知ると面白いハプスブルク家 4)カール5世とフェルディナント1世
オーストリアやヨーロッパの歴史に登場するハプスブルク家についてたどっています。
今回から、ハプスブルク家のもう一つの舞台となるスペインでの統治が始まります。
もちろん、ハプスブルク家の領土であるオーストリアとその近郊、そしてブルゴーニュでの統治も続いています。
今回は、そのように拡大したハプスブルク家の領土を治める兄弟、カール5世とフェルディナンド1世について見ていきます。
今回は人物ごとではなく、時系列で2人の動き、そしてヨーロッパの動きを見ながら、2人のストーリーを追ってみたいと思います。
1 カール5世とフェルディナント1世 出生から結婚まで
前回紹介しましたフィリップ美公と狂女となってしまったフアナの間には6人の子供がいました。そのうち、男子はカール5世とフェルディナント1世の2人でした。この3歳違いの兄弟はしかし、幼少期を一緒に過ごすことはなかったのです。なぜなら、2人が生まれ育った国が違ったからです。
カール5世(カルロス1世)(1500〜1558年)
フィリップとフアナの長男
ブルゴーニュで生まれ育つ。寡黙で真面目な性格。
フェルディナント1世(フェルナンド)(1503〜1564年)
フィリップとフアナの次男
フアナの兄フアンが亡くなり、フアナがスペイン継承者となった際、フィリップとフアナは一度スペインに行っている。その時にフェルディナントはスペインで生まれ、両親がブルゴーニュに戻った後も、そのままスペインで育った。陽気で明るい性格。
1)ハンガリー王家との二重結婚の契約
そんな状況で、1515年祖父のマクシミリアン1世は、ハンガリーとボヘミアの王ウラースロー2世と、ハプスブルク家とヤゲロー家(ヤギェウォ家)の二重結婚の話を進めました。カール、フェルディナントの妹マリア(当時10歳)とラヨシュ2世、そしてラヨシュ2世の姉アンナとカール(当時15歳)かフェルディナント(当時12歳)のどちらかが結婚することに決まったのです。そして、代理結婚の形でマクシミリアン1世が出席して結婚が成立したのです。
さて、結果的にはフェルディナントがアンナと結婚しました。
当初アンナの結婚相手は長男カールだと思われていたので、フェルディナントと決まった時には、ヤゲロー家からは反発があったそうですが、その後アンナとフェルディナントは仲良い夫婦として幸せに暮らすことになります。
ではなぜカールではなかったのでしょうか?
2)1517年兄弟初顔合わせ
1504年カスティリア女王イザベルが亡くなると、カール5世の両親であるフィリップとフアナは再びブルゴーニュからスペインに渡り、フアナが女王を引き継ぎました。そしてその後すぐにフィリップが亡くなると、ナポリにいたフアナの父フェルナンド5世がカスティーリャへ戻り、女王フアナの摂政として統治していました。フアナは精神異常を来たし、統治能力はなく修道院へ幽閉されていたのですが、女王の地位は譲らなかったのです。そしてフェルナンド5世は、1516年後継者としてフィリップとフアナの長男であるカールを指名して亡くなりました。
フェルナンド5世自身もカスティーリャの人々も、本心ではカスティーリャで生まれ育った次男のフェルナンドを後継者にしたかったのです。しかし、結局ハプスブルク家の規定方針で、弟を優先して後継者に選ぶことはできなかったのです。
カールは1517年ブルゴーニュからスペインへと艦隊に乗ってやってきて、スペイン王カルロス1世として即位しました。スペインの地で兄弟が初めて顔合わせを果たした後、弟のフェルディナントは入れ違いにオーストリアへと向かい、その後スペインに戻ることはありませんでした。けれど、兄弟2人はその後も仲良く力を合わせていくことになります。
カールがスペイン王国の君主となった当時は、スペインのほかナポリ、シチリア、サルディニアとコロンブスが発見した新大陸を含む広大な領土を所有していました。
カールが乗った艦隊には、『プルス・ウルトラ(さらに彼方へ)』と描かれた旗艦が掲げられていました。実際、カルロス1世は神聖ローマ皇帝カール5世として広く領土を拡大していくことになるのです。
3)マルティン・ルターの宗教改革
カールがスペインへ渡りカルロス1世として即位した年、ヨーロッパでは大きな出来事がありました。ルターによる宗教改革が起こったのです。
当時ローマ教皇レオ10世は贖宥状(しょくゆうじょう)(免罪符)を販売し、購入した者は罪を赦され救われるとされていました。そして、ドイツでも贖宥状の販売をはじめ、その費用がサン・ピエトロ寺院の修理などにあてられていたのです。しかし、聖職者となったルターは、このことに意義を唱え、1517年10月31日ヴィッテンベルク城の壁に、九十五箇条の論題と呼ばれる意見書を公開してカトリック教会を批判したのです。
このことは大きな波紋を呼び、カール5世の人生にも多大な影響を及ぼすことになるのです。
4)神聖ローマ帝国、ハンガリー、ボヘミアの掌握と結婚
1519年祖父マクシミリアン1世が亡くなると、カール5世は神聖ローマ皇帝に選ばれました。ネーデルラント総督で、カールを育てた叔母マルガレーテも、カールの皇帝選出に際して貢献しました。
しかしこれにより、神聖ローマ皇帝の座を狙っていたフランスのフランソワ1世と息子アンリ2世と、生涯にわたり対立していくこととなったのです。
カールはその後1526年にポルトガル王家のイザベラと結婚し、仲良い夫婦関係を築きます。イザベラはカールが不在中は摂政としてスペインの政治を立派に担ったのです。
一方フェルディナントは、1521年マクシミリアン1世のオーストリアのハプスブルク家の領土を相続し、リンツでヤゲロー家のアンナと結婚しました。
1526年フェルディナントの妹マリアと結婚したアンナの弟ラヨシュ2世が、モハーチで行われたハンガリーとオスマン帝国の戦いで命を落とします。そして、1515年にマクシミリアンとウラースローが定めた協定により、フェルディナントがボヘミアとハンガリーの王位を継承しました。後のオーストリア=ハンガリー二重帝国の基盤がここで作られたのです。
しかし、その後もフェルディナントはオスマン帝国による領土侵攻に悩まされることになるのです。
2 カール・フェルディナント兄弟の前に立ちはだかる敵たち その1
1)ルター派の新教徒との戦い
ローマ・カトリック側の神聖ローマ皇帝となったカール5世は、ルターが起こした新教徒たちの問題に取り組まなければなりませんでした。そして、1521年ドイツのヴォルムスで神聖ローマ帝国の帝国議会を開き、ルターを召喚します。ルターにローマ教皇を批判する主張を撤回するように要求しますが、ルターはそれを拒否しました。そこで、カール5世はルターを異端と認定し、ローマ教会から破門すると共に刑に処します。
しかし、ルターはヴォルムスから脱出し、ザクセン公フリードリヒによってヴァルトブルグ城にかくまわれ、聖書のドイツ語への翻訳を行います。グーテンベルクにより広まった活版印刷術により、この聖書のドイツ語訳は人々の間に広まり、ルターを支持する人たちの活動によって1524年にはドイツ農民戦争が起こります。そして、1526年カール5世はシュパイアーで帝国議会を開き、ルター派を容認することにしたのです。それには、やむを得ない理由がありました。
カール5世の敵は新教徒だけではありませんでした。むしろ、他の敵と対峙するために、この新教徒たちの力をも借りる必要があったのです。その敵たちについて見ていきましょう。なお、このルター派との和解は一時的なもので、この後も新教徒との戦いは続きます。
2)フランス フランソワ1世とのイタリア戦争
マクシミリアン1世の頃からハプスブルク家とフランスはイタリアを巡って対立していました。1515年にはフランスがスフォルツァ家のミラノ公国を占領したこともありました。この時、ミラノにいたレオナルド・ダ・ヴィンチは、フランソワ1世によってフランスへ招かれ、晩年をフランスで過ごすこととなり、フランスへルネサンス文化を伝えたのです。このようにフランソワ1世は芸術支援者として知られているのです。
カール5世がスペインを継承したことにより、フランスはネーデルラントがある北部・スペインがある南部からハプスブルク家に挟まれることになり、ますます敵対心を強めることとなりました。
フランソワ1世はカール5世と真っ向から対立しました。1525年パヴィアの戦いでフランスが敗れると、フランソワ1世はスペインに幽閉されてしまいます。そして、カール5世との間に領土領有に関する取り決めがなされたマドリード条約を結び、フランソワ1世は息子2人を身代わりにして釈放されます。しかしフランスへ帰国すると、この条約は捕虜の間に押し付けられたものと主張し、破棄されてしまうのです。
この頃、教皇クレメンス7世の先導により、ミラノやベネチアなどイタリア諸国とフランス、イングランドのヘンリー8世と協力関係を結び、コニャック同盟と呼ばれる反ハプスブルク体制が築かれました。このコニャック同盟戦争は、この先まだまだ続いていきます。
3)スレイマン1世によるオスマン帝国の侵攻
カールの敵の3つ目は、スレイマン1世率いるオスマン帝国でした。
積極的にヨーロッパへの外征を行ったスレイマン1世は、1526年モハーチでハンガリーと戦い、ラヨシュ2世がそこで討ち死にしました。ハンガリー王を継承したハプスブルク家のフェルディナント1世と、ハンガリーの領有権で争いは続きます。
キリスト教徒とイスラム教徒の戦いであるのですが、フランスのフランソワ1世はスレイマン1世をけしかけ、オスマン帝国にウィーン包囲を促します。東と西からオーストリアを挟み撃ちにしようと目論んだのです。そして、1529年9月末からオスマン帝国によるウィーン侵攻が始まり、2ヶ月近くにわたり包囲戦が行われました。
オーストリアを領有していたフェルディナント1世は、兄のカール5世にも援軍を求め、ウィーン守備体制を築きます。そして、10月半ばになり極寒の大雪に見舞われたウィーンではオスマン帝国軍の士気も保たれず、ウィーンは陥落することなくスレイマン1世の軍は撤退しました。
その後、1532年にオスマン軍は再びオーストリアへと軍を進めましたが、オーストリア軍もオスマン軍も大掛かりな攻撃を進めることなく、妥協案を模索して協議が進められ、1533年和睦が成立し、ハンガリーは分割されてしまいました。
その後、17世紀になってオスマン帝国軍による第二次ウィーン包囲が行われ、その戦いによりハンガリーの全領土は再びハプスブルク家のものとなるのです。
そして、スレイマン1世とカール5世はその後地中海の覇権をめぐって争うことになります。
4)新教徒との戦いのつづき シュマルカンデン同盟
1526年シュパイアー帝国議会でルター派が容認されたものの、カールは1529年4月に2回目の帝国議会を開き、ここで再びルター派を否認するのです。当然新教側の諸侯たちはこのことに反発し、抗議文を提出します。このことから、新教徒はプロテスタントと呼ばれるようになるのです。
しかし、これもまた時期が悪かったのです。この年の9月終わりに、先ほどお話ししたオスマン軍によるウィーン包囲が行われたので、カールは新教徒と戦うどころではなくなってしまい、ルター派容認問題は持ち越されてしまいました。
そして、1531年プロテスタントの諸侯や都市はシュマルカンデンで反皇帝派の同盟を結成しました。このシュマルカンデン同盟には、カトリック教であるはずのフランスのフランソワ1世も加担していたのです。
さて、ここまで見ているだけでもカール5世の忙しさがよくわかりますよね。神聖ローマ皇帝でありながら、スペイン王としての活動、そして敵対するフランスやオスマンとの戦い、1人で対処するのは無理があります。そこで、カール5世は1531年弟のフェルディナント1世を次の神聖ローマ皇帝(ローマ王)に指名しました。そしてフェルディナント1世は、兄の代理として神聖ローマ皇帝としての任務を引き受けることとなるのです。
3 カール・フェルディナント兄弟の前に立ちはだかる敵たち その2
1)イタリアをめぐる戦い コニャック同盟戦争
フランソワ1世が釈放されてから、コニャック同盟とカール5世との間で再びイタリアでの戦争が始まりました。
1527年カール5世のドイツ、スペイン、イタリアの軍はローマに進軍しローマ教皇軍と対立しました。教皇軍は敗北しましたが、カール5世の軍に対する支払いが悪かったことや、ドイツ軍にルター派が多くカトリック教徒を憎んでいたことなどが要因となり、カール5世の皇帝軍はローマで略奪や殺戮など暴行を働きました。これにより、ローマでの文化人や芸術家も命を落とし、文化財は盗難・破壊にあい、イタリアのルネサンス時代は終わりを迎えたのです。
カール5世自身は、ローマをそこまで破壊するつもりはなかったようですが、傭兵たちの不満が爆発した結果だったのです。
1529年教皇とカール5世はバルセロナの和約を結び、教皇と皇帝は和解となりました。
このローマ略奪により教皇の力が弱まると、フランスは今度はイングランドのヘンリー8世を味方につけイタリア戦争を続けます。しかし、途中イタリア諸国がカール5世の皇帝側につくなどの裏切りにもあい、同じく1529年、フランスはカール5世とカンブレーの和約を結びます。
このカンブレーの和約は、カール5世とフランソワ1世それぞれの女性親族が交渉に当たりました。カール5世側は、カールを育てたネーデルラントの総督である叔母のマルガレーテ、そしてフランソワ1世側は母親のルイーズ・ド・サヴォア。この2人はマルガレーテが幼少期フランスで過ごした時からの幼なじみだったのですよね。女性同士で成立させた和約なので、貴婦人の和約とも言われています。
この和約により、スペインで人質生活を送っていたフランソワ1世の2人の息子たちは、身代金を支払うことで解放されました。ミラノ公国、ナポリ王国はカール5世の統治下となり、フランスはブルゴーニュを取り戻したのです。そして、未亡人となっていたカール5世の姉エレオノーレがフランソワ1世と再婚しました。
少し脱線しますが、イングランドのヘンリー8世のことにもちょっと触れておきます。
ヘンリー8世は、スペイン王家のキャサリンと結婚していました。カール5世の母親フアナの妹です。そして、イングランドとしては、以前所有していたフランス領土を奪い返すことを目論みながら、カール5世の皇帝側に味方したり、フランソワ1世のフランス側に味方したりと動きます。オスマン帝国からヨーロッパを守るための協力でもありました。
また、ヘンリー8世自身は、男児の後継者に固執したことと浮気を重ね再婚を望んだことでキャサリンとの離婚を希望し、そのことで教皇クレメンス7世と対立もしました。
イタリア戦線からは、フランソワ1世が捕虜となった頃から離脱していましたが、その後もフランスと同盟を再開させるなどと関与は続くのです。
ヘンリー8世のことを以前テューダー朝の記事で紹介していますので、是非ご参照ください。
知っていると面白い! よく耳にするイギリス歴史の時代区分 <前編> ー テューダー朝とエリザベス朝
さて、フランソワ1世との争いも終わったかのように思えましたが、いいえ、まだ続きます・・・
2)フランソワ1世とのイタリア戦争終結
1529年の貴婦人の和約以後、次はミラノ公国を巡って1536年にイタリア戦争が起こりました。ミラノ公スフォルツァ家のフランチェスコ2世が後継者を残さず亡くなり、カール5世の息子フェリペが引き継ぐと、フランソワ1世が攻撃を仕掛けてきたのです。
1538年にニースの和約を結んで、トリノをフランスへ割譲し、一旦終了しますが、本質的にはイタリアの勢力範囲は変わっていませんでした。
そして1542年、フランスは今度はオスマン帝国と手を結び、攻撃を仕掛けてきます。カールの皇帝側は、イングランドのヘンリー8世の支援を受けて対抗します。
その後1544年、両国はクレピーの和約を結び、戦争は終結します。それからしばらくは、イタリアでの戦争は休戦となりました。そして、フランソワ1世が1547年に亡くなると、息子のアンリ2世がイタリア戦争を再開させることとなるのです。
3)プロテスタント勢力 シュマルカンデン戦争
さて、忙しいカール5世ですが、1544年のクレピーの和約でフランスとの対立をひと段落させると、今度はようやくプロテスタント勢力と向き合います。カールは宗教統一の回復を望んでいました。しかし、双方に妥協は見られず、1546年からプロテスタント勢力が結んだシュマルカンデン同盟側との戦争が起こります。
1547年ミュールベルクの戦いで、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ率いるシュマルカンデン同盟軍をカール5世の軍が破りました。その際、ザクセン公モーリッツは皇帝側として働き、同盟を崩壊させるに至ったのです。
弟のフェルディナントもカール5世に援軍を送り応戦しました。さらに、ボヘミアでのプロテスタント蜂起の鎮圧もしています。
しかしその後、皇帝の専制的支配に不満を持つ帝国領地からの反発を招きます。さらに1548年アウグスブルクの帝国議会で、プロテスタントを暫定的に認めたものの、カトリックに有利な内容である仮信条協定を結びます。これはカトリック教徒にもプロテスタント教徒にも満足できるものではありませんでした。
そして、1552年皇帝側についていたはずのモーリッツが反乱を起こします。モーリッツはもともとザクセン公のプロテスタント派だったのですが、カール5世からザクセン選帝侯位を与えられることを条件に、皇帝側についていたのです。けれど、シュマルカンデン戦争後のカール5世のやり方に大きな不満を抱いたのです。
モーリッツはカール5世の宿敵であるフランスのアンリ2世と手を組み、カール5世を襲撃します。そして、フランス軍はアルザス地方のメッツを奪います。カール5世はフェルディナントにモーリッツとの和平交渉を委ね、パッサウ条約が結ばれました。フェルディナントの手法はドイツ的なものがあり、プロテスタント諸侯の間でカールよりも人気があったのです。そして、カトリックとプロテスタントの平和的共存が約束されたのです。
しかし、このパッサウ条約締結後、今度はパッサウ条約の受諾に反対したアルブレヒト・アルキビアデスが反乱を起こし、応戦したモーリッツが戦死、アルブレヒトは敗戦してこのプロテスタントに対する戦いは終了しました。そして、1555年フェルディナントが帝国議会を招集し、アウクスブルクの和議が結ばれ、ルター派であるプロテスタントが容認されたのです。
4 カール5世、フェルディナント1世 晩年
1555年カール5世とフェルディナント1世の母親であるフアナが、40年以上の幽閉生活の後、75歳で亡くなりました。そして、ようやくカール5世は正式にカルロス1世としてスペイン王となりました。
しかし、その半年後の10月、カール(カルロス)は退位してスペイン中部の修道院で隠遁生活を送るのです。39歳のときに最愛の妻を亡くしてから、1人で戦い抜いた長い苦闘の日々に疲れ切っていたのでしょう。今回記載はしておりませんが、フランスとイタリア戦争を続け、プロテスタントやオスマン帝国と戦う合間には、アフリカへも遠征をしているのです。
神聖ローマ皇帝位は弟のフェルディナントが継承しました。
そして、スペインとネーデルラントの王位は、息子フェリペ2世に譲りました。
そして、退位から2年後1558年、58歳で亡くなりました。
フェルディナント1世は、神聖ローマ皇帝位を引き継ぎ、宗教の和平を維持し、オーストリア・ハンガリー帝国の土台を築きました。
1564年フェルディナント1世は、61歳でウィーンで生涯を閉じました。
ハプスブルク家は、それからオーストリア系とスペイン系に分かれることとなりました。そして、神聖ローマ皇帝位は、その後オーストリア系ハプスブルク家に引き継がれていくのです。