院の屋根裏のような場所で、古いリュックサックや地図を見つけ、旅が始まるのです。

この少年はもしかしたら幼いブルックナー少年なのかな? とも思いました。なぜなら、ブルックナー自身も12歳からこの聖フロリアン修道院の少年合唱団に入隊し、附属学校で勉強していたのですから。

ブルックナーは、1824年聖フロリアン修道院から8キロほど離れた町、アンスフェルデンAnsfeldenで長男として誕生しました。父親は教師をしながら、教会のオルガンやバイオリンを弾き、母親は父親が指導する聖歌隊の一員でした。ブルックナーも幼い頃からオルガンやバイオリンに親しんでいたのです。

映像の中にも、アンスフェルデンの街が出てきました。ブルックナーの生家は、今はミュージアムとなっています。そこでは、ブルックナーの代表曲 ”Symphonie Nr.8 in C-Moll WAB108 Finale  交響曲第8番ハ短調フィナーレ”の演奏が始まり、映像はそのままリンツへと続きます。

ブルックナーが12歳の時、父親が肺炎で急死してしまいます。まだ幼い子供たちを抱えた母親は、長男のブルックナーを聖フロリアン修道院の聖歌隊へ入隊させることにしました。ブルックナーは教師・聖歌隊長のボーグナー家に寄宿することになったのです。

ちょうどこの物語の冒頭に登場する子供たちのような少年だったのですね。

聖フロリアン修道院 写真ACより

その後成長して声変わりをした後も、ブルックナーはオルガンの助手として修道院にとどまりました。音楽を楽しんでいたブルックナー少年でしたが、16歳になり父親と同じ教師を目指し教員養成課程の勉強を始めます。そして、無事に教員の資格を手にしたブルックナーは、ヴィンドハーグWindhaagの学校に赴任します。

ザンクト・フロリアンから60キロほど北上したチェコとの国境に近い場所にあるそのヴィンドハーグの街も、このストーリーに登場しました。2人の少年が授業を受けており、そこから抜け出すシーンです。その学校が、ブルックナーが赴任した学校なのです。外壁には、ブルックナーの記念銘板もかけられています。

ブルックナーはその後、聖フロリアンに近い街クローンシュトルフKronstorfの学校へ移った後に、正教師になる試験に合格して1845年21歳の時に聖フロリアン修道院の母校に転任しました。再び聖フロリアンでの生活が始まったのです。

ブルックナーは教師をしながらも常に音楽にも触れており、聖フロリアン修道院ではオルガニストにも就任し、作曲もするようになりました。

この映像で最初に流れたオルガン曲”Nachspiel in d-Moll, WAB 126 後奏曲ニ短調”は、ブルックナーが聖フロリアンの学校に転任してきた翌年に作られた曲です。

聖フロリアンで10年働いた頃、リンツ大聖堂ではオルガニストが亡くなり、後任を探していました。ブルックナー自身は立候補をためらっていたのですが、周りから後押しされる形で受験し、見事合格しました。そして1856年ようやくリンツ大聖堂のオルガニストとして、音楽の道を歩むことになりました。

少年時代と20代を過ごした聖フロリアン修道院は、ブルックナーにとって非常に大切な場所となったのです。

2 ブルックナー リンツで音楽家の道へ

ブルックナーがオルガニストとして赴任したリンツのイグナティウス教会は旧大聖堂と呼ばれています。ドナウ川沿いの町リンツの中心地にあります。ブルックナーにとっては初めての都会暮らしでした。そこで男声合唱団にも所属し、指揮者としても活躍しました。団員たちとはビールを交えて夕食をともにしながら親睦を深めていたようです。

リンツ ハウプト広場
Pixabay Leonhard Niederwimmerより

即興演奏を得意とするオルガン演奏者としても大いに活躍し、オルガン奏者としてウィーンでも名前が取り上げられるほどになりました。

また、当時リンツの州立劇場で主席指揮者として活動していた指揮者の影響で、ブルックナーはワーグナーやリストという新しい音楽に触れることにもなりました。そして、自身の作曲家としての活動も本格化するようになるのです。

彼が作ったミサ曲が高評価を得た一方で、交響曲の作曲にものめり込んでいきました。憧れのワーグナーにも会う機会を得て音楽家としての道を真っ直ぐに進んでいったのです。

そしてその後、1868年に44歳でようやくウィーンへと活動の場を移すこととなります。

ブルックナー物語の映像では、2人の少年がリンツ州立劇場の中に入ると、管楽器の楽団が交響曲第8番を演奏しています。2人は楽団に誘われ、演奏に参加します。

曲に合わせて黄色や緑のパステルカラーの建物が並ぶリンツの美しい街並みや旧庁舎のルネサンス様式の中庭が映し出されます。

リンツの街並み 写真ACより

続いてチェロ6台による  ”Ecce sacerdos magnus in a-Moll, WAB013 モテット 見よこれぞ大司祭” の演奏が始まり、2人はアントン・ブルックナー私立大学やテクノロジーとアートを融合した未来型ミュージアムと言われるアルス・エレクトロニカ・センターなどを訪れるます。

ブルックナーは生涯独身でしたが、何度も若い女性にプロポーズをしています。残念ながら受け入れられたことはなかったようですが。

ブルックナーと言うと、少々風変わりな田舎者と形容されることもあります。実際のブルックナーがどのような人物であったのかはわかりません。けれど、ドナウ川沿いのオーストリアののどかな環境で過ごし、仲間達とビールを飲み交わしながら純粋に好きな女性に告白し、自分の音楽を求めて少しずつ確実に道を切り開いていったブルックナーは、愛すべき音楽家だと思います。このリンツの町の映像と共に、ブルックナーがここを揚々と歩く姿が思い浮かびました。

3 ウィーンで成功したブルックナー

ブルックナーの軌跡を辿る2人の少年は、気球に乗ってドナウ川の上空を通りウィーンへと向かいます。修道院や古城が点在するドナウ川沿いの美しい景色が印象的です。

この気球の旅の間は、リンツのブルックナーハウスで演奏されている”Streichenquintett in F-Dur, WAB112 2.Satz 弦楽五重奏曲へ長調第2楽章”が流れます。この曲は、ブルックナー作の交響曲が売れてきた時に手がけた傑作として知られています。

気球はウィーンのブドウ畑に到着します。高台からウィーンの町が見渡せるこの場所は、私がウィーンに住んでいた頃よく散歩をした大好きな場所の一つです。

ウィーンのブドウ畑

2人は市立公園のブルックナー像の前を通り、ウィーンの楽友協会へ到着します。そこでは、ティーレマン指揮のもとウィーンフィルが“Symphonie Nr.3 in d-Moll, wab103 1.Satz 交響曲第3番第1楽章” を演奏していました。

ウィーン 楽友協会 MUSIKVEREIN

*作曲家としては無名のブルックナー

ブルックナーはウィーン音楽院の教授、そして宮廷礼拝堂のオルガニスト候補者としてウィーンにやってきました。当時のウィーンは、ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ皇帝が君臨するオーストリア=ハンガリー二重帝国の首都として賑わっていました。文化の面でも開花し、ヨハン・シュトラウスが作るワルツが全盛期を迎えていました。ブルックナーはそんなウィーンではまだ無名の作曲家だったのです。

しかし、ブルックナーはオルガニストとして他国へも名声が広がっていきました。

1869年にはフランスのナンシーとパリ、1871年にはロンドンへ赴いています。ナンシーへはヨーロッパ各地のオルガニストの大会、ロンドンへはロイヤルアルバートホールの巨大オルガンの試演のために呼ばれましたが、どちらも他国の奏者はブルックナーだけだったのです。そしていずれも得意の即興演奏などで聴衆を魅了し、大好評でした。

オルガン奏者そしてミサ曲の作曲家として有名になったブルックナーでしたが、交響曲の作曲も進めていました。そしてついに、1873年自身が作曲した『交響曲第3番』を敬愛するワーグナーへ献呈することになったのです。ワーグナーはブルックナーのことを認めており、「ベートーベンに次ぐ唯一の人物」として、アントン・ブルックナーの名をあげていました。

1876年には『交響曲第2番』がついにブルックナー自らの指揮で初めて楽友協会で演奏され、大喝采を浴びました。こうして、ブルックナーは交響曲の作曲家としても名をあげるようになったのです。

このように自分の音楽で道を開いてきたブルックナーですが、ワーグナーを敬愛することで、敵対する人物もつくってしまいました。

ブルックナーと同じ頃ドイツからやってきた音楽家のブラームスと、ウィーンで音楽評論家として活躍していたハンスリックです。この2人はウィーンで反ワーグナー派として知られており、ブルックナーへはいつも辛口の評価で接し、ブルックナーを悩ませる存在となりました。

2024年のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートでは、ブルックナーの『Quradrille WAB121, カドリール』が演奏されました。この曲はブルックナーがまだ聖フロリアンで活動している時に作曲されたピアノ曲でしたが、ヴォルフガング・デルナーによって管弦楽曲にアレンジされていました。

ウィーンフィルでブルックナーといえば交響曲というイメージがありましたが、シュトラウスのワルツ曲を演奏するニューイヤーコンサートで、壮大な響きを奏でる交響曲を挟むことは無理だったのでしょう。ブルックナーの交響曲は、当時から長すぎる、演奏会におさまらないなどと言われ、何度も改訂が行われていたようです。

ニューイヤーコンサートでこの曲が演奏される前、BBCの解説者は言いました。「ブルックナーはウィーンフィルといつもうまくいっていた訳ではなかった、特に交響曲第3番ではdisaster(最悪)だった」と。

『交響曲第2番』で好評を得たブルックナーでしたが、『交響曲第3番』の演奏はウィーンフィルから断られ、ようやく演奏が決まった後で指揮者が急死、急遽ブルックナー自らが指揮を振ることになりました。しかし、練習の時間が足りなかったこともあるのでしょうが、楽団とはうまくいかず、演奏は満足のいく結果にはならなかったようです。

*ブルックナーとフランツ・ヨーゼフ皇帝

その後、ブルックナーの『交響曲第7番』がドイツやアメリカで評判となり、皇帝フランツ・ヨーゼフから騎手十字勲章を授与されました。

ブルックナーストーリーの映像の中に、ザルツカンマーグートのバートイシュルが出てきます。ここは2024年の欧州文化首都に選ばれている町です。EUによって毎年欧州の文化首都が定められ、1年間文化的なイベントが行われるのです。この地はブルックナーが住んだ場所ではないですが、フランツ・ヨーゼフ皇帝にゆかりのある町なのです。バートイシュルにはフランツ・ヨーゼフ皇帝が夏を過ごした離宮カイザービラがあり、皇妃エリザベートと出会った場所もここでした。ブルックナー物語でバートイシュルが紹介される時、2人の少年は軍服を着たおじさんに出会います。このおじさんこそ、フランツ・ヨーゼフ皇帝なのです。

ブルックナーの名作と言われる『交響曲第8番』は、フランツ・ヨーゼフ皇帝に献呈されました。1892年ウィーンフィルの演奏会でこの『第8番』が初演された時は、大成功を収め、宿敵であったブラームスも、「ブルックナーは偉大な天才だ」と言ったそうです。

70代に入ったブルックナーはやがて体調を崩し、自宅のフラットの階段の登り下りをすることがつらくなりました。そして、フランツ・ヨーゼフ皇帝の計らいにより、ベルベデーレ宮殿の管理人用の住居に住むことになりました。

『交響曲第9番』の作曲に取り組んでいましたが、未完のまま1896年10月11日72歳のブルックナーは自宅のベッドで息を引き取りました。

OÖ Landes-Kultur GmbH, Sammlung Bibliothek, Inv. Nr. PF III 18_8_Anton Bruckner
https://www.anton-bruckner-2024.at より

*聖フロリアン修道院に眠るブルックナー

ブルックナーの葬儀は、ウィーン市主催のもとカールス教会で行われました。

その後、棺はウィーンの西駅から列車で聖フローリアンへと運ばれました。聖フローリアンの附属教会にあるオルガン下の地下墓所に安置して欲しいというブルックナーの遺書が遺されていたのです。

ブルックナーゆかりの地を訪ねる旅の終わりでも、2人の少年は聖フロリアン修道院に戻ってきました。そして、制服に着替えて少年合唱団に加わり、“Locus Iste WAB023 ロクス・イステ”を歌います。

教会の床にはめ込まれた大理石の墓標と地下に安置された棺が映し出されました。

ウィーンではさまざまな音楽家が活躍し、有名な音楽家たちがウィーンの中央墓地に眠っています。実際、ベートーベンやシューベルトの棺が中央墓地に移される様子を、ブルックナーはその場で見ていたと言われています。ブルックナーもその偉大な音楽家たちが眠る中央墓地へ埋葬される可能性も十分にあったと思われますが、本人は少年時代から慣れ親しんだ聖フローリアンの地に帰ることを望んだのですね。

ドイツ、オーストリア、スイスで放送されているドイツ語のテレビ局3Satのサイトでは、2024年4月7日までこの”アントン・ブルックナー ゆかりの地を訪れる旅 Eine Entdeckungsreise”を無料で視聴することができるようです。

https://www.3sat.de/kultur/kultur-in-3sat/anton-bruckner-eine-entdeckungsreise-100.html

2024年はブルックナーイヤーとして、リンツのブルックナーハウスや聖フロリアン修道院、バートイシュルなどさまざまな場所でイベントが行われます。2024年ウィーンフィルのニューイヤーコンサートの指揮を振ったティーレマンはブルックナーの指揮者としても有名ですが、ティーレマンとウィーンフィルの演奏も9月にリンツのブルックナーハウスで行われるようです。

https://www.anton-bruckner-2024.at/event/christian-thielemann-wiener-philharmoniker/
Anton Bruckner 2024 – OÖ wird Bühne, Brucknerhaus Linz. Foto: Land OÖ/Verena Baumgartner
https://www.anton-bruckner-2024.at より
ABOUT ME
もわりー
もわりー
日本→ウィーン15年→現在ロンドン在住です。
書くこと・なにかをつくり出すことが好きです。

記事を読んでいただいた方をステキな旅へと案内できたら、そんな思いで書いていきます。

どうぞよろしくお願いします。
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