知ると面白いハプスブルク家 7) フェルディナント2世・3世親子と三十年戦争、そしてフェリペ4世

もわりー

オーストリアやヨーロッパの歴史に登場するハプスブルク家のストーリーをたどっています。

宗教改革で誕生した新教徒プロテスタントに対する神聖ローマ帝国の方針は、皇帝により変わってきましたが、いよいよ本格的にプロテスタントとの対決が始まります。

今回はその三十年戦争と呼ばれるプロテスタントとの戦争渦中のハプスブルク家の皇帝、フェルディナント2世と息子のフェルディナント3世のストーリーを追いながら、三十年戦争についても見ていきましょう。

そして、同時代のスペインハプスブルク家フェリペ4世の動きも合わせて見ていきます。

1 三十年戦争とは

三十年戦争という名前は、歴史の教科書にもヨーロッパの歴史にも登場する名前ですが、どういう戦争であったのか、まず見てみましょう。

1)はじまりは1618年プラハでの事件

1617年ハプスブルク家の皇帝マティアスに後継者がいなかったため、従兄弟のフェルディナント2世がボヘミアの王を継ぎました。そして、敬虔なカトリック教徒であるフェルディナント2世は、プロテスタントを迫害する動きに出ます。そして、事件は起こりました。

1618年抗議のため集結したプロテスタント貴族たちが、国王の顧問官たちをプラハ城の3階の窓から地面へと投げ落としたのです。

1619年3月マティアス皇帝が亡くなると、フェルディナントが皇帝となることを阻止しようとして、ボヘミアのプロテスタントたちはプロテスタントの連結を強めます。対するフェルディナント側は、スペインや教皇からの支援を受け、カトリック同盟の結束を固めます。

ボヘミア貴族たちはそれからフェルディナントのボヘミア王位剥奪を宣言し、そこから1648年まで続く三十年戦争が始まったのです。そしてこの戦争は、ドイツを戦場に、スペイン・スウェーデン・フランスなどヨーロッパ諸国を巻き込んだ大がかりな戦争となりました。

2)プファルツ選帝侯 フリードリヒ5世

1619年8月、ボヘミアの貴族たちは、フェルディナント2世に代わって23歳のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に選出しました。

フリードリヒ5世について、少しふれておきます。

ハイデルベルグが州都であるプファルツでは、プロテスタンの一派であるカルヴァン主義が評価されており、フリードリヒもカルヴァン主義を信仰していました。

そして、フリードリヒはプロテスタントを信仰しているイギリス国王ジェームズ1世の娘エリザベス・スチュアートと結婚します。1613年ロンドンのホワイトホール宮殿で結婚式をあげた後、ドイツのハイデルベルクへ移住し、ハイデルベルク城で過ごしていました。

フリードリヒとエリザベスの夫婦仲はよく、13人の子供に恵まれました。12番目の娘ゾフィーは、後に母親のスチュアート朝の血を引く後継者となり、息子のゲオルク・ルートヴィヒがイギリスのジョージ1世としてイギリスへ赴くことになるのです。

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さて、こうしてプファルツ侯フリードリヒ5世とエリザベスはハイデルベルクから1619年プラハに入り、11月4日聖ヴィート大聖堂で戴冠式が行われました。

では、ここからはフェルディナント2世・3世親子のストーリーを見ながら、三十年戦争の続きも見ていきましょう。

2 フェルディナント2世 (1578年ー1637年)

1)内オーストリア大公のフェルディナント

フェルディナント2世は、父親マクシミリアン2世の弟カール2世、母親はバイエルン公女マリア・アンナ、シュタイヤーマルク、ケルンテンなどをおさめる内オーストリア大公の長男としてグラーツで誕生しました。

1590年11歳の時に父親カール2世が亡くなると、内オーストリア大公を引き継ぎました。はじめは叔父のエルンスト公が摂政として引き継ぎ、フェルディナントは母親の出身地であるバイエルンのインゴルシュタットにあるカトリック修道会であるイエズス会の学校に通いました。そこで、敬虔なカトリック教徒として成長したのです。

1595年にグラーツに戻り、内オーストリアの君主として統治します。彼の政策はカトリック教徒を重視したものであり、プロテスタントを排除するものでした。

1614年フェルディナントはグラーツの大聖堂の隣に、霊廟(マウソレウム)と聖カタリーナ教会の建築を要請します。この建築はイタリアの宮廷芸術家ジョヴァンニ・ピエトロ・デ・ポミスによって建設され、ブルーの楕円形のドームはこの時代のオーストリアの重要な建築物として残されています。

1619年マティアス皇帝の死後、従兄弟のフェルディナント2世が皇帝に選出され、フランクフルトで戴冠しました。

2)三十年戦争 ヴァレンシュタインの活躍

フランクフルトからウィーンへ帰る途中、フェルディナント2世はミュンヘンに立ち寄りバイエルン公マクシミリアン1世を味方につけました。マクシミリアン1世は母方のいとこであり、インゴルシュタットのイエズス会でも一緒に学んだカトリック教徒の仲間でした。

フェルディナントはスペインハプスブルク家のフェリペ3世の援軍をプファルツへ侵入させ、プロテスタントを弾圧します。そして、マクシミリアン1世の家臣でカトリック同盟の総司令官として活躍していたティリー伯指揮のもと、皇帝軍は1620年プラハ近郊の白山でプロテスタント軍に勝利します。

プロテスタント側の敗北により、フリードリヒ5世とエリザベスはプラハから亡命しました。フリードリヒ5世のボヘミア王としての治世はわずか1年ほどとなり、フリードリヒ5世は皇帝側が短命の治世と揶揄してつけたプロパガンダ ”冬の王” と呼ばれています。2人はその後オランダへ亡命して暮らすことになります。

皇帝軍の勝利により、ボヘミアのプロテスタントの主要貴族を処刑・弾圧し、ハプスブルク家による絶対君主を確立することとなったのです。

また、プファルツ侯フリードリヒから選帝侯位を取り上げ、バイエルン公マクシミリアンに与えられることとなりました。

これらの動きにより、フェルディナント2世の皇帝軍はヨーロッパ諸国から反発を買うこととなります。1624年フランス主導のもと反ハプスブルク体制が築かれ、1625年北ドイツでの覇権を狙っていたデンマーク国王クリスティアン4世が三十年戦争に介入してきます。

そこで、軍資金も不足していた皇帝軍に助け舟を出した人物が、ヴァレンシュタインでした。ボヘミアの混乱に乗じて力をつけてのし上がってきたヴァレンシュタインは、私兵を提供して皇帝軍の総司令官としてデンマーク軍と戦いました。バイエルンのティリー伯と合流してデンマーク軍を破り、1629年リューベックで和約を結びました。そしてその功績を讃えらえれ、ヴァレンシュタインはメクレンブルク公に叙爵されました。

この和約に乗じて、フェルディナント2世はプロテスタント諸侯の所有となっていた地域を再びカトリック諸侯へ返還するように要請する復旧令を打ち出しました。

しかしこの絶対主義的体制は、プロテスタント諸侯だけではなく、カトリック教徒からも反感を買うことになりました。さらに、ヴァレンシュタインを昇格させたことにより、他の軍閥からも同じことが起こりうるのではないかという懸念も高まりました。

そして1630年レーゲンスブルクの帝国議会が開かれ、そこでヴァレンシュタインを罷免しなければ息子フェルディナント3世をローマ王(後の神聖ロー皇帝)へ選出することを拒否すると迫られ、フェルディナント2世はヴァレンシュタインを解任しました。そして、結局フェルディナント3世をローマ王にすることもできませんでした。

こうして、皇帝の絶対主義体制の確立は失敗に終わったのです。

3)スウェーデンの介入

ヴァレンシュタインを解任した頃、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフが北ドイツへと上陸しました。帝国軍司令官となっていたティリーはスウェーデンに味方したマクテブルグを包囲し、そこで住民を虐殺し惨劇を引き起こし、プロテスタントの怒りを買います。そしてスウェーデン軍はザクセン選帝侯やブランデンブルク選帝侯を味方につけることに成功し、さらにドイツを南下しバイエルンまで進出します。スウェーデン軍との戦いでティリーは敗れ、戦死します。

窮地におちいったフェルディナント2世は、再びヴァレンシュタインを召喚します。1632年リュッツェンの戦いでは勝利はおさめられずとも、スウェーデンのアドルフが戦死するという重大な局面を迎えました。

そして、その後ヴァレンシュタインの動きがおかしくなったのです。

軍事行動を取らず、プロテスタントと和平交渉をしているという反逆の疑いが上がります。そして、皇帝の怒りを買うことになり、1634年ヴァレンシュタインは暗殺されてしまうのです。

その後皇帝軍の司令官には、フェルディナントの息子、フェルディナント3世が就任します。

フェルディナント3世率いる皇帝軍は、当初形だけのものとして期待されていませんでした。スウェーデンもそれを好機とし、軍を立て直して侵攻してきます。そして、1643年ネルトリンゲンの戦いで、スペインハプスブルク家のスペイン領ネーデルラント総督フェルナンドの軍も加わり、フェルディナント3世の皇帝軍はスウェーデン軍に勝利するのです。このことはフェルディナント3世が王位継承者として名を馳せることにもつながったのです。

フェルディナント2世は戦争を終結させるためにプロテスタント諸侯への譲歩を決意し、1635年プラハ条約を結びます。

それにより、復旧令は撤回され、ようやくカトリックとプロテスタントの和解がなされ、あらゆる同盟も撤廃されました。

1636年フェルディナント3世は後の神聖ローマ皇帝を確実にするローマ王に選出され、それを見届けて、1637年フェルディナント2世はウィーンで亡くなります

三十年戦争はしかし、まだ終わってはいませんでした。
そして、神聖ローマ皇帝を継いだフェルディナント3世の時代へと突入します。

フェルディナント2世が亡くなった時、フェルディナントが建築を要請したグラーツの霊廟は未完成でした。

その後、孫の皇帝レオポルド1世がグラーツの若き芸術家に霊廟の完成を依頼します。その芸術家ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハはそれから、ハプスブルク宮廷建築家として大いに活躍し、ウィーンのカールス教会や国立図書館などの建築も手がけることとなります。

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3 フェルディナント3世 (1608ー1657年)

フェルディナント2世とバイエルンのマリア・アンナの三男としてグラーツで誕生したフェルディナント3世は、兄たちの死後後継者に指名され、1621年にオーストリア大公となります。ちょうど三十年戦争初期の頃です。

それから1625年にハンガリー、1627年ボヘミアの国王として戴冠します。1630年、父親フェルディナント2世が帝国議会でヴァレンシュタインの罷免を迫られた際、フェルディナント3世をローマ王として認めさせることにも失敗しました。

1631年フェルディナントはいとこであるスペインハプスブルクのマリア・アンナと結婚します。マリアは聡明な妻としてフェルディナントの力になり、6人の子供に恵まれました。そして、マリアの弟でスペイン領ネーデルラント総督となっていたフェルナンドもまたフェルディナント3世を助け、1634年ネルトリンゲンの戦いに勝利しスウェーデン軍を北ドイツまで後退させます。

その後1635年にプラハ条約が結ばれ、1637年父フェルディナント2世が亡くなると神聖ローマ皇帝を引き継ぎました

20年続いた戦争により、帝国領土はかなり疲弊していました。フェルディナント3世は戦争の継続を望みませんでしたが、終結には至らなかったのです。なぜなら、1635年今度はフランスが介入してきたからです。

1)三十年戦争の終結

フランスの介入により戦況は激化していきます。スウェーデンとフランスは手を組み、皇帝軍はドイツ北部・ボヘミアで敗戦が続きます。

1641年にはスペインのフェルナンドが病にかかり病死してしまいます。

フェルディナント3世は和平を結ぶ準備を始めますが、フランス・スウェーデン軍は1642年に正式に同盟を組み、戦争を進めます。

ウィーンの宮廷は再びヴァレンシュタインのような強力な指揮官が現れることを危惧していたため、皇帝軍にはリーダーシップを取れる人物がいませんでした。さらに長引く戦況により財政状況も悪化し、傭兵を募ることも難しかったのです。

すでに、神聖ローマ帝国内のプロテスタントと皇帝軍との戦いという意味を超えており、これ以上戦争を続けることは無意味な状態になっていました。

1644年から和平の交渉が始まりますが、フェルディナント3世が大幅に譲歩しなければ和平の締結には至らない状況でした。その間もスウェーデンはボヘミアやバイエルンに進軍し、フランス・スウェーデン軍はさらに勢いを強め、スペイン軍も敗北し、1648年プラハがスウェーデン軍に包囲されるに至ります。

そしてようやくフェルディナント3世は大きな譲歩と引き換えに、1648年ウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)を締結し、戦争は終結したのです。

2)三十年戦争後の帝国とハプスブルク家

ウェストファリア条約により、ルターの宗教改革以来続いてきた宗教的対立は緩和されることとなりました。プロテスタント徒諸侯に与えられていた特権も大幅に認可され、プロテスタント教徒・カトリック教徒は平等に扱われるようになりました。

また、神聖ローマ帝国領に自立権が与えられることになり、ハプスブルク皇帝の覇権に終わりを向かえ、国家としての神聖ローマ帝国は事実上崩壊しました。

戦勝国であるフランスとスウェーデンにも土地が割譲され、オランダとスイスは独立を果たしました。

そして、ハプスブルク家はこれまでのオーストリアの世襲領を維持することができました。そのオーストリア領内において、カトリックの信仰は守られ、ハプスブルクの君主制は続いていくことになり、オーストリア領内でハプスブルク家の王権は強化されました。

また、ハンガリーとボヘミアの領土もハプスブルク家の元に残りました

神聖ローマ帝国内での権威は大幅に失墜していましたが、フェルディナント3世はその後も帝国政治には積極的に参加し、スウェーデンに対してポーランド・リトアニアとの同盟の締結、ポーランドの支援、フランスとスペインの戦争ではスペインの支援を行いました。

フェルディナント3世は、長男フェルディナント4世をローマ王に選出していましたが、フェルディナント4世は翌年1654年に亡くなってしまいます。次男のレオポルドは11歳であったため、ローマ王に選出されるにはまだ若すぎて認められずにいました。

そして、1657年フェルディナント3世は49歳で亡くなりました。

1658年次男のレオポルド1世が帝位を継ぎました。

フェルディナント3世は、ウィーンのカプツィーナー教会の地下へ埋葬されました。以後ハプスブルク王政終焉まですべての皇帝がここに埋葬されています。

フェルディナント3世は熱心な音楽家として知られており、自ら作曲もしていました。

フェルディナント3世は3回結婚していますが、3番目の妻であるエレオノーラ・ゴンザーガはフェルディナント同様芸術に寛容で、ハプスブルク宮廷の音楽文化にイタリアの影響を伝えることになりました。

 

さて、この頃のスペインハプスブルク家は誰が政権を握っていたのか見ておきましょう。

4 フェリペ4世 (1605ー1665年)

フェリペ4世の父親はフェリペ3世、母親はマルガレーテ・フォン・エスターライヒ、フェルディナント2世の妹でした。フェリペ4世は、フェルディナント3世とは3歳違いのいとこ同士にあたります。

1621年フェリペ3世が亡くなると、16歳でスペイン王位を継ぎました。

三十年戦争では、白山の戦いでフェリペ3世も援軍をだし、皇帝軍が勝利した頃です。

フェリペ4世は、6歳の頃から、スペインとフランスの関係を強化するために、フランスアンリ4世の娘イザベル・デ・ボルボンと婚約をしており、1611年10歳のフェリペと3歳年上のイザベルは結婚しました。2人の間には後継者として1629年バルタザール・カルロスが誕生します。カルロスはオーストリアハプスブルクのマリア・アンナとの結婚が決まっていましたが、1646年カルロスは16歳で亡くなってしまいます

フェリペ4世の妃イザベルは1644年に亡くなっており、フェリペ4世には男児の後継者が必要であったこともあり、42歳のフェリペは息子の婚約者であった13歳のマリアと結婚することになります。マリア・アンナはフェリペ4世の妹がフェルディナント3世との間に産んだ娘であり、叔父と姪の関係でした。

2人の間には5人の子供に恵まれましたが、3人は生後すぐに亡くなってしまいました。そして、成長した長女のマルガリータ・マリア・テレサは、フェルディナント3世の息子レオポルド1世と結婚し、長男カルロス2世はスペインハプスブルクの後継者となりました。

フェリペ4世の治世は、対外政策で苦しめられ、スペインを衰退へと導くことになります。

神聖ローマ帝国で始まった三十年戦争において、白山の戦いではプファルツを占領し、その後ネーデルラント総督フェルナンドがスウェーデンとの戦いで活躍します。

そして、スペインとオランダの八十年戦争と言われる独立戦争も再開しました。

さらに、北イタリアのマントヴァをめぐる後継者争いでフランスとの戦いが始まり、フランスは三十年戦争でオランダ・スウェーデンを支援する形になり、ハプスブルク家はウェストファリア条約でオランダの独立を認めることとなりました。

1659年にはフランスとピレネー条約を結び、フランスとスペインの戦争を終結させましたが、フランスに有利な内容であり、領土も一部をフランスへ割譲することとなります。

そして、フェリペ4世のはじめの結婚で誕生した娘マリア・テレサを、フランスのルイ14世のもとに嫁がせることとなるのです。

さらに1640年フェリペ2世以来領有していたポルトガルでもスペインに対する反発が起き、1668年スペインはポルトガルの独立を認めることとなります。

フェリペ4世は1665年マドリッドで亡くなります。後継者のカルロス2世はその時まだわずか4歳で、病弱だったのです。

フェリペ4世は芸術を支援し、宮廷画家ディエゴ・ベラスケスとはプライベートでも良い関係を築いていたそうです。また、演劇愛好家であったことでも知られています。

ハプスブルク家シリーズ

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もわりー
もわりー
日本→ウィーン15年→現在ロンドン在住です。
書くこと・なにかをつくり出すことが好きです。

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