知ると面白いハプスブルク家 5)フェリペ2世とマクシミリアン2世

もわりー

オーストリアとヨーロッパの歴史の中でよく耳にするハプスブルク家についてたどっています。

前回ハプスブルク家の統治の中心が、カール5世とフェルディナント1世兄弟により、スペインとオーストリアに分かれました

今回は彼らの息子たちが引き継いだそれぞれのハプスブルク家のその後を見ていきたいと思います。

家督を継ぐのはたいてい長男ですよね。スペイン系はカール5世の長男フェリペ2世が、オーストリア系はフェルディナント1世の長男マクシミリアン2世が引き継ぎました。この2人は同い年でした。そして、フェリペにもマクシミリアンにも弟がいました。その弟たちにも興味深いストーリーがありましたので、そちらもあわせて紹介したいと思います。

1 フェリペ2世(1527〜1598年)

カール5世とイザベルの間に生まれたフェリペは、1556年28歳の時にカール5世からスペイン王位を引き継ぎました。ハプスブルク家のオーストリア、ハンガリーの領土は、カール5世の弟フェルディナント1世が領有していましたが、フェリペ2世はそれ以外のイタリア、ネーデルラント、中南米、フィリピンアフリカなど広大な領地をおさめていました。

フェリペ2世の治世は、世界中に広がるその広大な領土から、「太陽の沈まない国」と呼ばれたのです。

父親カール5世は、生涯に渡り戦いを繰り広げ、忙しく動き回っていましたよね。けれど、フェリペ2世は、父親のように戦いに明け暮れていた王ではありませんでした。

フェリペ2世のストーリーを追うにあたり、3つのテーマを取り上げて見ることにします。

1)4回の結婚

フェリペ2世は4回結婚をしています。そう聞くと、浮気者の王だったのかという印象を受けてしまいますが、そうではなく、いつも妻に先立たれてしまっていたのです。

初めて結婚した年は16歳でした。そして、4人目の妻が亡くなった時、フェリペ2世は53歳でした。71歳まで生きたフェリペ2世は、悲しいことに結婚生活では幸福な時間が長続きしなかったのです。

フェリペ2世の4回の結婚は下記のようになっています。

1 ポルトガル王女 マリア・マヌエラ
結婚生活 1543〜1545年 2年弱
フェリペ 16〜18歳   マリア 16〜18歳
子供 : 長男 ドン・カルロス

2 イングランド王女 メアリー1世
結婚生活 1554〜1558年 約4年
フェリペ 27〜31歳   メアリー 38〜42歳
子供 : なし

3 フランス王家 エリザベート・ド・ヴァロワ
結婚生活 1559〜1568年 約9年
フェリペ 32〜41歳 エリザベート 14〜23歳
子供 娘2人 (イサベルとカタリーナ)

4 オーストリア・ハプスブルク家 アンナ・フォン・エースタライヒ
結婚生活 1568〜1580年 約12年
フェリペ 41〜53歳 アンナ 19〜30歳
子供 5人の子供が生まれるが、長く生きたのはフェリペ3世のみ

フェリペ2世は12歳の時に母親を亡くしています。そして、自分の結婚相手は母親と同じポルトガル出身の人が良いと望んだそうです。すぐに息子カルロスが生まれましたが、短い結婚生活の後、マリアは病死してしまいます。マリアとの結婚は、いとこ同士の結婚だったのです。

マリアを亡くした後、フェリペは父カール5世の指示により、1548年からハプスブルク家統治下の諸国を数年に渡り訪問する旅に出ました。

そして1554年、父親カール5世に勧められイングラン女王メアリー1世と結婚し、フェリペもイングランドに渡りました。メアリーの方はフェリペに大変つくしたようですが、フェリペは11歳年上のメアリーとの結婚生活は、あまり馴染めなかったようです。そして、イングランドでの生活2年目にカール5世が退位し、フェリペはスペインの王位を継いだので、帰国しました。それから一度はイングランドに戻ったものの、3ヶ月ほどでまたスペインへ戻ってしまい、その後イングランドには戻りませんでした。メアリーは妊娠したと思われたことがありましたが、実際は病気で子宮に腫瘍ができていたのです。メアリーとは心がすれ違ったまま、メアリーは1人でイングランドで亡くなりました。

3回目の結婚相手は、父カール5世の宿敵フランス王フランソワ1世の息子、アンリ2世の長女エリザベートでした。フランソワ1世のもとには、和約の際にカール5世の姉レオノーレが再婚同士で嫁いでいました。もともと、このフランスのエリザベートとスペインの婚姻も、フランスとスペインのイタリアをめぐる争いの和約であるカトー・カンプレジ条約によって計画されていました。エリザベートは当初フェリペの息子ドン・カルロスとの結婚が予定されていました。しかし、いとこ同士の結婚で生まれたドン・カルロスは、虚弱体質で精神的にも不安定なところがありました。そして、イングランドのメアリー1世が亡くなりフェリペ2世が独身に戻ったため、エリザベートとフェリペ2世の結婚が進められたのです。

18歳も歳が離れた息子と同年代の新妻を、フェリペは大切にしたそうです。2人の娘に恵まれますが、次女が生まれるとエリザベートも命を落としてしまいました。

また、同じ頃息子のドン・カルロスも亡くなってしまったのです。

フェリペ2世は世継ぎを授かるために、4回目の結婚をしました。

相手は、フェリペのいとこであるマクシミリアン2世の娘アンナでした。アンナの母親はフェリペの妹、つまり2人は叔父と姪の関係だったのです。当初教皇ピウス5世はこの近親婚に反対したのですが、最終的には認められました。そして5人の子供を授かりますが、後を継いだフェリペ3世以外は早逝してしまうのです。

2)3つの大きな戦い

フェリペ2世は、カトリック教による結びつきを信奉していました。そのため、フェルディナント1世によって1555年に結ばれたアウグスブルクの和議でプロテスタントが認められたことに不満を覚えていたのです。その当時フェリペは、メアリー1世と結婚してイングランドにいました。メアリー1世はイングランドでプロテスタントを惨殺するブラッディーメアリーと呼ばれた女王でした。フェリペ2世は、プロテスタントを敵視するメアリー1世の影響を少なからず受けたのではないでしょうか。

さて、このようにカトリックを異教徒から守るため、大きな3つの戦いがおきました。

 オランダ独立戦争・八十年戦争 (1568〜1648年)

スペインハプスブルク家は、ネーデルラントも領有していました。父親カール5世はネーデルラントで生まれ育ったので、言葉も国民性も理解できていましたが、フェリペはスペインで生まれ育ったので、言葉も風習も違い、カールほど親しみが持てなかったのかもしれません。

当時ネーデルラントでは、プロテスタントの分派であるカルヴァン派が広がっていました。フェリペ2世はネーデルラントで異端審問を行い、プロテスタントを弾圧していきました。それに対して、1568年有力貴族であるオラニエ公ウィレム1世を中心に、ネーデルラントで反乱が起きます。この戦いは、途中融和策が取られ停戦協定が結ばれたこともありましたが、1648年正式にネーデルラント連邦共和国の独立が認められるまで80年続いたと言われています。実質は、ネーデルラント北部でユトレヒト同盟が組まれ、1581年にはネーデルラント連邦共和国の建国がなされていました。

 レパントの海戦 (1571年)

父カール5世の時代から手を焼いていたオスマン帝国ですが、スレイマン1世の後を継いだ息子のセリム2世率いるオスマン帝国軍が、再び地中海を脅かしました。

キプロスがオスマンにより陥落したことを受け、ローマ教皇ピウス5世がカトリック教の団結を呼びかけ、カトリック諸国連合軍「神聖同盟」が結成されました。そして、同盟諸国の艦隊は、1571年シチリアのメッシーナに集結し、オスマン帝国との戦いに出陣しました。結果、このカトリック諸国連合軍は見事オスマン帝国軍を倒したのです。

この時に活躍した連合軍の総司令官ドン・フアンは、フェリペ2世の異母弟だったのです。

その後のスペインの様子をここで少しお話しします。

1580年ポルトガル王エンリケ1世が、結婚しないまま亡くなりました。彼は当初王位を継ぐことを予想していなかったため、聖職者となっていたのです。後継者にはフェリペ2世含め5人がいましたが、エンリケ1世は正式に後継者を指名せずに亡くなりました。そして、フェリペ2世が王位を狙って動くと、あえなくリスポンは陥落し、ポルトガル王国はハプスブルク家の同君連合となりました。

フェリペ2世は、この時広大なポルトガル領を入手し、スペイン最盛期を迎えたのです。

 アルマダの海戦(1588年)

フェリペ2世が結婚していたイングランドのメアリー1世はカトリック教徒でした。しかし、イングランドでは、メアリー1世の父ヘンリー8世が、自らの離婚を成立させるためにローマ教皇と対立し、カトリックを離脱してプロテスタント系である英国国教会を築いていました。

メアリー1世は、そのヘンリー8世が離婚したかった相手、スペイン王家のキャサリンとの間の長女だったので、敬虔なカトリック教徒でした。しかし、メアリー1世亡き後王位を継いだエリザベス1世は、ヘンリー8世の再婚相手アン・ブーリンの娘で、プロテスタントでした。

メアリー1世が亡くなった後、エリザベスに求婚していたフェリペ2世でしたが、エリザベスはそれを受け入れず、その後スペインとイングランドは対立することとなっていきました。

そして、スペインにとってイングランドはどんどん邪魔な存在となってきました。

イングランドは、スペインと対立していたネーデルラントにも支援して軍事介入してきました。

さらに、イングランドは私掠船(しりゃくせん)を使ってスペインの船から海賊行為を行っており、それもフェリペ2世を悩ませていました。

そして、1588年ついにスペインはイングランドの艦隊と戦うことになったのです。

レパントの海戦でオスマン帝国に勝利をおさめたスペインの無敵艦隊でしたが、ここでイングランドの艦隊に敗れてしまうのです。

このことは、スペインに大きな衝撃を与え、最盛期を迎えたスペインが衰退へ向かっていく出来事の一つとなりました。

3) エル・エスコリアル修道院

フェリペ2世は、スペインの中央集権国家を確立しました。そして、1561年首都をバリャドリッドからマドリッドに移しました

1563年36歳のフェリペ2世は、スペイン郊外にエル・エスコリアル修道院の建設を命じました。ここは、修道院という名前ですが、広大な敷地内は宮殿、霊廟、図書館などの複合施設となっています。建築には21年の月日が費やされ、1584年フェリペ2世が57歳の時に完成しました。

4人目の王妃アンナにも先立たれ、フェリペ2世は1人このエスコリアルにこもって政務を行うことが多かったようです。

この修道院には王家の霊廟があり、父王カール5世から1598年71歳で亡くなったフェリペ2世、その後のスペインハプスブルク家の王たちも皆ここに眠っています。

ユネスコ世界遺産にも登録されており、マドリードから日帰りで訪れることができますよ。

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2 マクシミリアン2世 (1527〜1576年)

マクシミリアン2世の父親フェルディナント1世は、兄のカール5世と協力してハプスブルク家としてオスマン帝国や新教徒と戦いました。しかし、フェルディナント1世の長男マクシミリアン2世は、カール5世の長男フェリペ2世と協力して一緒に戦うということはありませんでした。

カール5世から神聖ローマ皇帝位を継いだのは、フェルディナント1世でした。ローマ教皇も選帝侯たちも、強大なスペインに皇帝位を譲りたくはなかったようです。そして、その後も神聖ローマ皇帝位はオーストリア系ハプスブルクに継がれていきます。

長男マクシミリアン2世は、父親フェルディナント1世から神聖ローマ皇帝位と、ハンガリー王・ボヘミア王を引き継ぎました。

そして、次男のフェルディナント2世がチロル伯領、三男のカール2世がシュタイアーマルク公国、ケルンテン公国、クライン公国を継ぎました。

1)プロテスタントへの傾向

マクシミリアン2世は10代の頃から、プロテスタントの家庭教師やザクセン選帝侯たちと付き合いがあり、プロテスタントに興味を抱いていたのです。そして、カール5世が率いたプロテスタントとの戦い、ミュールベルクの戦いなどでは皇帝側につきましたが、プロテスタントに傾向していくようになったようです。

父親フェルディナント1世や叔父のカール5世も、マクシミリアンがプロテスタントへ共感していることに懐疑的になっていました。

1548年からフェリペ2世がハプスブルク諸国をめぐる旅に出ると、カール5世はその間マクシミリアン2世をスペインへ呼び寄せました。そしてマクシミリアンは、いとこであるフェリペ2世の妹マリアと結婚をし、スペイン総督として統治を任されました。そうすることで、マクシミリアンをカトリックに染めようとしたのです。

しかし、マクシミリアンにとってスペインでの経験は、余計にプロテスタントを好意的に思わせることとなってしまったようです。

2)象と旅をする

さて、少し話は脱線するのですが、マクシミリアンはスペインからウィーンへ戻る時、どのようにして戻ったと思いますか?

驚くべきことに、マクシミリアンはソマリンという名の象に乗って旅をしたのです。

マクシミリアンは、カール5世の末娘であり妻マリアの妹であるフアナから、象を贈られました。フアナの将来の夫である、ポルトガル王子ジョアン・マヌエルからもらった象でした。この頃ポルトガルはインドにも領地を持っていたのです。

マクシミリアンとマリアの間にはすでに2人の子供がおり、家族4人と多数の側近、そして象使いのインド人を伴い、彼らはスペインから象を連れてウィーンへと旅をしました。そのため、今でもその途中に立ち寄った場所として、”ツム エレファント zum Elefant”という名前がついたホテルが残されているのです。

イベリア半島を渡り、イタリアジェノヴァへ入り、そこから北上してチロル、ザルツブルグを通ってウィーンへと向かいました。途中マクシミリアンの病気やマリアの妊娠発覚などで休養をとりながら旅をして、無事にウィーンにたどり着いたのです。残念ながらソマリンはウィーン到着後、1年半後に亡くなってしまいます。

3)神聖ローマ皇帝

マクシミリアンは、父フェルディナント1世の後をついで神聖ローマ皇帝になるためには、プロテスタントへの傾向は捨てなければいけませんでした。マクシミリアンは最終的にはカトリックとは決別せず、カトリック教徒として神聖ロー皇帝を引き継ぎました

外交上ではマクシミリアン2世は、ハンガリーをめぐりオスマン帝国と対立を重ねましたが、1568年セリム2世と和約を結んでいました。そして、フェリペ2世が賛同したローマ教皇の呼びかけによる対オスマン帝国の神聖同盟には参加しませんでした。

参加しなかった理由は他にも、ローマ教皇とスペインのイタリアに対する政策に同意できなかったということもあるようです。

このように従兄弟のフェリペとは協力関係を築いていなかったようですが、マクシミリアンは息子たちルドルフとエルンストを一時期スペインに送って生活させています。妻であるスペイン家出身のマリアが、息子たちにスペインで教育を受けさせることを希望し、フェリペ2世もプロテスタントに傾向しているマクシミリアンから息子たちを離すことを望んだためでした。息子のルドルフにとってはスペインで過ごした10代はとても楽しい生活であり、敬虔なカトリック教徒となっていき、後に神聖ローマ皇帝を継ぐこととなるのです。

3 フェリペ2世・マクシミリアン2世 それぞれの弟

1)ドン・フアン(ドン・フアン・デ・アウストリア)(1547〜1578年)

フェリペ2世の父カール5世と母イザベルは大変仲の良い夫婦でした。イザベルが35歳で出産後に亡くなると、カール5世は悲しみにくれ、その後を喪服で過ごし再婚はしませんでした。けれどそんなカール5世も、再婚をしたいという愛情は抱かずとも、寵愛した女性はいました。そして、その女性が産んだ子供は認知していたのです。

カール5世が亡くなった後、フェリペ2世は彼の異母弟であるドン・フアンに会うことになり、王族として認知されました。弟の年齢は、カールの息子ドン・カルロスより2歳ほど若い息子のような存在でした。カルロスにとっては、その人が叔父さんとなったのです。

ドン・フアンは軍人としての道を進みました。そして、1571年神聖同盟が結成されオスマン帝国と戦ったレパントの海戦では、連合艦隊の指揮官となって活躍したのです。

その後ドン・フアンは兄王フェリペ2世によりネーデルラントの総督に任命されました。当時のネーデルラントは、カルヴァン派の異端審問によりオラニエ公ウィレム率いるプロテスタントの反乱軍との戦いが起こっていました。そして、そのネーデルラント軍を、エリザベス1世のイングランドが支援している状況でした。

ドン・フアンはそんな中、スコットランドのメアリー・スチュアートと結婚するという話も出ていました。メアリー・スチュアートはカトリック教徒で、当時反逆罪の罪でイングランドのエリザベス女王のもとに亡命していたのです。

しかし、ドン・フアンは1578年蔓延していたペストにかかり、命を落としてしまいます

一方メアリー・スチュアートは、エリザベス女王暗殺に加担したとして、1787年に処刑されてしまうのです。このカトリック教徒であるメアリー・スチュアートを暗殺したことも、フェリペ2世にとって、アルマダの海戦を起こす要因の一つとなりました。

ドン・フアンの遺体はスペインに運ばれ、葬儀が行われたのち、エスコリアル修道院の霊廟に埋葬されました。

2)フェルディナント2世 (1529〜1595年)

マクシミリアン2世と2歳年下の弟フェルディナント2世は、兄弟仲良く育ちました。

1547年18歳の頃、父フェルディナント1世の指示でボヘミアの長官となり、プラハの総督として働きました。

そしてフェルディナント2世は、当時では許されることのない身分違いの結婚をしたことで知られているのです。その相手は、アウグスブルクの豪商ウェルザー家の出身であるフィリッピーネ・ヴェルザーでした。

フェルディナントがアウグスブルクを訪れた際に初めて出会った2人は、その後ボヘミアにあるフィリッピーネの叔母のお城で再会し、仲を深めていったのです。

しかし、貴族でもないフィリッピーネとハプスブルク家の大公との結婚は秘密裡に進められる必要がありました。フェルディナント2世は父であるフェルディナント1世にも皇后にも打ち明けることなくこの結婚生活を進めていました。しかし、次第にフェルディナントとフィリッピーネのことが噂になっていき、皇帝の耳にも届いてしまいました。

最初は激怒していた父でしたが、元来穏やかな性格であるフェルディナント1世は、次第に息子の幸福を見守るようになりました。

1564年フェルディナント1世が亡くなると、フェルディナント2世はチロル伯領を引き継ぎました。フィリッピーネと子供たちと一緒にチロルへ移ったフェルディナントは、インスブルックの郊外にアンブラス城を建て、そこで家族一緒に穏やかに暮らしました。

当初はフェルディナント2世の貴賤結婚に反感を覚えていたチロル議会も、チロル大公妃を認めるようになり、町の人たちとも交流し幸せな時間を過ごしました。

今でも、アンブラス城はフェルディナント2世とフィリッピーネが過ごしたお城として大切に保管され、多くの観光客が訪れています。

Image by WikimediaImages from Pixabay 

ハプスブルク家シリーズ も是非ご覧ください。

ABOUT ME
もわりー
もわりー
日本→ウィーン15年→現在ロンドン在住です。
書くこと・なにかをつくり出すことが好きです。

記事を読んでいただいた方をステキな旅へと案内できたら、そんな思いで書いていきます。

どうぞよろしくお願いします。
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