知ると面白いハプスブルク家 13) フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリザベート(シシィ)
オーストリアを中心にヨーロッパで名を馳せたハプスブルク家のストーリーを追っています。
ナポレオンの登場によりヨーロッパは混乱に陥りましたが、1815年フランツ1世統治下のウィーンで行われたウィーン会議にて、ヨーロッパの混沌が収められました。
その後、フランツ1世が亡くなると、宰相メッテルニヒが実権を握る中、心身ともに病んでいた長男のフェルディナンド1世が皇帝につきました。
しかし、彼の統治は1848年の革命により、終わりを迎えました。
そして、事実上ハプスブルク家の最後の皇帝と言われるフランツ・ヨーゼフ1世が皇帝に就任します。
フランツ・ヨーゼフ1世という名前は有名ですが、その妃となったエリザベート(シシィ)の方がさらに有名かもしれませんね。
今回は、フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートのストーリーを3部に分けて追いながら、終焉につながるハプスブルク家の動きを見ていきます。
長い記事になるので、どうぞお茶菓子を用意しながらゆっくりお付き合いください。
1 フランツ・ヨーゼフ1世 (1830ー1916年):<第1部> 24歳で結婚するまで
18歳で皇帝に即位したフランツ・ヨーゼフ1世は、その後68年間というハプスブルク家最長の在位を誇りました。
彼が皇帝に就任したとき、まだフェルディナンド1世の弟である父親フランツ・カールは生きていました。継承順位では父親が皇帝になるはずでしたが、息子が継ぐことになった背景には、母親ゾフィーの存在が大きく影響していました。
1) ゾフィー・フォン・バイエルン(1805ー1872年)
バイエルン王マクシミリアンの3女であるゾフィーは、1824年ハプスブルク家の皇帝フランツ1世の息子であるフランツ・カールのもとへ嫁ぎました。しかし、本来野心家であった彼女は、目立たない存在のカールに失望していました。当時嫁ぎ先のウィーンでは、ナポレオンの息子ライヒシュタット公がシェーンブルン宮殿で監視下に置かれていました。ゾフィーは6歳年下のライヒシュタット公と仲がよく、ロマンスの噂も浮上していたという話もあります。
1830年に息子フランツ(後のフランツ・ヨーゼフ)が誕生しました。
義兄のフェルディナンドが病弱であったために、フランツが時期皇帝になることは十分考えられる状況でした。そこで、ゾフィーは幼少の時からフランツに皇帝になるための教育を受けさせました。フランツには自由な時間がほとんど与えられず、君主王朝的な考えが強化されて育ちました。その時のことが、後の勤勉な皇帝の姿に影響していると言えます。
2)1848年3月革命と1853年暗殺未遂事件
1848年フランスで起きた2月革命のあおりを受け、ヨーロッパ各地で暴動がおきました。
ウィーン体制により抑圧されていた自由主義運動の蜂起です。ウィーンでは3月革命として市民や学生による暴動が起き、宰相メッテルニヒが辞任し、ロンドンへと亡命しました。
それから、ハプスブルク帝国内のハンガリー、チェコ、イタリアなどでも独立運動が起こり、暴徒は長期化します。そして帝国側は、自由主義を認める憲法制定などを約束することとなりましたが、ちょうどその頃フランスで革命軍が鎮圧されたことに続き、オーストリアでも自由主義の革命運動は抑え込まれることとなりました。
モラヴィアのオロモウツに亡命していた皇帝一家は、1848年12月、弱体化したフェルディナンド皇帝を退位させ、王朝に積極的な新しい体制を築くべくフランツ・ヨーゼフ1世が即位することとなったのです。
その際、父であるフランツ・カールは妻ゾフィからの強い説得により、継承権の放棄にサインをさせられたました。
当初はフランツ2世として即位することになっていましたが、国民に人気のあったヨーゼフ2世の名前をミドルネームにいただき、フランツ・ヨーゼフ1世皇帝が誕生したのです。
ヨーゼフ2世のお話は、こちらからご覧いただけます。
知ると面白いハプスブルク家 11) ヨーゼフ2世とレオポルド2世兄弟 マリアテレジアの息子たち
なお、フェルディナンド皇帝はプラハ城へ退去し、その後82歳まで長命を保ちました。
フランツ・ヨーゼフが即位すると、実際進歩勢力の期待は裏切られ、革命軍は厳しく弾圧されることとなりました。
そして、1853年フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人のヤーノシュ・リベー二により襲撃されてしまいます。結果としては軽傷で生き残り、リベーニは絞首刑に処せられました。この事件はかえって国民の同情を買うことになり、その後フランツ・ヨーゼフに好意的になったということです。
フランツ・ヨーゼフの無事を感謝する気持ちを込めて、弟のマクシミリアン主導で、ウィーンにボティーフ教会が建てられました。
3)お見合いと結婚
母親のゾフィは、バイエルンのヴィッテルスバッハ家の妹であるマリア・ルートヴィカの長女ヘレーネとフランツ・ヨーゼフを結婚させたがっていました。
そこで、1853年の夏、バイエルンとウィーンの中間地点となるザルツカンマーグートのバート・イシュルでお見合いが設定されました。
そして、お見合いの場にはヘレーネの妹である15歳のエリザベート(シシィ)も一緒にやってきました。
フランツ・ヨーゼフはそこで無邪気で愛らしいエリザベートに一目惚れをしてしまったのです。そして、母親のゾフィの意見に逆らい、ヘレーネではなくエリザベートとの結婚を主張したのです。
シシィもまた、その場でフランツ・ヨーゼフに恋をし、2人の結婚は幸せな結婚となるはずでした。
1854年4月24日24歳のフランツ・ヨーゼフ1世と16歳のエリザベートは、ウィーンのアウグスティーナ教会で結婚式を挙げました。
しかし、憧れ抱いてウィーンの皇帝の元へ嫁いだシシィの結婚生活は、幸せなものではありませんでした。
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では今度はシシィの視点から結婚生活の初期の頃までを見ていきましょう。
2 エリザベート(シシィ)(1837ー1898年):<第1部> ウィーンでの結婚生活の始まり
1)バイエルンでのびのび育ったシシィ
バイエルン王家のヴィッテルスバッハ家の分家であるマクシミリアンとルドヴィカの次女として生まれたエリザベートは、ミュンヘン郊外にあるシュタルンベルク湖近くのポッセンホーフェン城で育ちました。
格式ばったしきたりを嫌う父親マックスを慕い、田舎でのびのびと育ったシシィが、突然オーストリアの皇帝に嫁ぐことが決まったのです。それから、結婚式までの間に急速でお妃教育を受けることになりました。
そして、1854年シシィはフランツ・ヨーゼフ皇帝と結婚をし、ウィーンの宮廷で暮らすこととなったのです。
2) ウィーンでの苦しい結婚生活の始まり
しかし、シシィはウィーン宮廷での保守的な生活に慣れることができず、また義母であるゾフィ大公妃からの厳格な対応にも苦しめられることとなりました。
そんな中、シシィは1855年に長女のゾフィを、1856年に次女のギーゼラを産みます。
けれど、未熟な義理の娘に大切な皇帝の子供達の教育を任せることはできないと、ゾフィ大公妃はシシィから子供たちを取り上げてしまい、子育てをさせませんでした。また当時は、それが宮廷社会では当たり前でもありました。
しかし、シシィはそのことに非常に心を痛め、さらに長女のゾフィが1857年2歳になる前に亡くなると、シシィの苦しみは悪化していきました。
1858年には、長男ルドルフが誕生しました。
そして、未来の皇帝となるルドルフもまた、シシィの手から取り上げられてしまったのです。
3) 外国での療養
1859年ころから、シシィは謎の病いにかかりふさぎ込むようになりました。
抑圧的な状況から逃避したいという強い気持ちの表れだったのでしょう。
療養の目的で、1860から1861年にかけて半年間、シシィはマデイラ島へ旅に出ました。そして一度宮廷に戻ると、またすぐに体調不良に陥り、今度はコルフ島へ滞在しました。
そして、1861年再びウィーンの宮廷に戻ったシシィは、一種の自信に満ちた表情で、少女から美しい女性へと成長を遂げていたと言われています。
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あれほどシシィを熱愛し、母親が選んだ相手ではなく自分で選んで結婚したはずなのに、フランツ・ヨーゼフはそんなシシィの味方になれなかったのでしょうか。
はい、なれなかったのです。
なぜなら、その頃オーストリアは外交政策でたくさんの大きな問題を抱えており、フランツ・ヨーゼフは休む暇なく公務に取り組んでいたのです。
フランツ・ヨーゼフのその後について、ハプスブルク帝国の領土問題に焦点を当てて見ていきましょう。
3 フランツ・ヨーゼフ1世 :<第2部> 外交紛争が続くオーストリア
1)クリミア戦争(1853−1856年)
フランツ・ヨーゼフとエリザベートが結婚した頃、オスマン帝国の支配下にあったエルサレムでは、聖墳墓教会の使用をめぐる宗教紛争が起きていました。
ここはキリスト教徒にとって神聖視されていた場所で、さまざまなキリスト教宗派によって共有されていました。しかし、19世紀初頭以後ギリシャ正教のキリスト教徒が立場を拡大してきました。それに対して、フランス皇帝ナポレオン3世が介入し、オスマン帝国に聖地の管理権を認めさせたのです。
このことによりロシアのニコライ1世は正教派キリスト教徒の保護を目的にオスマン帝国への干渉を強め、1853年宣戦布告したのです。そして、ドナウ公国と呼ばれるオスマン帝国宗主権化にあったモルダビア公国とワラビア公国へと侵攻しました。
フランスとイギリスは、ロシアの勢力拡大を防ぐために、オスマン帝国側につきました。
そして、オーストリアはこの戦争では中立を宣言しました。
ドナウ公国を占領された状態でオーストリアが参戦すると、約5万人いるバルカン半島のキリスト教徒が皇帝軍の兵士となって戦うことになってしまうからです。
しかしこのことは、ロシア皇帝のニコライ1世から反感を買うことになりました。なぜなら、ハプスブルク家は1848年から1849年の革命の際、反乱軍を鎮圧する際にロシアからの支援を受けていたからです。
さらにオーストリアは、1854年6月ロシア国境に兵を集めてロシアに圧力をかけ、ロシアのドナウ公国からの撤退に一役買ったのです。
クリミア戦争はロシアの敗北となり、1856年パリ条約が結ばれました。
この戦争により、オーストリアとロシアの結びつきが崩壊したのと同時に、オーストリアは西欧諸国からも支援が不十分であると不満を買うことになりました。
また、クリミア戦争で活躍した人物の1人に、フローレンス・ナイチンゲールがいました。
イギリスから戦地に赴いて看護をし、その経験から病院・医療の改革に大いに貢献したのです。
2)1859年 イタリア統一戦争
1848年−1849年オーストリアで3月革命が起きた頃、イタリアでも独立運動が起きていましたが、その動きは鎮圧されました。
クリミア戦争後、ヨーロッパでのオーストリアの孤立化の動きが出ると、イタリアはフランスのナポレオン3世を味方につけ、イタリア独立運動を再開しました。
1859年イタリア内で独立戦争の動きが高まると、オーストリアからの武装解除要求に応じないサルディニアとの間で戦争がおきました。
この戦いには、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ自らが指揮をとりイタリアで参戦しました。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルディニア王国にナポレオン3世のフランスが加担し、イタリア北部ロンバルディア地方のソルフェリーノで決戦となりました。
そして、オーストリア軍はフランス・サルディニア連合軍を前に敗北し、和平を結びました。
オーストリアはヴェネチアを保持したものの、ロンバルディアをサルディニア王国へ引き渡すこととなりました。
なお、1856年エリザベートはフランツ・ヨーゼフと一緒に北イタリアを訪問しており、その際北イタリア側に同情的だったのです。
3)1866年 プロイセンとの戦い
オーストリアはさらにプロイセンとの戦いに悩まされます。
19世紀後半、ドイツでも民族主義が高まり1848年ドイツとデンマークの堺にあるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方を巡ってドイツとデンマークの間で争いがおきました。この時はロシア・イギリスの圧力によりデンマーク側の勝利となりました。
その後、1864年プロイセンのビスマルクはオーストリアと連携して第二次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争を仕掛け、この地をプロイセンとオーストリアの共同統治とすることにしたのです。
しかし、同時にドイツ国内でもドイツ統一の動きがあり、オーストリアハプスブルク家のドイツへの介入を排除したい思惑がありました。
シュレスヴィヒをプロイセン領、ホルシュタインをオーストリア領としていたのですが、1866年6月7日シュレスヴィヒのプロイセン軍がホルシュタインに侵入し、普墺戦争が勃発したのです。
バイエルン、ザクセン、ヘッセンなどはオーストリア側につきましたが、北ドイツやオーストリアが領有する北イタリアもプロイセン側につきました。
そして、1866年7月3日ケーニヒグレーツの戦いでオーストリア軍は大敗し休戦、8月23日にプラハ条約が締結されました。
シュレスヴィヒ・ホルシュタインの領土はプロイセンの領土へ、北イタリアのヴェネチアはイタリア王国への帰属が決められ、オーストリアがドイツ統一へ干渉しないことも約束させられました。
ドイツ、イタリア方面への発言権を失ったオーストリアは、その後中・東欧へと意識を向けていくことになりました。
4)オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生
プロイセンとの敗戦により、自国領のハンガリーとチェコで起きている民族運動とどのように向き合うか模索することになりました。
そして、フランツ・ヨーゼフはハンガリーと協調路線を歩むことにしたのです。
その決断には、ハンガリーに好意的であった皇后エリザベートの意見も影響していたと言われています。
1867年 オーストリアとハンガリーはドイツ語で”妥協”を意味するアウスグライヒの協定を結びました。
この協定により、オーストリアとハンガリーそれぞれに自立した政府・議会・憲法を有することとなり、オーストリアの皇帝とハンガリー王国の国王をハプスブルク家の当主が兼ねるというオーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生したのです。
1867年 フランツ・ヨーゼフとエリザベートは、ハンガリーのブダペストにあるマーチャーシュ教会でハンガリー国王・王妃として戴冠しました。
その際、ハンガリー国は2人にブダペスト郊外にあるゲデレー宮殿を献上しました。
ハンガリーの初代首相に選ばれた人物はアンドラーシでした。
ブダペストの英雄広場と中心市街地を結ぶ通りをアンドラーシ通りと呼びますが、この名はアンドラーシがこの通りの建設支援者だったことにちなんでいます。
またこの頃、ハプスブルク家には悲しい知らせに衝撃が走りました。
1864年新天地メキシコで皇帝の地位についていたフランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンが、メキシコ統治に失敗し、1867年銃殺されてしまったのです。
このことは、フランツ・ヨーゼフ一家に悲しみをもたらし、またマクシミリアンの母親であるゾフィ大公もオーストリアに移送された遺体と対面してからすっかり気落ちし、生きる気力を失っていったそうです。
ゾフィ大公はその後、1872年肺炎を患い67歳で亡くなりました。
4 エリザベート(シシィ): <第2部> ハンガリーに活路を見出す
シシィは、フランツ・ヨーゼフが民族主義と戦う一方で、自立を目指すイタリアやハンガリーに同調的でした。特にハンガリーには思い入れが強く、ハンガリー語も習得し、ハンガリーのゲデレー宮殿にも好んで滞在し、社交や乗馬を楽しんでいました。
バイエルンで王妃となる教育を受けていた際、先生として雇われた人がハンガリー人だったことも影響していたのかもしれません。
1868年には末娘のマリー・ヴァレリーが誕生し、シシィは自らハンガリーで彼女を育てました。この頃には、ゾフィ大公が子育てに口出しすることもなくなっていたようです。
またハンガリー人もシシィに対して好意的で、ブダペストにはエリザベートという名の橋もあります。
シシィはこうして自分の道を切り開いて行った中で、美に対する崇拝意識がありました。自らの体型を維持すべく、王宮に体操室を作り、馬術にものめり込んでいたそうです。
ウィーンのホーフブルク王宮では、シシィの体操道具が残されている部屋を見学することができますよ。
5 フランツ・ヨーゼフ1世: <第3部ー1> バルカン半島への干渉と悲劇の始まり
フランツ・ヨーゼフは、イタリア領土を失った後、バルカン半島に代わりの国が見つかるのではないかという期待を抱いていました。しかし、多民族国家が集まり、かつ列強国が利害を求めて争う場所であったバルカン半島は後に「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほど危険な地域だったのです。
バルカン半島情勢と絡みつつ、次々と不幸に襲われたハプスブルク家は終焉を迎えることなります。
1)露土戦争とベルリン会議 1877ー1878年
バルカン半島はオスマン帝国の配下にありましたが、1875年ボスニア・ヘルツェゴビナでオスマン帝国に対する蜂起が起こりました。その後ブルガリアでも蜂起が起こり、ロシアの支援を受けてセルビアとモンテネグロがオスマン帝国に宣戦しました。
バルカン進出を狙うロシアとオーストリア=ハンガリー二重帝国は、ライヒシュタット協定を結び、ロシアがベッサラビアとコーカサスを、そしてオーストリア=ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナを獲得することでオーストリア=ハンガリーが中立を維持することを取り決めました。
1877年3月末ヨーロッパ各国はロンドン議定書に署名をし、オスマン帝国へ早期の改革を求めましたが、オスマン帝国はこの受け入れを拒否し、4月24日ロシアはオスマン帝国に宣戦布告し露土戦争(ロシア=トルコ戦争)が開戦しました。
そして、1878年3月ロシアが勝利をおさめます。サン・ステファノ条約が結ばれセルビア、ルーマニア、モンテネグロ各公国のオスマン帝国からの独立が認められ、ブルガリアはロシアの影響を強く受けたブルガリア公国が成立しました。
しかし、ロシアの軍事勢力拡大を危惧したヨーロッパ列強は、1878年6月ドイツ宰相ビスマルク主催によるベルリン会議を開催し、国際紛争の調停を行うことになりました。
セルビア公国、ルーマニア公国、モンテネグロ公国は正式な独立が承認され、ブルガリアはマケドニア、東ルメリ自治州、ブルガリアの3つに分割が決まり、オスマン帝国を宗主国とする自治州としての独立が認められました。
そして、ボスニア・ヘルツェゴビナはライヒシュタット協定通り、オーストリアの統治権が認められたのです。ここはスラブ民族グループが大多数をしめていました。
2)1886年 ルドルフ皇太子の自殺
フランツ・ヨーゼフとエリザベートの長男ルドルフは、生まれた時から皇太子として厳しく育てられました。母親のエリザベートは宮廷を留守にし育児には関わらず、ルドルフは精神的にも肉体的にも追い込まれていました。
1865年ルドルフの教育の現状を知ったシシィはひどくショックを受け、フランツ・ヨーゼフにルドルフの教育の改善を求め、初めて自らルドルフと関わるようになりました。
その後最先端の教育を受けたルドルフは、リベラルでオープンな心を持った青年へと育ちました。
そして、保守的な父親フランツ・ヨーゼフ皇帝としばしば意見が対立することとなりました。ジャーナリスト活動も行っていたルドルフは、リベラルな政治見解を偽名で新聞に投稿することもあったようです。
1881年23歳のルドルフは、ベルギーの王女ステファニーと結婚します。2人の間には娘のエリザベートが誕生しますが、夫婦仲は冷え切っていきます。そして、女優のミッツィ・カスパールと愛人関係になりました。
そんな中、1889年1月30日ウィーン郊外にある狩猟の館マイヤーリンクでマリー・ヴェッツェラと共に亡くなっているルドルフ皇太子が発見されたのです。
父親とは政治的考え方から対立しており、ミッツィ・カスパールと共に死にたかったが彼女から断られたため、マリー・ヴェッツェラを巻き添えにして自殺したと言われています。
はじめにマリーを銃で打った後、自らも銃で自殺した、と。
しかし、これは自殺ではなく暗殺だという説もあり、真相は明らかになっていません。
ルドルフとマリーの心中を題材にした作品『うたかたの恋』は映画化もされ、バレエやミュージカルでも上映されています。
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フランツ・ヨーゼフのストーリー第3部はまだ続きますが、先にシシィのストーリー第3部を見ていきます。
6 エリザベート(シシィ) : <第3部>ジュネーブでの最期
1883年ウィーンのブルク劇場に、女優カタリーナ・シュラットが専属女優として雇われ、人気を博しました。そして、エリザベートとも知り合いになりました。
彼女に好感を抱いたエリザベートは、率先して彼女をフランツ・ヨーゼフに紹介し、フランツ・ヨーゼフが彼女と仲良くなることを目論んでいたかのように振る舞うようになりました。
このことは、娘のマリー・ヴァレリーも困惑していたようですが、エリザベートは自ら旅へ出ることを好み、その間フランツ・ヨーゼフに寂しい思いをさせないようにわざと女性を紹介したのではとも言われています。
1889年ルドルフ皇太子の死後、エリザベートは黒い服ばかりを身につけ、うつ病が悪化し死への憧れを抱くようになりました。
そして、1898年シシィは旅先のジュネーブでイタリア人のアナーキスト、ルイジ・ルキーニに暗殺されてしまうのです。
ジュネーブで滞在していたホテルボー・リバージュを出てレマン湖の船着場に向かう途中、刃物を持ったルキーニに襲われたシシィは、一度起き上がり船に乗船したものの、すぐに倒れ、再びホテルへ運ばれた後息を引き取りました。60歳でした。
ウィーンでこの知らせを聞いたフランツ・ヨーゼフは、あまりの悲しみに泣き崩れたのです。
王宮のフランツ・ヨーゼフの執務室には、シシィの肖像画が飾られており、忙しさですれ違う日々でも、毎日シシィのことを思っていたのです。
7 フランツ・ヨーゼフ1世: <第3部ー2> ハプスブルク家の終焉
1893年以降、オーストリア国内でも過激主義的な考え方が出始め、フランツ・ヨーゼフは君主制を象徴する皇帝となっていきました。
1896年、フランツ・ヨーゼフの弟カール・ルートヴィヒ大公が死去すると、フランツ・ヨーゼフはカールの長男であるフランツ・フェルディナンドを帝位後継者に指名しました。
しかし実際、諸民族との融和を目指すフランツ・ヨーゼフと、国粋主義的な考え方をするフェルディナントとは意見が対立していました。また結婚の問題においても、身分不相応な相手との結婚を望むフェルディナントと対立し、フランツ・ヨーゼフは1900年の結婚式にも出席しませんでした。
ベルリン会議でのロシアの対応に不信感を抱き、セルビアはオーストリア=ハンガリー帝国に接近するようになっていました。しかし、1908年オスマン帝国で青年トルコ革命が勃発すると、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言しました。
そのことでセルビアとオーストリア・ハンガリーの関係は悪化し、帝国内のスラブ系民族を刺激することになったのです。
さらに、1912年ロシア主導のもと反オスマン同盟であるバルカン同盟が結成され、1913年バルカン同盟とオスマン帝国との戦いで同盟側が勝利を収めます。それから、セルビアのナショナリズムの考えが高まり、反オーストリア・ハンガリーの感情が広まっていきました。
1914年6月28日オーストリアの皇太子フェルディナンドと妻のゾフィー・ホテクはボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪問しました。そして、そこで2人はセルビア人により暗殺されてしまうのです。
このことを受け、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦の勃発へとつながったのです。
開戦により、フランツ・ヨーゼフは参謀総長を勤めた軍人フランツ・コンラートに権力を譲り、皇帝は事実上支配者から退きました。
1916年不穏な戦況報告を受けたフランツ・ヨーゼフは、戦争の終結を望みながらも衰弱していき、肺炎にかかり86歳で崩御しました。
1918年オーストリアは敗戦し、ハプスブルク家はいよいよ次回終わりを迎えます。
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シシィのストーリーは、古くから映画やミュージカル作品が作られています。
女優ロミー・シュナイダーがシシィを演じた長編映画は、とても見応えがありおすすめです。