知ると面白いハプスブルク家 8) レオポルド1世とカルロス2世ースペイン・ハプスブルク家の断絶

もわりー

オーストリアやヨーロッパの歴史に登場するハプスブルク家のストーリーをたどっています。

前回は、宗教改革以来対立していたプロテスタントとの争いが三十年戦争を引き起こし、その後ハプスブルク家はオーストリア、ハンガリー、ボヘミアの領土内の統治に集中するようになりました。

そして、ヨーロッパでは太陽王と呼ばれるフランスブルボン朝のルイ14世が勢いを増していました。

1657年フェルディナント3世が亡くなると、ハプスブルク家はレオポルド1世が引き継ぎます。それから、ハプスブルク家にはまた困難が襲いかかります。

また、スペイン・ハプスブルク家はカルロス2世の時代になり、最大の危機が訪れます。

今回は、レオポルド1世とカルロス2世の物語を追いながら、その後のハプスブルク家を見ていきましょう。

1 レオポルド1世(1640ー1705年)

レオポルド1世には兄のフェルディナント4世がいました。神聖ローマ皇帝も兄が引き継ぐことになっていましたが、天然痘にかかり20歳で命を落としてしまいます。当時14歳であったレオポルド1世は、その時すぐに次期皇帝とは認められませんでした。

そして、3年後1657年に父フェルディナント3世が亡くなります。

その頃から、レオポルド1世の宿敵、同年代であるフランスのルイ14世との戦いが始まっていたのです。自身も皇帝の座を狙っており、レオポルド1世の皇帝就任は選帝侯からもなかなか認められず、1年の空位期間を経て、ようやく1658年レオポルド1世は神聖ローマ皇帝として戴冠しました。

レオポルドは本来帝位を継ぐ予定ではなかったため、政治教育も受けておらず、聖職者になるつもりでした。そんな彼が家督と神聖ロー皇帝を任されると、内気で優柔不断と頼りない様子の言葉があがります。そんな中、彼の治世の間には、大きな2つの敵が現れます。

その2つの戦いに焦点を当てて、見てみましょう。

1)オスマン帝国との戦い

*第2次ウィーン包囲 1683年

レオポルド1世は敬虔なカトリック教徒で、反宗教改革政策をとっていました。特にハンガリーではプロテスタントの力が強く、プロテスタントの有力貴族たちから反発をかうことになります。そんなハンガリーでの不安定な情勢を利用して、オスマン帝国が再びハプスブルク家の領土に侵入してきたのです。

1683年オスマン帝国皇帝メフメト4世に仕えるカラ・ムスタファ率いるオスマン帝国軍は、ウィーンまで進軍してきました。カール5世の時代1529年スレイマン1世率いる第一次ウィーン包囲から約150年ぶりのことでした。

皇帝レオポルド1世は貴族軍人にウィーンの守備を任せると、パッサウまで逃避、そしてキリスト教国に支援を要請します。ウィーンは城壁を強硬にしていたためオスマン軍の侵入を防ぐことができましたが、戦いは長期化します。トルコ軍も粘り強く攻撃を仕掛けウィーン市中へと攻め入ります。その時、支援要請を受けて到着したポーランド国王ヤン3世率いる軍が、バイエルンやザクセンの諸侯らも連れてウィーンに到着し、ウィーン郊外のカーレンベルグの丘から攻め入り、オスマン軍を撃退したのです

カーレンベルクの丘に掲げられている記念碑
commons.wikimedia.org/wiki/File:Sobieskitablica
Pitert / Piotr Tysarczyk

*大トルコ戦争 1683ー1699年

オスマン軍は東へ撤退、カラ・ムスタファはメフメト4世の命により処刑されます。そして、ローマ教皇インノケンティウス11世の呼びかけにより神聖同盟が組まれ、オスマン帝国支配下にある東ヨーロッパを奪還すべく大トルコ戦争が仕掛けられるのです。

優秀な指導者のいないオスマン軍は連敗、オーストリア、ポーランド、ヴェネチア共和国にロシアが加わった神聖同盟は次々と領土を奪います。そして、ハプスブルク家は第一次ウィーン包囲以来オスマン帝国の占領下に置かれていた中心地ブダをはじめハンガリーの地を奪還します。

そして、1697年の現在のセルビアに位置するゼンタでの戦いで、神聖同盟軍が決定的に勝利し、1699年カルロヴィッツの和約が結ばれます。これにより、オスマン軍は完全に敗退したのです。

この条約により、ハンガリー中央部、トランシルヴァニアなどはオーストリアの領土になりました。レオポルド1世は政治的手腕がないと言われていましたが、こうして領土拡大に成功し、国民からの評判も上がったのです。

*サヴォイア家オイゲン公(プリンツ・オイゲン)

ここでこのオスマン帝国との戦いで活躍した人物を1人紹介します。

オイゲン・フォン・サヴォイエンハプスブルク家に仕えた軍人です。プリンツ・オイゲンという名前で親しまれていますが、イタリアとフランスの間にあるサヴォイア地域を支配していた貴族サヴォイア家の血筋のフランス生まれの公子です。

1683年パッサウにいるレオポルド1世にハプスブルク家の士官になることを申し出たオイゲン公は、オスマン帝国による第2次ウィーン包囲戦から参戦します。その後の大トルコ戦争でも従軍し、1697年のゼンタの戦いの勝利では将軍としての名声を手に入れました。その後もスペイン継承戦争、ポーランド継承戦争でもハプスブルク家の軍人として活躍します。

そんなオイゲン公の騎馬像が、ウィーンの王宮、英雄広場に立っています。

新王宮前のプリンツ・オイゲン騎馬像

また、1714年にはウィーンにバロック様式のベルヴェデーレ宮殿を建設します。10年ほどの年月をかけて完成した宮殿は、のちにハプスブルク家の所有となりました。

上宮と下宮に分かれており、どちらも現在は美術館となっています。特に上宮の「オーストリアギャラリー」に展示されているクリムトの絵画は有名です。

ベルヴェデーレ宮殿

2)フランス ルイ14世との戦い

レオポルド1世にはもうひとり大きな敵がいました。
フランスブルボン朝のルイ14世です。

*プファルツ継承戦争(大同盟戦争)1688ー1697年

1685年ハイデルベルクを含むライン川一帯を領有していたプファルツ選帝侯のカール2世が亡くなると、フランスのルイ14世はプファルツ選帝侯領の継承権を主張します。

これに対して、レオポルド1世、ドイツ諸侯のほか、オランダ、スペイン、スウェーデンなど強大化するフランスを恐れた諸国が大同盟を結成しました。

レオポルド1世は東からはオスマン帝国、西からはフランスという挟み撃ちで攻撃を受けることとなったのです。

1688年フランスが攻撃を開始しますが、数ヶ月後イギリスで名誉革命が起こります。イギリス国王であったジェームズ2世はフランスへ亡命し、オランダのウィレム3世がウィリアム3世としてイギリス国王となります。そして、ウィリアム3世のイギリスもフランスに対する大同盟に参加、フランスはジェームズ2世をフランス軍へと取り込みます。

戦いは長期化し、1697年レイスウェイクの和約が結ばれ9年にわたる戦いは終結します。これにより、結局フランスはプファルツ選帝侯の継承権を放棄、、ウィリアム3世をイングランド国王として認めることになりました。

フランスは神聖ローマ皇帝領のストラスブルクを獲得したものの、結果的に敗北する形になりました。しかし、ここで引き下がるようなルイ14世ではありません。

*スペイン継承戦争 1701ー1714年

スペインハプスブルク家のカルロス2世は病弱で、結婚はしましたが後継者を残せる可能性は少ないとみられていました。そこでスペインの継承を、血縁関係のあるフランスとオーストリア・ハプスブルク家が主張していました。

フランスはプファルツ戦争の敗北から勢いを取り戻したいと思っており、また以前のカール5世のように、オーストリア・ハプスブルク家がスペインと神聖ローマ帝国領を領有することを阻止しなければいけないという思惑がありました。

1700年カルロス2世は、孫であるフランスのフィリップ・オブ・アンジューを後継者とする遺言書を残し、亡くなります。そして、ブルボン家のフィリップはマドリッドへ入り、フェリペ5世として即位します。

しかし、フランスの継承権も放棄していなかったフィリップがスペインを引き継ぐと、フランスはスペインとフランスの領土の両方を領有する強国となってしまいます。

さらに、イギリスはこの時アメリカ新大陸でフランスと対立していました。

そうして、ヨーロッパ列強がそれぞれの思惑をかかえて参加する形で、フランスとスペイン対オーストリア・イギリス・オランダというスペイン継承戦争が起きたのです。

レオポルト1世は、次男のカールをスペイン王に擁立し、スペインへ送っていました。

そして、レオポルト1世は戦争の途中、1705年に亡くなってしまいます

この戦争についてはまた改めて記したいと思っておりますが、結果はフランスの勝利、スペインはフェリペ5世が引き継ぎ、ブルボン朝・スペインが始まったのです。しかし、スペインとフランスが合同されることはありませんでした。

3)芸術家のレオポルド1世

レオポルド1世の治世中は戦いが多く殺伐としていたように思えますが、レオポルド1世は芸術を支援していたことで知られています。特に音楽愛好家であった彼は、自ら作曲した曲が今日でも残されており、オーケストラの指揮もしていました。

言語力も優れており、書籍やコインの収集もしていました。

また、文化的活動も積極的に行っています。

1679年に蔓延したペストの終息を記念して、ウィーンのグラーベンに聖三位一体と9人の天使の彫刻が刻まれた記念柱を建てました。

ウィーン グラーベン
三位一体ペスト記念柱

王宮内にも新たにレオポルト宮を建設し、18世紀王はここに住むこととなりました。そしてここは、1946年から連邦大統領府となっています。また、ハプスブルク家の夏の離宮として知られるシェーンブルン宮殿の建設を始めたのもレオポルド1世でした。

結婚は3回しており、1676年に結婚した3人目の皇后プファルツ選帝侯の娘、エレオノーレとの間にのちに皇帝になる息子たちヨーゼフとカールが誕生しています。

2 カルロス2世 1661ー1700年

後継者を残したいフェリペ4世が、3人目の結婚相手オーストリア・ハプスブルク家のマリアナと結婚してできた息子がカルロス2世でした。

これまでスペイン・ハプスブルク家のストーリーを見てきましたが、オーストリア・ハプスブルク家やポルトガルなどと近親婚を重ね、カルロスも叔父と姪の結婚で生まれた息子でした。この度重なる近親婚のためと言われていますが、カルロスは生まれた時から身体的にも精神的にも障害を持っていました

1665年父親フェリペ4世が亡くなると、4歳のカルロスがスペイン・ハプスブルクを引き継ぎ、母親のマリアナが摂政として統治権を握っていました。

その後、フェリペ4世の庶子である異母兄のフアン・ホセとの権力闘争に巻き込まれ、母親マリアナは遠ざけられましたが、フアン・ホセの死後、再びマリアナが摂政として戻ってきました。

カルロス2世は、16歳の時にフランスのルイ14世の弟オルレアン公フィリップとイングランドのヘンリエッタ・アンとの長女であるマリー・ルイーズ・オルレアンと結婚しました。

2人の間に子供は授かりませんでしたが、マリー・ルイーズとの結婚生活はカルロスにとって幸せな時間であったようです。マリー・ルイーズはその後食中毒にかかり亡くなります。

それから、後継者をつくる必要に迫られていたカルロスは、オーストリア・ハプスブルクの支持者であるプファルツ選帝侯フィリップの娘マリア・アナと再婚します。マリア・アナは政治にも積極的に参加しました。1696年義母のマリアナが亡くなると政治の表舞台に登場しますが、スペイン貴族からは外国人として拒絶され、宮廷内の雰囲気は悪くなっていきます。そしてカルロスの精神状態はさらに悪化していきます。

スペイン・ハプスブルク家の断絶

そんな状態で、カルロスの生前からスペイン・ハプスブルクの後継者の話が持ち上がります。カルロス自身は、何が起こっているのか理解できる状態ではなかったと言います。

そして、後継者としてバイエルン公ヨーゼフ・フェルディナントに譲るという妥協案が出されたのですが、翌年バイエルン公が亡くなってしまうのです。

それから、同じく血縁関係にあるフランスのルイ14世の孫アンジュー公フィリップと、オーストリア・ハプスブルクのレオポルド1世の息子カールが候補者として上がっていました。死の直前に、アンジュー公フィリップを後継者とすることが書かれた遺言書に署名させられ、カルロスは息を引き取りました。

カルロスは、「神だけが王国を授ける、私は何者でもない」と言っていたそうです。

その遺言を、オーストリアをはじめ同盟国は認めることができませんでした。そして、1701年から1714年、ヨーロッパ諸国を巻き込んだスペイン継承戦争が始まったのです。

ハプスブルク家シリーズ

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もわりー
もわりー
日本→ウィーン15年→現在ロンドン在住です。
書くこと・なにかをつくり出すことが好きです。

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