知ると面白いハプスブルク家 9) ヨーゼフ1世とカール6世兄弟ースペイン継承戦争
オーストリアから領土を広げて活躍していたハプスブルク家のストーリーをたどっています。
前回は、ついにスペインハプスブルク家がカルロス2世の死により断絶してしまったところまでお話しました。
今回は、そのあとに起こったスペイン継承戦争のストーリーを追いながら、ハプスブルク家のヨーゼフ1世とカール6世兄弟について見ていきましょう。
1 スペイン継承戦争 初期
生まれた時から病弱であったスペインハプスブルク家のカルロス2世は、2度の結婚からも後継者に恵まれませんでした。生前からすでに後継者争いが始まっていましたが、フランスのルイ14世の孫、アンジュー公フィリップを後継者に指名し、1700年に亡くなりました。
しかし、同じくスペインの継承を主張していたオーストリアハプスブルク家のレオポルド1世は、次男のカールを後継者として送ることを画策していました。
フランスがスペインをも支配し強大化することを危惧したイギリスとオランダは、オーストリア側につき、フランスを相手にスペイン継承戦争が始まったのです。
戦争の経過を見ていく上で、イギリスの有名な観光地の歴史とつながる人物のお話を紹介します。
その人物は、イギリス軍を率いて活躍した、マールバラ公ジョン・チャーチルです。
ジョン・チャーチルは、イギリスの名誉革命以来王となったウィリアム3世と共にオランダに渡り、イギリス、オランダとオーストリアがフランスに対抗するべく同盟を組むことに尽力しました。その後1702年ウィリアム3世が落馬による事故で亡くなった後も、アン女王の命を受けて対フランス戦争に従事します。
その後、このスペイン継承戦争の戦場はドイツのドナウ川流域まで及びます。そして、1704年8月ドナウ川北岸の町ブリンドハイムで、ジョン・チャーチルらの活躍により、イギリスとオーストリア連合軍が勝利しました。この戦いの功績を讃えられ、ジョン・チャーチルに国から土地が与えられました。ジョン・チャーチルはアン女王の資金援助を受けて、そこに壮大な宮殿を建てました。それが、ブレナム宮殿として今でも多くの観光客を魅了しています。
そのことにより、このドイツの町ブリンドハイムは、英語読みのブレナムとして知られるようになり、この時の戦いはブレナムの戦いと呼ばれています。
この時に一緒に活躍したハプスブルク家側の軍人はプリンツ・オイゲンでした。オイゲン公も戦いを勝利へ導いたことで、土地が献上され、ベルベデーレ宮殿を建設したことは前回お話しました。
マールバラ公とオイゲン公がこの戦いで戦友となり、彼らが建てた宮殿が現在イギリスとオーストリアで観光客を魅了しているという偶然も面白いですね。
このマールバラ公家は、ジョン・チャーチルの死後マールバラ公スペンサー家に引き継がれました。第二次世界大戦下のイギリスで首相として活躍したウィンストン・チャーチルは、このスペンサー家の出身で、このブレナム宮殿で誕生しました。ブレナム宮殿には、チャーチルが誕生したベッドも展示されており、チャーチルファンも魅了しています。
さて、話を戻しましょう。
1704年のブレナムの戦いが連合軍の勝利となった大きな戦いであったことを紹介しましたが、それまで1703年からオーストリア側は別のことでも苦しめられていたのです。
そのお話を、ハプスブルク家のヨーゼフ1世の紹介と合わせて見ていきましょう。
2 ヨーゼフ1世(1678ー1711年)
レオポルド1世の長男として誕生したヨーゼフ1世は、ハプスブルク家の後継者として育ちます。
そして、1687年にハンガリー国王に就任しました。しかし、当時のハンガリーでは、ハプスブルク家のハンガリーの統治に反発している人たちも少なくありませんでした。
1701年にスペイン継承戦争が起こると、ハンガリー国内のオーストリア駐留軍も離れていきました。そしてそのことを好機とみて、1703年反乱軍がハンガリーで蜂起します。その中心人物となったのが、ラーコーツィー・フェレンツ2世でした。
ラーコーツィー家はハンガリーの名門貴族で、トランシルバニア公国の君主でしたが、オスマン帝国の支配下に置かれていました。その後、1683年オスマン帝国がハプスブルク軍に敗退すると、ラーコーツィーはウィーンで皇帝の監視下に置かれていたのです。
ラーコーツィーの蜂起は勢いを増し、オーストリアは一時苦境を迎えました。
しかし、ここで先ほどお話したマールバラ公とオイゲン公たちが活躍したブレナムの戦いで連合軍が勝利をすると、ラーコーツィー反乱軍に対しても、オーストリアが優勢となりました。
1705年ヨーゼフ1世はラーコーツィー軍と和平交渉を進めましたが、合意には至りませんでした。ラーコーツィーはその後ポーランドへ亡命し、生涯亡命先のポーランドで過ごすこととなりました。
ブダペストの国会議事堂前にあるコシュート・ラヨシュ広場には、ラーコーツィー・フェレンツ2世の騎馬像を見ることができますよ。
その後、1705年レオポルド1世の死により、ヨーゼフ1世が27歳で皇帝を引き継ぎました。
しかし、残念ながらヨーゼフ1世の治世は長くは続きませんでした。
ヨーゼフ1世は、32歳の若さで亡くなってしまうのです。
3 スペイン継承戦争 後期
1704年ブレナムの戦いでオーストリア・イギリス・オランダ連合軍がフランス軍を破った一方で、イギリス軍は地中海へも進出します。ポルトガルがイギリス側につき、イギリスはジブラルタルを占領します。そして、ポルトガルに上陸していたハプスブルク家のカールはバルセロナへ入り、カルロス3世を名乗るまでになりました。しかし、その後フェリペ5世のフランス軍にマドリードを奪い返され、スペインでオーストリアとフランス軍の攻防戦は続きます。
一方、ドイツのバイエルンを制圧したマールバラ公とオイゲン公は、ネーデルラント領でフランス軍との攻勢を続け、ここでも優位を示していきます。しかし、次第にドイツ・オランダの領邦国家の中からは戦争を反対視する声が出てきます。それでもさらに攻撃を続けていたマールバラ公でしたが、アン女王も国内の政治的な動きからも和平派へと転じていき、マールバラ公とさらに友人であったマールバラ公の妻サラとも関係が悪化していきます。
1709年、フランス側でも和睦を検討し始めた矢先、マールバラ公・オイゲン公の軍はフランス軍と対立し、勝利を収めますが、両軍共に多数の死傷者を出す結果となってしまいます。
1710年、マドリードではフランスからの援軍を受けたフェリペ5世が優位に立っていました。
そんな時、ヨーロッパを戦場として長期化したスペイン継承戦争に、転機が訪れました。
1711年4月、神聖ローマ皇帝であったヨーゼフ1世が、天然痘にかかり息を引き取りました。
ヨーゼフ1世には後継がいなかったため、弟のカールが後を継ぐためにオーストリアへ帰国することになったのです。
では次に、カール6世のストーリーを追いながら、スペイン継承戦争のその後も見ていきましょう。
4 カール6世 (1685ー1740年)
レオポルト1世の次男として誕生したカールは、兄のヨーゼフが神聖ローマ皇帝の後継者として育てられた一方で、10代の頃からスペインハプスブルク家断絶後のスペイン王位後継者として擁立され、1703年18歳でにポルトガルへと渡ります。
1701年スペインハプスブルク家のカルロス2世が亡くなる際、後継者としてフランスルイ14世の孫であるフィリップが指名されましたが、オーストリア側はカールがスペイン王を引き継ぐことを主張し、スペイン継承戦争が起こりました。
戦争の最中、1708年カールはバルセロナで、神聖ローマ帝国領邦国家の一つであるブラウンシュバイク=ヴォルフェンビュッテル家のエリーザベト・クリスティーネと結婚します。
この時は、カールはスペイン王として生きていくつもりだったのでしょう。
しかし、1711年兄のヨーゼフ1世が崩御しました。
ヨーゼフ1世と皇后の間には娘が2人いましたが、男子の後継者がいませんでした。そこで、カールは神聖ローマ帝国皇帝選出のためにオーストリアに戻り、カール6世として皇帝位を引き継ぐこととなりました。
皇帝となったカール6世の治世の中で、2つのことに焦点を当てて見ていきます。
1)スペイン継承戦争の終結
カールが神聖ローマ皇帝となり、もしカールがスペイン王も継ぐことになると、ハプスブルク家はかつてのカール5世のように広大な領土を領有することになり、ヨーロッパ諸国の均衡が保たれなくなってしまいます。
そのことを恐れたイギリスは、カールのスペイン王への擁立には消極的になります。
そして、1712年かねてから和平に積極的であったイギリスとフランスの和平交渉が進められることになりました。
では、マールバラ公とオイゲン公はどうなったのでしょう?
マールバラ公は、1711年末オーストリアからイギリスに支払われた軍資金横領が報告され、最高司令官の地位を失いイギリスに帰国します。しかし帰国後も居場所はなく、オランダ、ドイツなどヨーロッパを彷徨い、いく先々で歓迎されたものの、イギリスで戦争での功労を讃えられることはありませんでした。1714年アン女王が亡くなると、イギリスに帰国、ブレナム宮殿の建設に従事するも、完成を見ずに1722年72歳で亡くなりました。
オイゲン公は、1712年フランスにて再びフランス軍と戦っていましたが、マールバラ公が罷免された後、イギリス軍は戦争に積極的に参加しなかったために敗戦。それを機に和平交渉へと至りました。
その後オイゲン公は、1714年からウィーンでベルベデーレ宮殿の建設を着工しています。
1713年オーストリアを除く各国の間でユトレヒト条約が結ばれました。各国の領土が定められ、フランス側はフェリペ5世のスペイン王が承認され、フェリペ5世はフランスの王位請求権を永遠に放棄することとなりました。
この時点ではオーストリアのカール6世はまだスペイン王位も主張していたため、ユトレヒト条約で和平は結びませんでした。しかし結局、諸国が味方につかない状況ではスペイン王位は諦めるしかなく、翌年1714年にオーストリアとフランスの間でラシュタット条約が結ばれ、戦争は終結しました。
2)娘マリア・テレジアの家督相続の承認
カール6世はスペイン継承戦争後も、引き続きハンガリーやトルコなどとの争いにも対応し、ハプスブルク君主史上最大の領土を確保するに至りました。しかし、そのほかにカール6世にとっての大きな課題は、後継者問題の対策を着実に進めることだったのです。
カール6世が即位した時には、エリーザベト・クリスティンとの間にはまだ子供がいませんでした。そこでまず、カールはユトレヒト条約が結ばれた時と同じ頃、ハプスブルク家の今後の相続について定めた国事詔書(ドイツ語でPragmatische Sanktion)を定めました。
これによると、王位継承順位は長男→次男→それ以外の男系系統そして、新たに男系が完全に断絶した場合、最後の王位継承者の長女→その子孫による女系系統が加えられたのです。
この詔書が出された時には、カールにはまだ子供がいなかったので、カール6世自らがスペインでの継承権争いに関わった際に、継承権を定める重要性を感じてこの詔書を進めたのだと考えられます。
それから、カールとエリーザベトの間に1716年男の子のレオポルドを授かりますが、1歳にならないうちに夭逝してしまいます。そして、1717年に長女のマリア・テレジアが誕生しました。その後も2人の女の子が生まれますが、男の子は授かりませんでした。
そして、結果的にカール6世が定めた国事詔書に基づいて、マリア・テレジアが家督を継ぐこととなったのです。
この国事詔書は、ハプスブルクの各領邦から承認を得る必要があったため、カール6世はボヘミア、ハンガリー、クロアチア、トランシルヴァニアなどの議会から承認を得るために奔走しました。さらに、イギリスやドイツのプロイセンなどの外国諸国からの承認を取ることにも成功しましたが、ヨーゼフ1世の娘たちの夫であるバイエルン選帝侯とザクセン選帝侯や、フランスからの承認を得ることはできませんでした。
そして、1733年にポーランド継承戦争が起こります。
ここでは、領土を手放す代わりにザクセンとフランスからの相続の承認を受けることに成功しました。
1736年マリア・テレジアはフランツ・シュテファンと結婚をします。
そして、1740年カール6世は56歳で崩御しました。
その後はしかし、カール6世の思惑通りに、マリア・テレジアの王位継承が問題なく認められることはありませんでした。そして、オーストリア継承戦争が起こることとなったのです。